本論文は、古代中国社会における国家成立過程解明のための一環として、青銅彝器に対する検討から西周王朝の広がりを考察する。ともすれば自明のものと捉えられがちな「王朝」としての西周であるが、西周がなにゆえ王朝として他の地域文化圏と区別されうるのか、そもそも西周がどの程度の奥行きを持った社会であるのかという問題については従来あまり顧みられることがなかった。西周王朝とはどの程度の広がりをもった社会で、そのようなまとまりがいかに形成されていったのかを明らかにすることは、王朝という共同体の実像を解き明かすための重要な手掛かりになると信じる。彝器と呼ばれる祭祀用の青銅器は西周期の中国各地から発見されており、王朝と呼ばれる社会の範囲を考察するために格好の材料を提供している。王朝による青銅彝器の製作と諸侯側における青銅彝器の受容の関係に注目して分析を進めることで、王朝と地方との関係性および王朝的世界の広がりを明らかにすることが可能となる。

西周期の青銅彝器は単純な祭器ではない。王朝によって製作された青銅彝器を各氏族が祖先祭祀の場で使用することによって、王朝との関係を再確認させるような、政治的目的が想定される。西周王朝が確立した「礼」という制度は青銅彝器とそこに鋳込まれた青銅器銘文の利用を中心とした祭祀行為であったが、諸侯・服属氏族の側から見れば、王朝の「礼」に則った形で祭祀を行うことで王朝と自身との支配-被支配関係が再確認されるようなシステムが存在していたと考えられる。この観点に立てば、王朝の「礼」を受容することは王朝権力を受容し、その構成員となることを意味するものであった。したがって、西周時代の各諸侯国における青銅彝器の出土状況から、礼制の受容/非受容の程度を検討することは、当時の政治的関係性を理解する上で非常に有用である。

 

西周時代の中国における青銅彝器の分布範囲は、北は内蒙古自治区から南は広西壮族自治区まで各地に及ぶが、この範囲はそのまま西周王朝の範囲を意味するものではない。青銅彝器組成の地域的な差異を検討した結果、周王朝の中心地域とされる陝西省とそれを取り巻く複数の地では烹煮器と盛食器という食器が彝器の主体を占めていた。その一方で、長江下流域の安徽省・江蘇省では食器と同程度に盛酒器・水器が使用される傾向があり、このような特徴がみられる地域は土墩墓と呼ばれる長江下流域に特有な墳墓の分布域とほぼ重なっていた。同様に、湖南省・江西省では食器や酒器などの彝器は搬入品として出現するのみで、現地では大型の青銅楽器を使用した祭祀が重要視され、周とは全く異なる青銅器文化根付いていたといえる。西周時代には、陝西・山西・河南を中心とする西周の青銅器文化と、長江下流域に広がっていた華東青銅器文化、湖南・江西を中心に楽器との関連がうかがわれる湘贛青銅器文化が、それぞれ別個のものとして併存していた。王朝と地方との直接的なやり取りが想定されるのは、黄河流域を中心とする西周青銅器文化圏の範囲内であることに留意すべきであろう。

 

西周王朝の中心地域の一つと考えられる陝西省関中平原では西周前期と中期以降の青銅彝器出土地点に大きな変化が見られた。殷末周初期~西周前期における青銅彝器の広範な分布は、王朝の非構成員であった周辺の諸氏族との関係を強化し体制の盤石化を図った王朝が青銅彝器の下賜を広く推し進めた結果であり、このような青銅彝器の使用は王朝によって当時広く行われ、その対象地域は基本的に西周王畿の外であった。逆に、青銅彝器が極めて限定的な豐鎬~周原の区間を西周王畿とみなすことができる。西周王畿内においては、青銅器の所有に対して強い統制力が働いていたことがうかがわれる。青銅彝器の分布状況から見れば、西周王畿内においては豐鎬地区と周原地区とが二大中心地であり、他には政治的な中心地を設定できない。これは邑といわれる共同体の性格を考える際に重要な点であり、おそらく青銅器を利用した祖先祭祀を行う際、王畿内では各邑での個別的な祭祀行為は基本的には認められず、王朝による一括管理がなされていたのであろう。今後の発掘調査によって他地区で青銅彝器の出土点数が増加する余地はもちろんあるが、現状の格差を埋めるような発見は考えにくく、西周時代の拠点が新たに増加する可能性は低い。権力の隔絶した中心地とそれに従う無数の邑という基本構造は変わらないものと思われる

西周後期に、周原地区と豐鎬地区とで青銅器窖蔵と呼ばれる特殊な遺構が多く確認されるが、これは、特に周原においては墓への青銅器副葬行為と入れ替わるようにして増加する。西周後期における窖蔵青銅器の増加は、葬礼の場での青銅彝器の利用を制限し、窖蔵における祭礼を重要視した王朝による強い意向が関わっていると考えられる。儀礼と密接に結びついた、祭祀都市としての周原遺跡群の性格を理解する必要があるだろう。

また周原が祭祀と強い関係を保っていた背景には周人の宗廟が周原に在ったと理解して初めて深く理解される。金文史料への検討の結果、「宗周」と称される地が、一般的に鎬京であると目されるのに反して、周原という祭祀都市と極めて近い性質を有していることがわかった。西周時代の関中平原における祭祀行為の中心は現在の周原一帯に存在し、それは金文中で周と呼ばれ、また宗周とも称される地域であった。豐鎬は王朝の中心の一つではあるものの、祭祀と強い関わりを持つ地ではなかったと考えるべきである。宗周を豐鎬地域の一部に属する祭祀区としてみるよりも、別の地に性格の異なる中心が作られたと考える方が自然な解釈であり、そしてそのような、宗廟の地としての周原の性格は、古代中国の「都」を考える際、極めて大きな意味を持つと考える。

 

諸侯側の受容形態として、晋国は王朝の変化に忠実に対応していたが、青銅器窖蔵は作られない。そこに、諸侯国と西周王畿のあり方の違いをみることができる。王朝が王畿内に対して発揮したような規制は、諸侯国までには及ばなかった。一方、国の首長層は王朝の青銅彝器の有用性を理解した上で、その機能を自らの内部に再生産しようと試みた。宝鶏は関中から四川への出口に当たり、文化圏の境界を構成していたと考えられる。このような王朝の外延地で周的な要素に浴しながらも独自化を目指した集団が存在していたことは重要である。北京琉璃河燕国墓地や濬県辛村衛国墓地など、王朝の辺縁部で中期以降の器が見られなくなる現象の背景には、彼らの独自化・王朝的社会体制からの離脱という面を十分考慮するべきであろう。

 

以上の検討によって、西周王朝の範囲を次のように想定することができる。晋国のような王朝と連動した諸侯国を一次的諸侯、国・燕国のような、王朝の影響を非常に強く受けながらも、王朝と必ずしも連動しない諸侯国を二次的諸侯とした場合、西周王畿を中心として、その周囲に一次的諸侯が広がる。洛陽や天馬-曲村がこれに相当し、王朝の主要な構成員と目すことができる。その外側には二次的諸侯がひろがる。彼らは王朝の青銅器をそのまま受容するものの、王朝との通時的な連動性は見られない。二次的諸侯の範囲は時間と共に縮小・拡大を繰り返しながら、王朝の外延を形成していたと考えられる。

 筆者は、西周王畿と一次的諸侯を含む範囲こそが、西周王朝の実質的な範囲、つまり王朝の勢力圏であると考える。その外側に広がる二次的諸侯をも含む、王朝の影響圏とでも呼ぶべき範囲は、非固定的で柔軟性を持った範囲だと理解したい。さらには、周原で一般的な窖蔵が晋国では検出されないことから分かるように、一次的諸侯であっても二次的諸侯に変化する可能性を秘めている。そのような動的な王朝の範囲というものこそを、西周社会の特徴としてみなすことができよう。