本論文の目的は、マレー半島ペラにおける華人錫採掘の全盛期である1870年代から1900年代を中心に、華人錫生産の展開を労働力、経営者、採掘用地の3点から分析することを通じ、マレー半島ペラという一地域が、19世紀後半から20世紀前半に世界各地に広がっていった欧米諸国を中心とした資本主義と工業化の発展と華人移民とその労働力移動の影響をどのように受けていき、現代に通じる社会経済構造を確立していったのかを考察することである。錫需要は、19世紀初頭に軍需用に発明されたブリキ缶により急拡大を示し、新たな産地としてマレー半島西海岸が注目されるようになった。マレー半島における錫生産を特徴付ける要因の第一は、生産が移民である華人労働者によって担われていたという点である。錫鉱脈は比較的浅い沖積層に存在していたため、19世紀から20世紀初頭において、多くの鉱床が露天掘りにより労働集約的に採掘された。他方、錫が産出される地域は稲作には向いておらず、歴史的に人口希薄地域であり、錫採掘に必要な労働者を賄うことができず、華人移民が労働者として雇用された。

本論で扱うペラPerakはマレー半島西海岸に位置しており、マレー半島の中でも最大の錫産地として、1840年代には輸出港であるペナンPenangに近い沿海部ラルットLarutが、1880年代半ば以降は内陸部キンタKintaが開発された。ペラの華人錫開発は三段階に分けられる。第一に、1860年代以降発達し、1880年代に最盛期を迎えたラルットを中心に展開した鄭景貴に代表される華人有力者主導による採掘である。彼らは錫販売の他、労働者リクルートの際に用いた渡航費前貸し制、半年ないし一年ごとの決算を前提とした現物前貸し制、そして労働者に対するアヘンの販売で得ていたが、それを可能にしていたのは職種と場所の限定性であり、華人人口の少なかった移民初期において、彼らの就ける職業は非常に限られており、移民労働者が華人有力者の保護を離れて生活することは非常に困難であった。華人有力者による公司を通じた労働者に対する住居や食糧の提供は、移民初期における華人労働者の生活を保障していた。

第二に、1880年代半ばから1900年前後までの中小華人経営者による錫採掘である。国際的な錫価格の上昇と輸送・加工技術の発展により、停滞を迎えたラルットに代わり、内陸部のキンタが錫採掘の中心地域となっていった。キンタにおける初期華人錫採掘は、中小規模の華人によって担われていた。中小規模の採掘では、単独でリースを所有する他、複数の華人で金を出しあって採掘を行なう共同経営が数多く見られた。ただし、錫採掘の発展期においても、必ずしも良好な錫鉱床に当たることはなく、成功者もいる一方、多くの華人が短期間でリースを失っており、必ずしも全ての者が成功しているとは限らなかったが、成功を求め次々と新たな華人が錫採掘に投資していった。キンタ各地で採掘が進むにつれ、労働者に対する需要が増大し、十分な数の労働者を雇用するためには、労働者により有利な条件を提示しなければならなくなり、労働者に対する利益配分制などが一般的になった。労働者は、より有利な雇用条件や、労働者から鉱床経営者になれる可能性を求めてキンタに移動し、労働者はラルットで採掘を行なっていた当時のような公司への依存度を低下させた。

第三に、キンタにおける新たな華人有力者層の形成である。1900年代後半に入ると比較的浅層の鉱床が枯渇し、華人移民労働者が不足する中で、比較的表層を労働集約的に採掘してきた中小規模の採掘は残っていたものの、利益をあげることは徐々に困難になっていった。採掘の機械化が深層の鉱床を採掘していく上で、労働者を補完する役割を持っていた。華人の中には、機械を導入して大規模な採掘を行なうものが出現しており、胡子春や余東旋がその代表となっていった。他方、1870年代から1888年代初頭にラルットにおいて大規模な採掘を行なっていた鄭景貴などのラルットの有力華人は、錫ラッシュの始まったキンタにすぐには進出しなかった。労働者雇用では、1900年代後半、イギリスや中国におけるアヘン吸引に対する反対運動の高まりを受け、有力華人は鉱床労働者に対するアヘン供給をやめるようになった。また、華人有力者に対する各種の徴税請負制度も廃止されていき、アヘン販売に依らない華人鉱床経営が進んだ。

ペラの保護領化後のイギリス統治期に入っても、ペラ華人社会の統治はラルット有力華人の協力の上で成り立っており、彼らは州参事会などを通じて1880年代から1890年代前半を通じ、州華人行政に対する影響力を持っていた。そのような状況が変化するのは、1900年代に入ってからであり、キンタの有力華人鉱床経営者、20世紀前半における連邦参事会やペラ州参事会などの植民地行政や鉱業会議所などの経済団体においてペラ華人の利権を代表するようになるとともに、各種の華人社会組織などの代表となり、華人や地域をめぐる問題について議論を行なうようになった。

一方、ペラ沿海部ラルット地域は、マレー系移民在地首長であるガ・イブラヒムが支配する地域であり、ガ・イブラヒムはペラ王権からは半独立した支配権を確立し、華人に対し鉱床使用権や関税を課す権利を持っていたが、1872年に発生した華人同士の争いを機にその統治力の限界が現れた。新たにペラの王権につこうとしていたラジャ・ムダ・アブドゥッラーはこれを契機にラルットの錫権利を得ようとし、対立する一方の華人グループを後押しするようになり、対立は長期化した。国際商品である錫の安定供給を目指すイギリスは、同地域への本格的な介入を決め、1874年にパンコール協約を結びペラを保護領とした。

イギリスの保護領化により錫に対する関税権などを失ったマレー系有力者は、新興のキンタにおける華人錫採掘に積極的に関わっていった。ペラの伝統的首長者層やマレー系住民は、採掘リースを取得し、それらの土地を華人への又貸しにより、錫採掘によって得られる利益を最大限享受していこうとしていた。

ラルットにおける華人有力者による採掘が最盛期を迎えた時期は、ラルット=ペナンというネットワークが強く存在しており、労働者の安定した供給や採掘・精錬した錫を輸送・販売するため、ペナンの有力華人との関係を維持しており、そのような関係を有していた華人が錫生産の中心を担っていた。

1880年代の錫ラッシュに伴いキンタ進出した華人は、必ずしもペナンやシンガポールに住む華人有力者から採掘資金や労働者供給に関して依存していなかった。更に1900年代に入り、採掘の機械化が本格化し、イギリス資本がペラの錫採掘に本格的に進出すると、大規模な採掘を行なうために必要な資金を借り受けるための金融システムがこの時期までに確立し、華人も積極的にこれを利用し始めた。これらの銀行網は、海峡植民地の行政中心都市シンガポールにマレー半島各地の銀行の拠点を置き、キンタにおいては新興のイポーに多くの視点が置かれ、それに伴い、鉱業資本家への諸サービスもイポーに集中するようになり、カンパルが実際の採掘の中心地であり、イポーが採掘に関係するビジネスの中心地となった。キンタにおいて採掘を行なう華人は、イポーなどの鉱業都市に設立した個人金貸しから銀行に到るまでの各種の金融機関を利用して採掘資金を調達し、海峡貿易会社の原鉱購買所に原鉱を販売し、それが鉄道網や蒸気船網でシンガポールやペナンに運ばれ、精錬の後、アメリカやイギリス市場に運ばれるという構造が成立した。その中で、余東旋のように、キンタとシンガポール、更には南中国とを結ぶネットワークを利用し、華人による本国送金などの金融業に本格的に参加する者も出現した。

 イギリスは、20世紀初頭には英領マラヤBritish Malayaとして知られる植民地的枠組みを成立させ、シンガポールがその行政的、経済的な中心地となっていった。20世紀に入ると、マレー半島ではゴム産業やアブラヤシ産業、そして工業化が進み、政治的にはマレーシアの独立とその後のシンガポール分離独立、経済的にはマレーシアの首都クアラ・ルンプールとその周辺部が工業発展の中心地としての発展したものの、錫鉱業により成立したシンガポールを頂点とし、各採掘地域を底辺とするような経済構造は、基本的に現在のマレーシア・シンガポールへと継承されている。また、ペラにおける錫採掘をめぐる、採掘を実際に行なう華人と在地性を主張するマレー系との経済的な協力・依存関係は、1971年の新経済政策(ブミプトラ政策)下における華人企業の形態にも通じるものがあり、多民族社会マレーシアにおける経済発展を支える構造となっていったのである。