ヘーゲルの「論理学」、なかでもその「本質論」は、近年もなおその解釈について多くの議論が行われている。本論文は「本質論」において基幹的な意味を持つ「反省」に関する論考である。

  ヘーゲルは「論理学」の論述を始めるに当って、旧来論理学が思考の形式的規則の議論に終始し、規則が適用される「内容」は思考の外にある物から与えられる、と考えていることを批判している。それによれば内容は理性の外に求めるべきではなく、物がいかなる内容を持つことにおいてそれ自体がひとつの普遍的なものであり得るか、を認識するのが理性の運動である。理性とは「思考の形式に高められた物」の認識であり、それを成立させるのは物の存在のありさまの多様性と普遍性との統一の思考である。「論理学」全体がこの統一のあり方を体系的に論じるものであるが、そのうち「本質論」は、物事の存在のありさまと普遍性である本質とが反照し合う関係を設定し、これによって上の統一を成立させる思考の運動、即ち「反省」の叙述である。この運動に関しては、多様であるものをこのような仕方で普遍性のもとに統一することは、いかなる意義において成立し得るのかが重大な問題であり、これをめぐって諸解釈を生んでいる。以下は当論文がテキストの精しい分析とこれら諸解釈の検討を通して得た反省論解釈の要約である。

 

1 反省の自立性

 物事はそれぞれのありさまを表す諸規定を持って存在する。一方我々はある諸規定を持つ物事が存在することにおいて、ただ存在することにとどまらず、そこに何らかの普遍性が成立していることを認識することができる。それはその物事が存在することの、人にとっての意味、意義、価値等といったものである。ヘーゲルによれば物事の存在における普遍性は、それ自身が普遍的なものである人間が、思考によって認識するものであり、それは「そこで我々が自由である」ところ、「自分自身の確信の場所、純粋な抽象、思考の場所」において見出されるものである。こうして認識される普遍性が本質である。

 人は世界に存在する物事と関わり、物事の諸規定が強いる制約のなかで生きる。本質はそれ単独ではなく、いかに物事の諸制約を受けるかにおいて成立するものとして認識されねばならない。例えば治水ダムという施設の本質は「河川流域住民の生活の安寧」である、という言表は、普遍性の側だけのひとつの要求を表わしたものにすぎない。物事としてのダムはその多面的な諸規定において我々の活動を制約する(ダム湖地域の水没、建設費用の負担、環境破壊等)。この物事における本質は、その諸規定全体の制約のなかで、(下流域の生活の安寧の側面だけでなく)「人にとっての意味、意義」全般として見出され、認識されねばならない。この認識活動、即ち反省は、物事をいかなる制約を我々にもたらす諸規定を持つものとして構成するかの思考と、それと連動して本質を見出し、認識することからなる。これによって反省は、物事がある諸規定を持って存在することと、そこにおいて本質が実現していることとが同等であるという事態、即ち「諸規定と本質の同等性」を思考のなかで成立させる。このことから反省は、「そこで本質が実現する物事」を新たに存在させる、という能動のなかの思考活動として位置づけられる。

反省は存在する諸性質である諸規定を、思考のなかで本質との同等性の関係のうちにあるものへとその意義を転換する行為であり、これが「否定」と呼ばれる。否定はある物事の「諸規定と本質の同等性」を論証によってではなく、直接的に成立させる。否定は専ら物事の特定の諸規定において成立する普遍性の思考であり、それはいかなる原理にも依拠せず、自分自身以外にこれを根拠づけるもののない自立的思考であると考えねばならない。このことはそこにひとつの自立的な思考主体を要請、あるいは前提することである。それはそこで物事の「諸規定と本質の同等性」が成立している場である。これが「自己」と呼ばれる。否定はこの自己のみを根拠とした反省であり、このことからそれは「自己に関係する否定」とされる。自己への関係とは存在することの形式であり、この自己関係において本質の「存在」が成立している。それは反省の「自己との同等性」とも呼ばれ、反省論全体を通して反省の最も基本的な性格をなす。

 当論文は、ヘーゲルが反省において自己という自立的存立体を前提するのは、論証に依ることのできない「存在の多様性と普遍性の統一」の思考は、このような前提においてはじめて成立するものであり、そしてここに成立している反省の自己との同等性という存在形式が、体系上「思考の形式に高められた物」、「実体的なものとしての理性」を目指すものと位置づけられているからであると考える。

 

2 反省の全体性

 物事はそれぞれ固有の内部構造を持って存在し、諸規定はそのなかで相互に連関している。ダムは貯水能力を持つために一定のダム湖を必要とし、それは資金負担を要求し、住民の生活基盤を水没させ、自然環境を変化させる、等々である。反省は諸規定間のこうした相互連関のなかで物事の諸規定をいかに構成するか、そしてそれと連動して本質をどのようなものとして認識するかについて抗争を生じる。物事のある諸規定が本質と同等であるとする反省は、その諸規定は本質と同等ではないとする反省と対立する。両者は離れて対立するのではなく、諸規定の形成と本質の認識についてあい接して抗争し、相互に他者を自らと媒介する関係にある。

 反省の抗争と他者との媒介は、「自己」の自立性に基づいた活動である。自らの自立的存立を目指すものは、自分に拮抗する他者が成立することを排斥する。「諸規定と本質の同等性」の成立の反省は、不成立の反省の思考を自らのうちに含み込むようにそれを自らと媒介する。それは自らの諸規定を充実し、それとともに普遍性の認識を彫琢することによって、自らの思考の統一が、対立する思考によって危うくされることのない、他者を含み込んだ全体性であることを目指す。即ち自立性は全体性であることを要求する。ヘーゲルはこのような過程を経て成立している反省を「反省規定」と呼んでいる。反省規定のこの全体性において、本質の基本的性格である「それ自身において自分の他者存在への関係である」ことが成立している。

 ヘーゲルは論述の過程で「外的反省」、即ち自己の自立性に根拠づけることなく行われる反省形態を論じている。自立性のない反省は自らの全体性を形成する抗争と媒介の過程を欠如する。当論文はそのひとつである「差異性」の論述の分析によって、逆にヘーゲルが意図する本来の媒介のあり方を明らかにすることを試みた。

 

3 自立性の崩壊

 反省は自立性、全体性として成立する。だがそこでは本質との同等性のうちにある諸規定は特定のものとして固定されている。このためここで形成された本質は、常に新たな多様性を露わにする世界の流動性のなかで物事として存立することにおいては、他のものに制約されることが新たに反省される。このため成立していた反省の自立性はこの新たな反省のなかで崩壊するという経過をとることになる。自立性であるものが自立性を喪失する事態は「矛盾」として叙述される。こうして本質の反省という思考活動は全体性としての成立とその崩壊というひとつのサイクルを完結する。

 一方ヘーゲルは本質の運動を、上述の「否定」を中心とした思考活動として叙述するのと並行して、同じ運動を、この反省の「自己との同等性」の成立と崩壊の過程を通して、一貫して進展して行く「本質」自体の自律的運動としても叙述している。それはもともと存在の「諸規定と本質の同等性」という本性として自体的にある存立体が、実際の諸規定を持っての成立とその自己反発を繰り返しながら完全な同等性へと向かう全体構造として構想されている。

 

総括すれば、ヘーゲルは反省論の展開によって、我々は存在の多様性と流動性に関わる中で、いかにして常に新たな内的統一と普遍性を認識し、思考の自由を実現するかを論じたのであり、またそのためには自立的主体としての「自己」の前提、そして抗争と媒介の運動が不可欠であること、そしてこの自立性は崩壊と再生を繰り返さねばならないことを示した、というのが当論文の主張点である。

 

 ヘーゲルの反省論の近年の諸解釈、特にドイツにおけるそれらはおおむね、上述のような自己の存在を前提することに対して否定的である。その理由は存在の多様性が単一の自立的存立体において根拠づけられるという考えは、ヘーゲルによる旧来形而上学批判と調和しないという考えにあると思われる。このためこれら諸解釈においては、反省論における本質を主に諸項の関連性としてあるものと捉えるテキストの読み方が行われている。当論文はテキスト等の精しい分析によって、ヘンリッヒをはじめとするこれら諸解釈に対する批判を行っている。そこでの中心的な問題は「自己に関係する否定」をいかに理解するかである。

また一般に反省論は、諸解釈では主としてテキスト冒頭の「仮象論」を中心に論じられることが多く、このことが上述の解釈動向にも関わっている。これに対して当論文はテキスト分析によって、仮象論はヘーゲルが自らの反省論の根本的な狙いを他の哲学体系に対して顕著にする意図のもとに、特異な議論構成をとったものであることを示した。