<スピリチュアルケア>の創出と「共同体」幻想―「見えない宗教」をめぐるポリティクスと近代宗教論再考―

古澤 有峰

  本稿は筆者が、東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化課程宗教学宗教史学専攻に提出した博士論文の内容の要旨である。博論の中で筆者は宗教・近代・啓蒙をキーワードに、臨床パストラル教育(CPE)運動によって近代化した病院チャプレンの活動、またそれによって創出されたスピリチュアルケアに関する言説について、宗教の世俗化や市民宗教論を踏まえながら考察をおこなった。

 また本研究では、アメリカで始まった臨床パストラル教育(CPE)運動が海を渡り、日本における「スピリチュアリティ」や「スピリチュアルケア」をめぐる動向にどのような影響を与えているのかについても検証している。日本とアメリカの歴史的・宗教的な背景の違いや、実際に筆者がアメリカでおこなった臨床パストラル教育(CPE)プログラムの調査結果を踏まえた上で分析をおこなった。

 その結果見えて来たのは、スピリチュアルケアという概念とその実践が求められて来た背景には、「承認の共同体」や「見えない宗教」をめぐるポリティクスが存在するということであった。社会の統合原理としての宗教に着目し、世俗化され個人化された宗教にあるときは対応し、あるときは積極的に活用もして来たのが臨床パストラル教育(CPE)運動であったといえよう。

 こうした「承認の共同体」における闘争を分析する為の理論として、本稿で筆者が用いたのが、ホネットによる「承認をめぐる闘争」概念である。ドイツの哲学者アクセル・ホネット(Axel Honneth, 1946- )は、一般にフランクフルト学派の第三世代を代表する研究者であるといわれる。第二世代を代表するハーバーマス(Jürgen Habermas, 1929- )とは、人間の現存在の間主体性を中心とした理論的アプローチを行うという点で共通点があるが、後にその展開の仕方についての相違によりハーバーマスと袂を別っている。

 ホネットの理論的特徴は、批判的社会理論の承認論的な転回をめぐる構想にある。ハーバーマスの理論をヘーゲル解釈と結合させた上で、ホネットは自らの理論を「承認論」として展開している。ホネットの思想のうち、第一世代であるアドルノやホルクハイマーと共通する点は、哲学はヘーゲル的な意味で現在という時代を概念化したものであり、また社会の様々な関係を批判する事が正義の諸々の条件と関わっているだけでなく、それが人間の善き生に貢献しうるかどうかという問題に本質的に関わっている必要が有るという信念である(AW 203-204)。

 まだ第二世代であるハーバーマスと共有するのは「間主体性理論的転回(eine intersubjektivitaetstheoretische Wende)」が必然的であるという強い確信であり、それは道徳理論や認識論等のあらゆる領域において、人間の現存在の間主体性という事実を考慮したアプローチをすることであるという(AW 205)。ハーバーマスとの相違点は、ハーバーマスが形式語用論的な接近方法をとるのに対し、ホネットはより人間学的な方向付けを持った、人間の実践の多様な領域を包摂する承認論として展開しようとしたところにある(AW 206)。

 スピリチュアリティやスピリチュアルケアについて肯定的に話す人達の言説には、社会や個人にとってより良いスピリチュアリティやスピリチュアルケアが存在した方が良いという規範的な意識が見え隠れする。そうしてより良い精神性を得る事によって、本当の自分自身を探し出す事が可能になり、そうした自分であれば安心して穏やかな最後の時を迎える事が出来るのではないかという希望がそこにはある。しかし本稿で検証してきたように、いつまで追い続けてもそのようなスピリチュアリティやスピリチュアルケアの定義と実践は漠然としており、特定の属性を持つ人達にとっては時にそれは有害にさえなり得るという事実がある。

 共同体を共同性と目的性によるものと捉えた場合、共同性を共有出来ず、また公的な価値観に基づく目的性も自らの意に反するものとなれば、こうした先行きの見えない閉塞感に苦しむ人達にとって必要な事とはどのようなものになるのであろうか。フランスの社会学者ピエール・ブルデュー(Bourdieu 1979(1990))は、自分の願望を今ある客観的な可能性にあわせ、そのように自分の置かれている存在状態と折り合いをつけ、自分があるがままのものになろうとし、時運が持っているだけで満足しようとするようしむけられていく作用の事を「社会的老化」と定義した。これによりかれらはあらゆる側面的な可能性を少しずつその途中で捨てながら葬り去り、長期間において実現されないままだった為に実現が不可能と認定された希望を全て断念するのである。

 こうした状況下にある人達や、ケアに関わる役割を有する人達(関連の職業の人達を含む)が欲する「スピリチュアルケア」とは、承認の共同体内に置いては(スピリチュアルケア運動のような)宗教運動や社会運動、政治運動などへの接続性を担保するというよりも、そうしたスピリチュアルペインといわれるものを有するとされる人達の希望を、その共同性においてむしろ放棄させる機能を持つと考えられないだろうか。この意味において、つまり公的な認定によるスピリチュアルケアはそれを必要とされる人達には届かないという意味で、まさに幻想であると言わざるを得ないのである。

 このように考えてみると、正義と共通善に関する考察を行う理論の中で、多元的社会の市民は道徳と宗教に関して意見が一致しないものであり、行政府がそうした不一致について中立性を保つのは不可能だとしても、それでもなお相互的尊重に基づいた政治を行う事は可能だと考えているものについては、スピリチュアルケアをめぐる本稿における検証に基づいて考えるならば、残念ながら古き良き(悪しき?)道徳へのノスタルジアに過ぎないようにも思われる。そうでなければ、そのシステムやそれを運営する人達は、敢えて言うならばそこで疎外され排除される対象となる人達の痛みに気づかないものであると疑われても仕方がないと言えよう。

 現代世界においては、ケア負担の増大と共に晩婚化と非婚化、少子化と高齢化などと共に、ケア労働者の国際的な移動等、親密圏をめぐる様々な変容が生じており、こうしたテーマはそれぞれ公的領域(グローバル化に関連した労働市場や福祉国家の変容など)における変化と密接に関連している。公的な位置付けのスピリチュアルケアに関する課題は本稿で示した通りであるが、これは福祉の多元主義的追求や市民権の再定義、そして新しい公共圏の編成という課題とも密接な関わりがあり、その意味でもスピリチュアルケアの検証を通じて、公共圏と親密圏の再編成が問われると考える事も出来よう。

 日本の場合はケアに関しては伝統的に家族に過剰な負担が集中していた経緯があるが、親密圏を拡充させるという考え方自体は、そうした家族への負担偏重の現状に風穴をあける可能性がある。このような背景のもと、公の不確かさと私の解体を補うものとしての親密圏に含まれるものとして、公的なスピリチュアルケアへの期待感が醸成されている訳であるが、一方でそこには過大な期待が重くのしかかっているようにも思われるのである。本来的にそのような問題解決の為には、従来のものとは異なる形ではあっても、新たな文脈に置いて公と私の領域のそれぞれを充実させる試みを続ける以外にはないと考えられるのであるが、そこにある問題を隠蔽する為に親密圏の領域にあるもの(ここでは公的なスピリチュアルケア)に過剰な期待を寄せているようにも思われてならない。

 このように考えれば、デュルケームにおける宗教のテーゼ、つまり社会統合の要としての宗教をどのように考えるべきであるのかが、自ずと見えてくる。宗教概念の自明性・妥当性が動揺を見せる中で、宗教概念を見直そうという機運は高まっており、分析概念としての宗教概念に対して、それ自体が神学的概念になりうるとして異議を唱える声も増えて来ている。宗教現象と非宗教的現象との境界が一層不明瞭になって来た今日、聖俗二元論の適用、また宗教現象の最大公約数を求めるというあり方自体が問われている。社会的な秩序と統合は何によって可能となるのか。「宗教」という仮説的な対象に取り組んでいく宗教学の学問性とはなにか。それは社会における声なき声を守る為にあるのか、それともフラットな世界や新自由主義的な動向を補完するものとなって存在するのか。

 本稿ではこうした問題意識に基づき、あくまで宗教学的な観点から問題の追求を試みたが、今後も関連領域の研究者との交流も含め更なる検証が必要な部分である。宗教における世俗化をめぐる問題、宗教の個人化や再聖化、脱私事化などの領域も、このような公共圏・親密圏・家族の再編成の問題と深い関わりがあると考えられ、そうした領域の研究に宗教研究からの成果を携えて関わると共に、そうした交流と通じてその成果を宗教研究にも生かしていく事の重要性を指摘したい。

 人々は所属する共同体を自らの存在論的な足場とする為に奔走する。そうした中で「宗教」がどのような対応を見せるのかは、本稿で検証して来た通りである。ナショナリズムとスピリチュアリティの親和性も、宗教復興と脱中心的志向の文脈で分析されるべきであろう。病院チャプレンとスピリチュアルケアをめぐる問題は、このような諸論点を再考する上でも重要な課題を提示しているのである。 

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