明治初期における行政事務の形成―官民共治の構想と展開―

湯川 文彦

 本論文は、明治初期における立国構想、官民共治とそれを果たすべく形成された事務について、政治・制度・政策の相互連関のなかでその特質を捉えることを目的とする。従来の研究では、官民対立構図を前提とした研究、あるいは政治状況を説明する材料として政策面が参照されてきたが、「事務」に注目すれば、様々な立国上の問題は事務から起こっていることがわかる。そこで、明治初期立国事業の一環として形成された事務について、それを担当した事務官たちの視点から明治初期の立国構想を捉え直すこととする。

 分析に際して、本論文のキーワードとなるのは「公論」「法制」「教育」の三つである。「公論」は合意によって、「法制」は法知識によってそれぞれ事務に正当性を与えるものであり、「教育」は人民一般について自覚・自力の育成を図ることで国家体制の転換を促すものである。この三つは互いに関係を持ちながら形成されていくこととなる。本論の構成は以下の三部である。

 第Ⅰ部では、明治初年における事務の形成過程を検討した。第一章では、日本一国を単位とした事務を構成するため、外交事務官が〈国内の異国〉開港場事務を内治事務へ引き渡していく過程を捉えた。第二章では、内治事務の牽引役を担った民部・大蔵省が事務の欧米化と現実化を模索するなかで「公論」と「法制」の方法を生み出していく過程を明らかにし、「法制」を担うこととなった正院・左院の改革経緯を分析した。第三章では、前章の検討をもとに、警察事務を事例に取り、政府・府県でどのように警察事務が形成されていったのかを明らかにした。以上三章の成果を合わせ、本部では以下の結論を得た。

新政府は事務の創始以来、五箇条の誓文における僅々の合意のもとで、事務に働く遠心力と求心力のバランスを模索し続けた。新政府が諸藩聯合として発足した関係上、政府諸員は旧幕府時代の統治を専制と批判し、事務権限の一極集中を忌避してきた。しかし、そうであるからこそ、互いに経験・分掌を異にする事務官たちにとって、対欧米条約改正を想定した場合の「日本」という一体性を実現し、また国内旧藩治の区々の統治を塗り替えるには互いの意見を調整し、集約し、整合性を担保していく求心力が必要だった。本部にみた「公論」と「法制」の形成は、遠心力を前提にした求心力追究の営為に他ならない。「公論」「法制」の構築に深く関与したのは、外交事務官たちであり、内治事務の総合として外交事務を組織し、一国代表性を実現しようとしていた。内治事務においては、主に外国官から会計官へ転じた事務官たちが民部・大蔵両省の合併に伴って内治事務に携わるようになり、事務の欧米化と現実化の両立を模索した。そのなかで、「公論」は井上馨の構想を得て廃藩置県によって解体された諸藩聯合に代わり、地方官聯合として再組織され、地方制度を造成するための基礎に定置された。一方、「法制」は渋沢の献策に基づき三院機能を合併する太政官制潤飾として打ち立てられたが、正院の専権性を回避するために再び分散し、左院の「法制」機関としての強化に落ち着いた。この路線を主導した伊藤は、明治八年の改革で左院廃止が決定すると、正院にその機能を引き継いで法制局とし、自ら掌理した。以後、「公論」と「法制」が相互に連関しながら機能する状態が創り出された。

 第三章の警察事務の具体的検討に表れたように、事務の形成において各省の指令と管内の民情に接する地方官の役割は重要であった。地方官はその役割を果たすため、地方民会を組織し、区戸長らとともに事務を現実化するための議論を重ね、地方官会議に参席して議論をたたかわせた。ここに「公論」としての地方官会議・地方民会の意義をみることができる。

第Ⅱ部では、まず「法制」機関として法制局・元老院が整備されていく過程を、局内および院内の自己改革の動向から明らかにした。第四章では法制局の局内史料である「法制局文書」を活用しつつ、法令の体系化や、法令解釈権の統合などの動きを捉えた。第五章では元老院が「法制」機能を獲得していく過程を院内の議事制度改革を通じて分析した。各省と法制局、法制局と元老院をつなぐ模索がなされるなか、「法制」機能を発揮し始めていた司法省は解体・再編されていった。第六章では官民訴訟制度の形成・変容過程を通じて司法省の機能の変化を捉えた。最後に、第七章では一連の「法制」改革を受けて、近代日本初の地方制度統一法規である三新法の成立過程を検討した。ここでは原構想を創りあげた内務省大書記官松田道之に注目し、松田が地方官時代から府県治経験のなかで構築した構想が、内務省を通じて法制局との協議に及び、さらに元老院を経て成立していく事情を明らかにした。以上の検討を経て、本部では以下の結論を得た。

 明治八年の漸次立憲政体樹立の詔に伴い、「公論」「法制」には三権分立体制への対応という遠心力が働き始めた。「公論」は事務官だけではなく、人民の公選代表者に及び、「法制」は法制局だけでなく元老院に及んだ。法制局・元老院は初発の環境に留まらず、自ら改革を重ねて「公論」「法制」のあり方を模索した。法制局は伊藤指揮下で「法制」機能を自らに集中させ、事務を「行政」に移行させ、「公論」もそれに付帯させていた。これに対し、元老院は自ら「法制」機関化しながら、審議裁量を行政規則にまで及ぼそうとしていた。修正委員制度はその象徴であり、内閣側から送られてくる法制局員=内閣委員としばしば衝突した。二つの「法制」機関が互いに牽制し合いながら事務上の立法を進めていくなかで、司法省という「法制」機関は解体・再編されていった。司法省に「法制」機能を与える試みは、官民訴訟を通じて発揮されたが、もともと官民訴訟には人民一個の利害得失と一国の公益の間に区分がなく、各省間対立を深刻化させたため、司法省は求心力にはなれなかった。「法制」機能を得た正院と、新たに司法卿となった大木喬任は、官民訴訟の再編を図り、行政請願と行政訴訟を生み出していった。事務の展開と人民一個の生活の折り合いが付かない問題は新政府を悩ませ続け、解決できない問題を国会に積み残していくこととなる。

 「法制」の組織化と並行して、内務省による事務の制度化が進められたが、そこには内務卿大久保利通、そして松田道之を通じて、明治維新以来の事務の経験が集大成されていくこととなった。松田は地方官として、直轄府治における地域の旧慣から出発する「民政」の事務と、廃藩置県以後の日本一国単位で一致が帰される事務とを経験し、大蔵省地方官会同を通じて、「公法」「私法」の両輪からなる地方制度構想を組み上げ、内務省入りした。この構想は、大区小区制から出発して事務の「行政」への移行、地方分権を模索する法制局と衝突し、松田・井上毅の両者協議が二年に亘って繰り広げられた。松田の構想を守ったのはイギリス法の「自治」概念であり、井上の構想を守ったのはフランス法の「行政」概念だった。尾崎を加えた三者協議の末、三新法案は組み立てられ、「行政」のなかに多く「自治」の代理を含み込む特異な構成が取られることとなった。明治維新以来の「民政」の展開と「行政」の組織化という課題を経験とともに抱え込んでいった点に、近代日本における地方制度の特質があるといえよう。

第Ⅲ部では、立国の基礎に人民の育成を求める「教育事務」の形成・展開過程を明らかにした。まず第八章では当時珍しかった人民一般の「教育」という発想が、徐々に新政府を捉えて形にされていく事情を捉えた。第九章ではその集大成として田中不二麿による教育令立案・制定の経緯を明らかにした。第十章では、教育令に対する誤解に苦慮しながらも、文部省が着実に事務の展開を図っていく過程を明らかにした。以上の検討から、以下の結論を得た。

 「民政」のなかには「教育」という柱があった。人民一般の認識を塗り替え、新たな知識を身に付け、官に頼まず立身するという志向を表した事務である。当初、新政府内で一般人民の「教育」の重要性を認めていたのは、木戸・広澤・大木ら一握りだったが、彼らのもと、徐々に教育事務が形成されていった。旧慣と欧米情報のギャップを埋める試みは、学制において新たな「学」概念の提起によってスタートを切ったが、容易に浸透せず、また事務としての方法論に無理があった。木戸と目的を共有する田中不二麿は、欧米視察で得た方法論と地方官を介した現実的方策を基に、教育事務を再編していき、欧米法制においても現実の府県治においても人民の自主性と責任の両立が模索された。田中の構想は人民の自主性を基礎とし、一定の責任を伴う「普通教育」の普及を期すもので、人材養成に傾倒していた法制局の構想と衝突した。田中は欧米法制の専門性によって説得し、伊藤の同意を得た。さらに、元老院で田中は兼任議官制・修正委員制を活用した法案の再修正に着手し、「普通教育」のための事務に徹底した配慮をみせた。木戸・田中の年来の構想が結実したものといえ、ここに戦前・戦後を貫く近代日本教育事務の基礎が成立した。

 以後の文部省は、その固有の経験と事務の目的ゆえに、他機関・民間からの誤解を受けやすく、政治的混乱の渦中に放り込まれたが、伊藤はじめ事務の性格を理解する内閣諸員や文部卿・省内官員のもと、誤解を廃止ながら事務の理論化が進められた。結果、教育事務は初発の目的や方法を保ちながら、卿の交替を超えて、継続的に展開していくこととなったのである。

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