中国近世期における家族礼制の解釈史―清代初期礼学の視座から

新田 元規

 本稿は、中国近世期における家族礼制(喪葬・祭祀・継承・親族組織)の解釈学を題材とし、古代礼制とその解釈が、現実の礼秩序とどのように接点を持ち、また、それは近世期中国の歴史的背景とどう関係しているかを論じた。「家礼の編纂・普及」「宗族の形成」といった近世期における家族礼制の動向を、同時期の歴史的背景と関連させて理解する先行研究の方向性を前提とするが、同時に、帝制期中国における礼制・礼学史の通時的・循環的側面も踏まえて、近世期礼学の動向の特質を再検討している。具体的には、通時的・循環的観点を導入することにより、「古代礼制の歴史的制約」、「家族礼制の機能としての《家の礼教化》《士大夫の身分表示》」といった問題を設定している。検討対象となる時期は、宋から清代初期にわたるが、中でも、当該時期における解釈の基調に沿う清代初期礼学の成果を多く参照し、その着眼や歴史的整理を活用した。

第一章では、本稿が、視座として用いる清代初期の礼学者たちの動向について、①万斯大・斯同兄弟の活動、②徐乾学のもとでの『読礼通考』の編纂、③毛奇齡とその門人集団、の三項から論じ、清初期礼学の背景となった家族・地域の状況を確認した。

第二章では、北宋の礼制論争である濮議と、後代におけるその評価の推移をとりあげ、家族礼制が普遍性と身分に応じた特殊性とを兼備することを論じた。濮議は、「傍統から入継した皇帝の生父に対する礼遇」を争点とし、その前哨戦に当たる礼制論争と共通して、理想君主論としての含意が色濃い。明末清初に至ると、柴紹炳は、「財産目当ての安易な出継やこれに起因する訴訟の頻発をどう抑止するか」という民間継承論に即した問題意識に立って濮議を評価し、「実父母への情愛を抑制せよ」と説くいわゆる「皇伯説」を否定的に論じた。理想君主論から民間継承論へという文脈の移し替えによる濮議評価のこうした転換は、士庶の家族礼制について、「血縁原理と統治原理の調整」を主題とする皇帝の家族礼制論とは別個の問題が存在することを示している。

第三章では、濮議と並行して北宋期に、皇帝継承論の上で、近世期礼学の性格を反映する転換が生じていることを論じた。劉敞は、「為兄後議」において、君主身分の継承原理の特殊性を論拠に、世代関係を基準とした旧来の継承解釈を批判し、君位の引き継ぎ関係を基準とする新説を提起した。清初の万斯同は、歴代宗廟制の祧遷を整理した『廟制図考』を著わし、劉敞説に準拠する立場から、世代基準論によって運用されていた晋朝廟制を批判的に記述しており、万氏の成果を通じて、劉敞説の画期性を把握することができる。

第四章では、皇帝継承をめぐる議論を発端として、士庶身分の家族礼制について解釈上の課題が析出される経緯をたどった。嘉靖大礼議において、世宗派の霍韜は、古礼における継承が世襲貴族層を対象とした祭祀・喪葬権の引き継ぎ関係であったことを根拠に、継承が父子関係を必須の構成要素としないことを説明づけた。顧景星ら清初の論者は、大礼議の影響のもと、「皇帝身分の特殊性」から「封建礼制の歴史的固有性」への観点の切り換えを推し進め、「経伝記載の継承関係とは、すべて封建特権の引き継ぎを指している」という認識に到達している。また、田汝成を典型として、より穏健な論者たちは、継承の原義を確認した上で、帝制期中国におけるその応用の必然性を説明づけ、士庶身分を対象とする家族礼制解釈の根幹的課題が、「歴史・身分の制約を解除して、汎用化をはかる」という点にあることを浮かび上がらせている。

第五章では、経伝記載の古礼が、士庶の家族礼制に対し、限定的ではあるが、規範性を発揮する回路が確保されていることを論じた。礼制を基礎づける三要素(「古礼」「国法」「人情」)の関係を一般的に考える限りには、古礼が直接に作用する余地は無いかに思われる。しかし、明代中期以後、継承を扱った論説においては、古礼の為人後礼と同時代の立継の内実の差異を認識した上で、前者から後者へと汎用化された歴史的必然性を説明する論説が著された。また、立継をめぐる紛争案件において、立継への干渉を排除するには、為人後礼の原則はかえって好便であり、郝敬の立継論を典型に、紛争当事者が、古礼の原義をたてにとって立場を補強している事例が見られる。こうした事例から、実際の立継案件においても、礼制の基礎づけ要素として、「古礼」が機能する状況があることが確認できる。

第六章では、合法性に疑いのある立継(殤後立継・間代立継)を、応用的な解釈によって正当化する類の議論を題材にとりあげ、古礼の規範性を検討した。殤後立継(夭折者のための立継)の可否を左右する経文について、元の陳澔は、新たに、殤後立継を可とする意味で解した。清代、司法の場において、喪服小記のこの経文を引照して断案した事例が見られるが、そこでは、陳澔説が踏まえられており、経義が例外的に法源として引照される場合に、随意の解釈が行われているわけではないことが確認できる。顧炎武は、陳澔の新解釈に拠った殤後立継を行なおうとしたが、これを断念して、一代を隔てて立嗣する(「間代立継」)という説明づけを採用している。顧炎武の措置の正当性を、徐乾学は、先行学説、六朝期の歴史的先例、さらに常識的感覚を根拠として論証し、後代には顧・徐の事例が、間代立継の規範的先例となった。顧炎武の立継をめぐる一件と、間代立継に代替する「独子兼祧」をめぐる議論からは、経学者が、国法・人情による基礎づけに飽き足らず、ことさらに古礼への直接的な基礎づけを確保しようとしていることを読み取りうる。

第七章では、「嫡孫承重服」を題材に、古礼の歴史制約性について、二種の礼学的思考を類型的に把握した。「承重」の「重」(「重大なる宗廟主祭権の継承」)概念に関して、毛奇齢を典型に、歴史的観点に立つ論者は、宗廟主祭権は爵位・封土と一体ではじめて「重」を構成しうると見做し、「承重服をはじめ嫡庶の区別をつける家族礼制は、封建特権の世襲という条件を欠いては機能しえない」と考える。これに対し、万斯大ら多数派は、「重」とは、宗廟主祭権、嫡系の人格(「正体」)のみによって構成されると見做し、封建特権の世襲という條件と無関係に、帝制期中国の士庶身分にあっても承重服を実施できると考える。承重服をめぐるこうした二様の観点の対立は、晋代以来、同様の議論配置のもとで繰り返したちあらわれており、一方は、古礼とその封建制との不可分なることを強調して単純な尚古主義を克服し、また一方は、解釈上の操作によって、古礼の歴史制約性を低く見積もり、帝制期におけるその汎用化を果たしている。

第八章では、毛奇齢の家族礼制解釈を、その一貫した観点・方法に注目して全体的に記述した。毛奇齢に一貫するのは、古礼と封建制との不可分性を説く歴史的観点と、経書に見える礼制運用の実例を手がかりとした再構成の方法である。宗法については、一君一別子一大宗説が、宗廟については、「兄弟異昭穆+昭穆環遷」の立場にもとづく二元論が、継承については、職位・儀礼執行権の一元的な関係として解するのが、それぞれ、毛の特徴的な見解である。また、毛奇齢の喪服説は、祭祀・継承よりも、先行経説との断絶度が高く、斬衰服が古礼であることを否定する説と、三年の喪を三十六月とする説を新たに打ち出している。喪服説においては、「三礼の信頼性を否定し、より由来の古い経伝に記載された歴史的実例から帰納的に再構成する」という毛奇齢の解経方法が徹底されており、その結果、独自の結論に到達したと考えられる。

第九章では、万斯大『宗法論』を近世期の祖先祭祀論の流れに位置づけ、遡及的に、宋代の祖先祭祀論の含意を検討した。元・明人は、程頤・朱熹の祖先祭祀説の諸論点のうち、身分にかかわりなく四世の範囲での祭りを定めた点(=祠堂祭祀説)を、古礼の適切な改変であると賞賛しているが、その評価の力点は、「全身分を包括しうる点」と「身分の安定を欠いた士大夫に適合する点」の間で分岐が見られ、さらに、論者によっては、後者の観点から進めて、祠堂祭祀説が、無官の士人層に適合することを指摘している。こうした見解は、程・朱の祭祀構想に、親族統合の機能だけでなく、身分表示機能(国家による身分認定から自律的に、儒教的教養によってその選良たることを対自・対他的に示す)、それも近世士大夫の性格に対応した身分表示機能が含意されていることを示唆している。万斯大は、四世祭祀を古礼に基礎づけ、宗法が本来的に封建特権の世襲を要件とはしないことを説き、封建礼制のこうした読み替えによって、宗子主祭型の祭祀収族法が、帝制期中国の条件のもとでも、復古的に実践されうることを論証した。万斯大説のこうした論点は、身分表示機能の明確化として理解することが可能であり、一面では、没落名族である万氏の家世と遺民士大夫の自己意識を、また一面では、「儒教的教養の保持者であることを存在意義の核に据えて、その特権性を、王朝秩序による認定から自律的に確保する」という近世期士大夫の課題とを、二重に反映している。

以上、全九章の検討にもとづき、士庶身分を対象とした家族礼制の動向について、その近世期における固有性は、次のように結論できる。(一)当該時期における皇帝継承論の動向に触発されて、士庶身分の継承に特有の課題が意識化された。(二)士庶身分の立継について古礼による基礎づけが果たされ、家領域における礼教化の趨勢が士庶の家にまで及んだ。(三)家族礼制の両機能(「礼教化」「身分表示」)をどう調整するかという問題が、近世期士大夫の存在様態にあわせて新たな段階に入った。

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