本研究は、19世紀イランにおいて、相続を初めとする財産移転行為がイスラーム法の制約の下でどのように行われたのか、地方社会有力者を対象として考察するものである。

1722年にサファヴィー朝が事実上崩壊して以降、イラン高原地域においては、中央権力が不安定化していた。19世紀にカージャール朝支配が浸透し、一定程度の社会的安定が実現すると、中央・地方官界、法学者層など社会の各方面で急速に世襲化が進展し、有力家系が長期に亘って特定領域で影響力を保持したことが知られている。

イラン土地制度史研究からは、イスラーム相続法の影響で、世代を超えて財産の包括的な継承に成功した有力者層は現れなかったとの指摘がある。それでは、19世紀に有力者層は世襲化を強めていた一方、財産を維持するために対策をとったのか。それともイスラーム法的均分相続が実施されていたのか。イスラーム相続法の実社会における運用について、イラン史研究ではこれまでほとんど議論されていない。こうした研究は、当時のイランにおける家族、家といった人間集団の在り方と、財産や法との関係を理解するために必須である。

20世紀のパフラヴィー朝成立以前は、イランでは中央権力が弱体であるため、地方社会を分析することがイラン史理解の鍵となると考えられている。そこで本研究では、地方社会有力者を対象に、イスラーム法と彼らの財産の変遷との関係性を考えてみたい。この際に、比較家族史研究で提案されている「継承すべき家業・家産をもつ永続的な家族集団としての家」という見解を参考に議論を進めることで、イランの有力者の「家の存続」を、イラン史研究の文脈に加えて、比較史的に捉える契機となりうるだろう。

こうした点を踏まえて、本研究は、18世紀後半から20世紀初頭までイランの北西地方の中心都市タブリーズに影響力を保持し続けたナジャフコリー・ハーンとその子孫を例に取り上げ、イスラーム法の規定にも拘わらず、直系子孫に財産を集中させる試みが模索され、実際に財産が長期間存続した事象を考察するものである。

以下、各章の概要を述べよう。

第1章では、18世紀のナジャフコリー・ハーンから3世代の間における所有財産の内容と特徴を文書史料に基づいて明らかにし、財産の継続性を検証した。まず、ナジャフコリー・ハーンの財産所有は、地方統治者と農村経営者という二つの性格を備えていたことが分かった。他方、彼の孫ファトフアリー・ベグの財産は、農村経営者としての特徴のみ有し、ナジャフコリーの財産とは質量ともに異なっていた。このように両者の財産は、社会的な立場を反映して大きく相違していたのである。また、ナジャフコリーの財産もファトフアリーの財産も、死後、被相続人の意思とは関係なく、相続人の間で分割相続されているため、財産の継続性はいずれの場合も限定的であるように見える。ただし、ファトフアリーは、祖父ナジャフコリーと異なり、生前に相当額の財産を長子に贈与しており、相続以外の経路を活用していた点は注目される。そこで、こうした財産行為の背景やその後の展開を調査する必要性を見出した。

第2章では、18世紀末に起こったホダーダード(ナジャフコリーの長子)死後の財産占拠事件を取り上げ、この事件が、ナジャフコリーの子孫が財産保全を試みる契機となったという見通しを示した。まず財産占拠を行った傍系親族(故人の弟)の主張と行動を明らかにすべく、彼が用意した法的勧告と売買契約文書を分析した。その結果、彼の占拠と売却は、法的根拠を欠くが、法的手続きを経て実施されたことが判明した。他方、ホダーダードの相続人は、地域社会の人々の証言や転売に携わった法学者から書付を入手していた。後代の裁判で発給された法的勧告によれば、これらの証拠物件は、権利を回復する上で有利な材料となったのである。この紛争を通して、ナジャフコリーの子孫は、法的な所有権を分散することによって財産保全を図る必要性を見出したと推察する。

第3章では、法的な権利関係から乖離した実際の財産の保有状態を明らかにし、ナジャフコリーの子孫による「財産保有」と意図的な財産の移転の仕組みを説明した。具体的には、1875年に没したファトフアリー2世(ナジャフコリーの玄孫)の遺産目録と財産目録を比較し、そこに見られる差異をイスラーム法文書、行政文書に照合した。その結果、故ファトフアリー2世の財産と母メフルジャハーンの財産が一体的に取り扱われていることが分かり、彼らの財産が法的所有権から乖離した、「保有」状態にあることを明らかにした。財産が法律関係とは別に、家族の代表者に保有される状態は、ファトフアリー2世の遺産分割後も継続していた。

こうした「財産保有」は、相続における分割リスクを避け、安定的に次世代の家長に財産を移転しようとする家族の戦略に基づいていたと考えることができる。同時に家族成員個人の所有権と一致しない「財産保有」という現象は、いわゆる「家産」の存在を暗に示しているといえるだろう。

第4章では、前出のファトフアリー2世の遺産目録の債務部分に見られる「女性に対する債務」に焦点を当て、財産存続の試みを別の角度から論じた。まず、女性(故人の母、妻、息子の嫁)の債権とは婚資と過去の相続取分から成り立ち、故ファトフアリー2世の債務全体の中で大きな割合を占めていることを確認した。そこで本来なら結婚時に支払われるべき婚資が未払い状態にある点に着目し、19世紀における婚資の支払いに関する法学説と、実際の法慣行に照らして、このことが例外的事象ではなかったことを説明した。さらに、ナジャフコリー家(後述)における女性の相続権行使の実態を、19世紀前半と後半の遺産分割について分析し、一部の女性が、女性独自の法的権利を生かしながら、家産の保全と存続に主体的に貢献していたことを論じた。

第5章では、ファトフアリー2世の後継者であるホセインコリー・ハーンの世代における財産の存続を考察した。具体的には、財産保有に重責を果たしていたメフルジャハーンが死去し(19世紀後半)、彼女の遺産が分割された後に、家産が維持されたか否かを検証した。まずホセインコリーが、祖母の死後「家長権」を有し、同時に相続人の大半と良好かつ互恵的な人間関係を築いていたことを論証した。同章後半では、こうした人間関係を基軸に、財産保有が継続したことを説明した。史料として税台帳と収入目録を用いて、家長ホセインコリーの財産変遷を追い、当初は財産保有策が機能していたため、兄弟姉妹の財産が一体的に管理されていたことを示した。またホセインコリーの晩年(20世紀初頭)の財産においても、19世紀前半のファトフアリー・ベグの時代から伝世する不動産資産が重要な比率を占めていたことを指摘した。

以上の各章の分析結果から読み取れる点を整理しよう。18世紀後半にタブリーズを支配したナジャフコリー・ハーンによる次世代への財産移転は、イスラーム法の均分相続を素直に適用したものだった。他方、孫のファトフアリー・ベグ以降、次世代の家長への財産移転を実現させる様々な試みがみられた。これらの方策は、財産の所有権を分散させることによって成り立つため、財産保全の効果も持つ。財産の存続と保全を促したのは傍系親族に財産を占拠されたという経験であった。ナジャフコリー・ハーン家による財産の存続・保全の試みはイスラーム法上の所有権の移転・分散に基づくものであり、法の論理を利用し、それによって家の財産を守ろうとしていたのである。一方で、実際の財産の管理・経営が、法律関係に制約されることなく、柔軟に実施された点は重要である。

こうした財産存続の仕組みが整備されたのと同時期の19世紀前半に、父祖を意識した名付けや、官位の世襲、叙述史料の示唆的記述が見られる。従って、その時代にナジャフコリーを系譜上の祖として強く意識し、財産を可能な限り長子に保有させようとする「家」、すなわち「ナジャフコリー・ハーン家」が成立したことを読み取れる。このような「家」は、イスラーム法や社会的慣行の裏付けを持たないため、脆弱な面もある。本研究で見た通り、複数の子女が存在しても財産を存続させることは可能であるが、イスラーム法上、養子は禁止されており、直系による財産存続に固執すると、家の存続は継嗣の有無に左右されるためである。ナジャフコリー・ハーン家も、そのために20世紀初頭に終焉を迎えた。

以上、本研究では、イスラーム法の建前の重要性は否定しえないものの、法を暗黙裡に乗り越えたり、また都合よく利用したりすることで成り立っていたイランの現実社会の表象として、継承すべき家業・家産をもつ「家」的なものが観察できることを明らかにした。こうした有力者の「家」は、法規範と現実との境界上に成立していたのである。

補論には3つの章を置き、中央政府や地方社会がナジャフコリー・ハーン家の財産に与えた影響を考察した。本論では主として家族内の論理から財産の存続を説明しているので補論では、それを後押しした社会的・政治的な要因の一端を解明したのである。

補論第1章では、ナジャフコリー・ハーン家に与えられたトユール、すなわち俸給に代えて与えられる税収下賜を考察した。補論第2章では、そのトユール対象地において農民が兵士として徴発されることへのナジャフコリー・ハーン家の対応を論じた。補論第3章では、農村所有の問題を、その村の農民および地方社会との関係から分析し、ナジャフコリー・ハーン家が特定の農村を長期に亘って維持した背景を、外的な制約という観点から論じた。以上、3章からなる補論によって、ナジャフコリー・ハーン家の財産存続の実態を、国家による後押しと社会による制約といった、外部的な要因からも説明した。