本論文は、春水人情本が当時の人気を博した理由として、その同時代性に注目したものである。 本書の構成は巻頭に序章を置き、第一章の「春水人情本と「流行」」では、場面の描写や登場人物の科白、そして作中の広告に表れている同時代性の特徴を扱う。第一章の第一節「「不易体」と「流行体」」では、春水についで多くの作品を執筆した、松亭金水の春水人情本に関する評に注目した。為永春水は、『春色梅暦』などの成功によって、人情本の代表的作者としての地位を確立し、濃密な恋愛場面の描写や、当時の流行に対する細かい描写などの春水人情本の特徴が、そのまま人情本全般の特徴として認識されてきた。ところで、松亭金水の人情本には春水人情本のような恋愛場面や流行の描写が少ない。それは、善女の基準を「いき」に置いた春水とは違って、金水が良妻賢母という近世小説の典型的な善女像を描こうとしたからである。これについて金水は、春水人情本を「流行体」、自身の人情本を「不易体」と評し、その違いを明確にしている。よって、春水人情本は人情本の特徴的な一類型ではあっても、人情本の全てを代表するとまでは言いがたいことを確認した。

第二節「趣向としての広告」では、もっとも同時代性があらわれやすい作中の広告に注目した。春水人情本は、「衣裳付け」の方法で登場人物の「いき」な姿を描き、当代の流行を小説に取り組むことで人気を博していたので、流行に敏感な化粧品などの宣伝にも効果的であった。そこで春水は、「いき」な作中の人物が身につけたり食べたりする品々や、料理屋、菓子屋などの広告も小説に頻繁に取り入れていた。また、春水人情本における広告は、単なる商品の宣伝にとどまらず、小説の内容や構成のためにも使われていたので、商品の宣伝が第一に優先されていた他の広告文学との違いを見せていることも確認した。

第二章の「春水人情本の構成―いわゆる春水流について―」では、春水人情本の構造が持つ同時代性を扱う。第二章の第一節「「段」と春水流の「段取」」では、春水人情本の各場面が「段」と記されており、芝居の「段」と類似した特徴を持つことに注目した。春水は、各登場人物の物語を順に並べるのではなく、少なくとも一つの編で一回以上は違う人物を中心とした「段」に交代する手法をとる。そして、このような手法を「段取」と呼んでいる。この「段取」は、見方によっては構成の一貫性を妨げてはいるが、春水にとっては、小説構成の一貫性よりも、読者の興味を作品の最後まで引き付けておけるか否かが重要であったので、構成の不統一を甘んじて受け入れ、春水流の「段取」を貫き通した。その結果、春水は人情本の元祖を名乗るほどの人気を博したのである。

第二節「春水流の「段取」と「継本」の関係―『三人娘』と『娜真都翳喜(たまつばき)』を中心に―」では、まず、春水が初めて複数の主人公を登場させた『三人娘』が、富豪の娘、貧家の娘、浪人の娘といった身分の違う三人の娘の物語を描いていることに注目した。『三人娘』は、各主人公の物語が順次配置され、それが前後したり他の主人公の物語の「段」とまじわったりしないので、構成の一貫性が保たれている。しかし、そのために筋の流れも予想しやすくなり、読者が飽きる恐れもはらんでいる。春水人情本の成熟期の天保八年頃に刊行された『娜真都翳喜』は、富豪の娘貧家の娘などが主人公として登場する点は『三人娘』と類似しているが、春水流の「段取」によって各主人公の物語が複雑にからまり合うように配置されており、構成の一貫性そのものは乱れている。ただ、それによって筋の展開は予想しにくくなり、読者の興味を持続させている。読者や観客の興味を持続させるために、近世小説や講釈、人情噺等の舌耕文芸に多く使われていた趣向が、「文続(つなぎ)」である。人情本も次から次へと本を貸す貸本屋の「継本(つぎほん)」のシステムの中で消費されていたので、春水も「文続」のために様々な工夫を凝らしていた。春水人情本が、各主人公の物語を順次並べていく構成から、各物語を交互に交えていく構成へと変化をたどっているのも、春水が「文続」のために凝らした工夫の一つであることを確認した。

 第三節「春水流と共時性―『梅暦』を中心に―」では、春水が同じ時、違う場所で起きている事件を同時に描く趣向を積極的に取り入れようとしたことを明らかにした。多くの場面は同じ時間帯で束ねられ、一つのブロックを形成することになる。ただ、一つのブロックの中では、一日から二日程度しか時間が流れないので、内容を進展させるためには、短い「段」をもって間を繋いだり、作者の説明で進める他ない。そのため、ブロックとブロックの間は、時間の流れが途絶え、構成が乱れているようにみえてしまう。春水は、各「段」に日時を示しておくことで、その紛らわしさを和らげようとした。春水は、当時の流行を描くことに力を入れていたので、必要以上の時間の流れを要することなく読者の興味を引くことのできる構成を使うことで、読者に歓迎される「流行体」の実現を可能にしたことを確認した。

第四節「「抜書」と続編―『春告鳥』三部作と『梅暦』五部作を中心に―」では、春水人情本の続編には、本編に描かれている「段」の前後の話を続編として綴る「抜書」という手法が使われていることに注目した。「抜書」で綴る続編は、いくら冊数が増えても、作中時間が本編から大きく前後しない場面を描くことが可能になり、同時代の流行を描こうとする春水にとっては、打って付けの方法であった。しかし、「抜書」をすることで、読者は、小説の構成を掴みにくくなる。この問題を解決するために、春水は、各「段」に日時を示しておく方法や、まったく同じ場面を繰り返すことで「抜書」の場面の帳尻を合せ、読者に「抜書」の場面であることを知らせる趣向を取り入れることで、小説の緊張感を保ったまま、読者に「抜書」の箇所を説明していることを確認した。

第三章の「春水人情本の周辺」では、春水人情本の同時代性を確認するために、他の人情本作者とその作品を考察する。第三章の第一節「松亭金水の人情本における「伏線」―『毬唄三人娘』を中心に―」では、人情本に使われている「伏線」に注目した。馬琴は、読者が「伏線」を種明かしされるまで、それに気付かないものを良い「伏線」とした。馬琴は、中国の小説批評書の影響を受けて、「伏線」をもその中に含めた「稗史七法則」を作り、金水や春水など、他の戯作者を牽制しようとした。金水は、馬琴からその用語を借用しているものの、「伏線」の方法の中身は異なっている。例えば、『毬唄三人娘』において、本人が「伏線」を使用したと書いているのは、場面が前後している部分である。これは、馬琴のいう「伏線」とは異なるが、後に出す趣向を生かすために試みられた技法の一つであった。金水は、後の趣向のための前置きとしても機能しながら、読者の興味も引きつける「伏線」を作り出し、小説の緊張感をより高めていることを確認した。

第二節「鼻山人の人情本における「欲」」では、春水の人情本が人間性の中で善と見なすべきものを「人情」といっていることに注目した。一方、鼻山人の人情本では、人間本然の性という意味で「人情」の語を用いているため、人情を描く場面の中に「欲」の描写も多い。最初は善人であった人物が悪人に変わる趣向は、すでに鼻山人の師の京伝が使っていたものであり、鼻山人がその影響を受けていたことも確かである。しかし、鼻山人は善人が悪人に変わる理由を盛り込んでおくことで、その人物が報いを受ける場面を愁嘆場として仕立てることを可能にした。作品の中で鼻山人は、たとえ善人であっても欲を出して悪に走ってしまう場合もあり、それも人情の常であると述べているのである。これは、京伝の読本や松亭金水の人情本の懲悪の場面が、悪人への復讐を果たすことで読者にある種のカタルシスを与えていたこととも、春水人情本が「いき」な人物の描写をもっぱらとし勧懲の側面を弱めていたこととも異なる、鼻山人の人情本の大きな特徴であることを確認した。

第三節「鼻山人の人情本の構造」では、鼻山人と春水の人情本における構造の違いに注目した。春水人情本とは違って読本的な構成を持った鼻山人の人情本では、読者の興味を引きつける技法を使うにも限界があり、当時の読者に好まれた流行描写の一つである広告や衣裳付けを作中に取り入れることも難しかった。鼻山人は、このような問題に対して、春水のように「段」を使い、場面転換を回り舞台にたとえるなどして、芝居の要素を取り入れる工夫をこらしたものの、読本的な構成と折り合わず、時流に迎えられずに終わった。

第四節「春水人情本の継承―山々亭有人の人情本を中心に―」では、春水以後の人情本の流れに注目した。山々亭有人の人情本は、春水流の趣向を取り入れ、「いき」な女性を善女として描き、また小説内の広告で当時の流行を描いた。有人は、構成においても春水流の「段取」を、そこから得られる効果についての一定の理解のもとに使っていた。人情本における春水流の趣向や構成法は、不完全な形ながら有人の人情本に受け継がれ、貸本屋を通じての人情本享受が終焉に向かうまで使われ続けたことを確認した。