朝鮮前期(朝鮮時代のなかで明が実在した時代、すなわち14世紀末期~17世紀前半)の対外政策は、明に対する事大、および周辺諸国家・勢力(主に日本・琉球・女真人)に対する交隣・羈縻に区分することができる。明に対する事大は、〈天子国(明)に対する侯国(朝鮮)の事大〉という枠組みのなかで行われ、朝鮮は明を中心とする国際秩序にあっては明の「侯国」を自任した。では、朝鮮の「侯国」的立場は周辺諸国家・勢力への交隣・羈縻に対しては、どのような形で反映されたのであろうか。この疑問の解明によってはじめて、明を中心とする国際秩序に対する朝鮮の立場を理解したことになるであろう。

しかし当該問題についての従来の議論は、もっぱら朝鮮が冊封体制に則って周辺諸国家・勢力に対して対等交隣を志向したか否かをめぐって行われてきた。かかる議論においては、朝鮮の「侯国」的立場が〈冊封体制下における対等交隣〉がどこまで行われたかに求められ、場合によっては、それが行われなかったと見なされることによって、朝鮮の「侯国」的立場の反映が度外視されてしまった。

そこで本論文では、〈冊封体制下における対等交隣〉の内実如何の問題から離れた上で、朝鮮の周辺諸国家・勢力への対外政策に「侯国」的立場がどのような形で反映されていたのかを考究した。その結果、〈冊封体制下における対等交隣〉の内実如何に関わらず、朝鮮の周辺諸国家・勢力への対外政策は「侯国」的立場に立って行われたと理解するべきことが明らかになった。本論文で示すことのできた朝鮮の「侯国」的立場を示す事象は、次の①~④のようにまとめることができる。

 

①女真人・倭人の官教における「朝鮮国王之印」印の使用

世宗20年代における女真人・倭人への授職の対外政策化――向化人ではない女真人・倭人への授職の開始――にともなって、女真人・倭人の官教(官職の辞令状)には朝鮮自前の国王印ではなく、明から下賜された「朝鮮国王之印」印が用いられるようになった。女真人・倭人の官教における「朝鮮国王之印」印の使用は、朝鮮自前の国王印の印文に「宝」字が含まれていることが明に対する僭擬に当たると考えられたからであった。したがってそれは、朝鮮国王と女真人・倭人との君臣関係を、明を中心とする国際秩序のなかに整合的に位置付けるため、換言すれば、女真人・倭人への授職において「侯国」的立場を反映させるために行われたものであったと考えられる。[第一章]

 

②女真人への万戸職の授与

世宗20年代における女真人への授職の対外政策化にともない、世宗23年以後、朝鮮は女真人に対して、中央武官職の五衛職に加えて、万戸職をも授与するようになった。朝鮮が女真人に万戸職を授与したことについては、女真人のなかに明から官職を授与されて明の金帯を帯びる者が存在したこと、および朝鮮の冠服制度が「侯国」として「二等逓降」の原則に基づいて整備されていたことの二点を、その大きな背景として指摘できる。すなわち、「侯国」的冠服制度を採用していた朝鮮が、明の金帯を帯びる女真人を羈縻するためには、金帯の付随する二品堂上官職を与えるべきであったが、女真人に二品堂上官職を軽々には授与することができなかったため、朝鮮は中央官職に対して付加的な官職である万戸職を女真人に授与することによって、女真人への二品堂上官職の授与を避けつつ、女真人への金帯授与を実現しようとした。このような経緯を踏まえれば、朝鮮が女真人に万戸職を授与するようになった背景の一つとして、朝鮮が「侯国」的冠服制度を採用していたことを指摘することができる。[第二章]

 

③倭人への図書の授与

朝鮮は女真人・倭人の双方に授印政策を行ったが、それぞれの意味は異なった。女真人酋長に対しては、管下人民の管轄権を認可する意味を込めて印信(官印)を授与し、倭人には通交証明印として図書(私印)を授与した。倭人に授与する通交証明印として、印信(官印)ではなく図書(私印)が選択された背景としては、朝鮮はそもそも倭人との間に君臣関係を形成する意図がなかったこと、および〈図書であれば侯国であっても頒賜できる〉と理解されたことという二つの点を指摘することができる。したがって、倭人に授与する通交証明印として図書が選択された背景の一端には、朝鮮の「侯国」的立場が反映されていたと考えることができる。[第三章]

 

④交隣文書における図書の使用

朝鮮の事大と交隣は「私交」問題(周辺諸国家との通交が「私交」として中国の「問罪」の対象となり得るという問題)によって矛盾の関係にならざるを得なかった。第四代国王世宗がその矛盾の解消を企図したが、臣下が反対したため、その企図は世宗の意のままにならず、世宗の薨去後はそのような企図すら行われなくなり、その結果、朝鮮の交隣は「私交」問題を抱え込んだまま行われていくことになった。しかし、そうしたなかでも、朝鮮は交隣文書(日本・琉球宛文書)に図書を捺して、交隣は「やむを得ず強いて応じている」ものであるということを書契上に表現し、そのことをもって「私交」問題への対策とした。「私交」問題への配慮は「侯国」としての立場から行うものであり、したがって書契における図書の使用には、朝鮮の「侯国」的立場を見出すことができる。[第四章]

 

①~④に見た朝鮮の周辺諸国家・勢力への対外政策における「侯国」的立場を示す諸事象は、主として15世紀前半に形成されたものであったが、これらの事象はその後、③を除くすべてに一定の変化が認められる。

①「女真人・倭人の官教における「朝鮮国王之印」印の使用」については、成宗24年(1493)に至って「施命之宝」印が新造され、新造の「施命之宝」印が女真人・倭人の官教にも用いられるようになった。②「女真人への万戸職の授与」については、16世紀以後は女真人の来朝がほとんど行われなくなり、それにともなって女真人への授職自体が行われなくなったと見られる。③「倭人への図書の授与」については、日本との通交断絶を経ながらも実施され続ける。④「交隣文書における図書の使用」については、対日本文書においては変化が見られないが、対琉球文書については、16世紀末期以降、その文書形式が書簡形式の書契から官庁文書形式の咨文に変化しており、そこには国王の図書(私印)ではなく、国王の印信(官印)である「朝鮮国王之印」印が捺された可能性が想定される。

朝鮮の「侯国」的立場を示す諸事象のうち、③を除くすべてが以上のような一定の変化を遂げた。しかしその変化は、それまでの朝鮮の「侯国」的対外政策の質的な変容を示すものではなかったと考えられ、その質的な変容は、16世紀末期の壬辰倭乱を経て、17世紀前半に起ってくる後金の勃興と明の衰退という事態によって、朝鮮の周辺諸国家・勢力への対外政策、とりわけ対日本政策のあり方を再定立する必要が認められたことによって起った。その変容を示す事象が次の⑤である。

 

⑤交隣文書における官印の使用

17世紀前半、明の衰退と後金の勃興という東アジア国際秩序の変動によって、朝鮮は対日本交隣の拠り所を、宗主国の明の権威を飛び越えて、対日本交隣を「天の申命」に求めるようになり、それにともなって「私交」問題が解消され、朝鮮は対日本交隣文書に官印を用いるようになった。[第五章]

 

前述のように、交隣文書における図書の使用は、「私交」問題への対策として行われたものであり、交隣は「私交」問題ゆえに本来的には行うべきではないということを表現するために行われたものであった。つまり「事大交隣」という成語の頻用とは裏腹に、明を中心とする国際秩序においては、実は朝鮮の事大と交隣は両立し得ていなかったのである。しかし17世紀前半の後金の勃興と明の衰退という事態によって、朝鮮の対日本交隣が明を中心とする国際秩序を飛び越えて、「天の申命」の下に行われるようになった。そしてそれにともなって「私交」問題が解消され、対日本文書には図書に替えて官印が用いられるようになったのである。

朝鮮の事大と交隣が、対外政策として「天」の下で両立するようになったことは、朝鮮の対外政策の一大転換と言うべきであり、⑤「交隣文書における官印の使用」という事象は、朝鮮の周辺諸国家・勢力への「侯国」的対外政策が質的な変容を遂げたことを示すものとして捉えることができるのである。

ただし、「私交」問題が解消されたからといって、朝鮮の対日本交隣における「侯国」的立場までもが消滅したわけではなく、朝鮮が清との間に冊封関係を締結した後も、さらには明が滅亡した後も、仁祖26年(1648)までは、朝鮮は日本に対して明の滅亡を認めず、明の「侯国」として対日本交隣に臨んだのである。

以上が本論文の各章の結論を通してみた、朝鮮前期の「侯国」的対外政策の形成と変容の歴史である。こうした歴史を踏まえれば、〈冊封体制下における対等交隣〉の内実如何に関わらず、朝鮮の周辺諸国家・勢力への対外政策は「侯国」的立場に立って行われたと理解するべきことは明らかであろう。

以上