ユリアヌスの宗教復興と〈真の愛智〉―その構想と帰結―

髙久(中西) 恭子

 紀元後4世紀中葉のローマ皇帝ユリアヌス(331/2年-363年、在位361年-363年)は、コンスタンティヌス一世以来のローマ帝室における親キリスト教政策を放棄してヘレニズム型多神教の振興を行った人物として知られる。彼は幼児洗礼を受けた初のローマ皇帝であり、青年期には下級聖職者(誦経者)としてコンスタンティノポリスの教会で典礼に奉仕したが、351年以降、イアンブリコス派新プラトン主義との出会いを契機に、ミトラスの秘儀をはじめとする各種の秘儀に参入し、急速にヘレニズム型多神教への関心を深めていった。彼はプラトンの哲人統治理念やマルクス・アウレリウスに憧れたが、その宗教政策は臣民から必ずしも共感を得られなかった。本稿では、ユリアヌスの宗教観の構造と宗教政策の具現化の過程を検討した上で、彼にとっての理想的な宗教の意義について宗教史的に考察を加える。
 第1章(序章)で研究史と史料の紹介、および日本におけるユリアヌス受容の状況を紹介する。
 西洋におけるユリアヌス研究は、主に歴史学的見地と思想史的見地の二つの方法論に依拠して行われてきた。歴史学的な見地からは、ユリアヌスの宗教政策は帝政盛期のヘレニズム・ローマ型多神教の確信的な再興として捉えられてきた。思想史的見地からは、ユリアヌスの宗教観を古代末期の諸思潮の系譜上に位置づける作業が行われてきた。1970年代以降、古代から中世への過渡期ではない独自の特徴を備えた時代としての「古代末期」への注目が高まり、キリスト教文化の複数性や新プラトン主義における公共宗教論の実態の解明も進みつつあるが、宗教史上のユリアヌスの位置に関する研究は途上にある。
 日本では歴史小説を介してユリアヌスの存在が知られている。メレジコーフスキイ『神々の死』や辻邦生『背教者ユリアヌス』のユリアヌス像は、キリスト教の圧制に抵抗した最後の異教徒哲人皇帝でもある。このようなユリアヌス像は、西洋近代的キリスト教と対峙する日本の教養主義的読書人にとって、自らの宗教観の代弁者として受け入れられた。
 第2章ではユリアヌスの生涯に関する伝記的事実を紹介し、彼にとっての所与の宗教であるアレイオス派キリスト教からイアンブリコス派新プラトン主義への転向と、彼の宗教観の基盤にある〈ヘラース(ギリシア)の至上性〉の理念の形成の意義について考察する。
 ユリアヌスの著作には幼少年期の精神生活に関する断片的な言及がみられる。幼年期のユリアヌスは、「善美なる生(kalokagathia)」の方法を教えたスキュティア出身の家庭教師、宦官マルドニオスとの師弟関係を介してギリシア古典文学に開眼した。他方でユリアヌスは所与の宗教としてのキリスト教体験を、強制された「闇」の経験として語る。彼は父祖たちのキリスト教信仰によい印象をもっていない。『クロノス祭、あるいは皇帝たち』の中で彼はコンスタンティヌスを、ローマ本来の神々を捨てて洗礼による手軽な救済を選ぶ権力欲と色欲の虜として描き出した。
 ユリアヌスは哲学=愛智の体験を、「光の神」の地上への顕現である陽光の体験に例えた。彼にとって神動術家マクシモスをはじめとするイアンブリコス派新プラトン主義者らとの邂逅は、哲学=愛智による修養と帝国古来のヘレニズム・ローマ型多神教および秘儀への関心を共有する人々との邂逅でもあった。彼らとの交流は、355年から361年にかけて副帝としてガリア・ゲルマニア平定を行ったユリアヌスの精神的支柱となった。ユリアヌスはまた、ガリア宮廷の廷臣らとの交友を通して、民族的出自を超えてギリシア的教養を共有する精神的共同体の存在を実感するようになった。
 ユリアヌスの祭儀観は、イアンブリコス『エジプトの秘儀について』の影響下にある。第3章・第4章では、362/3年にユリアヌスが起草した書簡にみられる祭儀観と『エジプトの秘儀について』の祭儀論を対比し、ユリアヌスにとっての理想の哲学=愛智および宗教について考察する。
 第3章では、ユリアヌスの祭儀論を検討する。彼の祭儀論の根底には、人間は生殖を行って共同体を形成する宿命を負う生物である、という認識がある。帝国領内の民族宗教の神々は、一者から流出して可視的な世界に顕現し、各民族の特性に応じて、無限の恩恵としての文化と文明を与える「文化の賦与者」として理解される。人間はこの恩恵に応えて神々と良好な関係を保つために、日常的に神々について学び、報恩の供物を捧げる必要がある。ユリアヌスはこのようにして『エジプトの秘儀について』の祭儀観を敷衍し、帝国領内の民族宗教の意義を肯定した。また、彼はプラトン『法律』第2巻のギリシア文化礼賛の定式に従ってギリシア人の祭祀と文化に特権的な地位を与えた。
 第4章ではユリアヌスの祭場論と神官論を検討する。ユリアヌスは単独統治権獲得以後、「神々の降臨の場にふさわしい清浄と静寂の場」としての聖域の整備を求めた。『葬儀に関する勅令』では、死者の領域と生者の領域を分け、死者の安息の場としての墓地からの略奪と廃材の利用を禁じた。彼は「神々の降臨の場」を、人間の霊魂が神々との交流を介して一者への回帰に向かう場所として想定した。
 イアンブリコスは神動術家(テウルゴス)に民衆の霊的指導者としての役割を期待し、一者への回帰に至る初歩的な階梯として民族宗教を位置づけた。ユリアヌスはこの主張に依拠して、ヘレニズム・ローマ型多神教の神官に民衆の霊的指導者としての役割を期待した。『神官宛書簡断片』では、神官に朝夕の供犠と祈祷のほか、プラトン主義・アリストテレス主義・ストア主義の学習と観想を課し、劇場と闘技場を「神々に関する悪しき観念」にふれる場として避けるよう求めた。『教育に関する勅令』の補則は、文法学・修辞学・哲学の教師たちに、英雄叙事詩と古典期アテナイの法廷弁論作家の作品が、神々からの霊感に従って書かれた著作であることを認識するよう勧める。ユリアヌスは教師たちにも世俗内宗教教育者の役割を期待した。
 第5章では、ユリアヌスにとっての堕落した哲学=愛智、および宗教について考察する。
 ユリアヌスはキリスト教と通俗哲学としてのキュニコス派を「堕落した哲学=愛智」として捉えている。『無学なる犬儒者を駁す』『犬儒者ヘーラクレイオス駁論』は通俗哲学者に、ヘレニズム・ローマ神話の皮相的な解釈と修養軽視の態度を棄てて、精神的な父祖であるはずの「幸福な隠修士」シノペーのディオゲネスに帰れ、と呼びかける。キリスト教批判の書である『ガリラヤ人駁論』は、聖書の逐語的解釈から導き出された情念を肯定する「嫉む神」の教説と、反逆者イエスの模倣を「神々に対する悪しき理解」を示す教説として告発する。ユリアヌスの見たキリスト教徒像は、情念と奢侈の節制や霊的修練を信徒に課す代わりに他教派・他宗教への暴力と排他性を容認し、「屍体崇敬」としての殉教者崇敬を奨励する人々であった。彼はアレイオス論争の主題であるイエスの神性に関する議論も殉教者崇敬も、聖書に根拠をもたない発想であると指摘し、キリスト教を「ヘラースの友邦であるローマ」の威信ある宗教に不相応な「蛮族と貧民の宗教」として断じた。
 第6章では宮廷におけるイアンブリコス派新プラトン主義者たちとユリアヌスの活動と、宗教復興政策の具現化の状況を紹介する。
 ユリアヌスは単独統治権獲得直後から宮廷に旧知のイアンブリコス派新プラトン主義者を招請し、秘儀伝授と供犠と祭場の視察を頻繁に行い、『神官宛書簡断片』にみられる神官の生活規定に従って生活し、市民生活から遊離した「哲人祭司王の宮廷」を形成した。
 ユリアヌスは当初、全宗教の共存共栄を企図して強制的な施策を用いずに祭儀と祭場の復興を試みた。彼の宗教復興政策の影響圏は帝国東方に限られる。コンスタンティノポリスのテュケー神殿の設置、アレクサンドリアのセラピス崇敬の奨励、アンティオキア市域内の聖域および郊外のダプネーのアポローン祭祀の整備、エルサレムのユダヤ教神殿の再建は、各民族に適した神々との交流の場の再構築を主眼とする。しかし、彼は多宗教が併存する現実の都市の宗教生活の実態を理解していなかった。廃社の資材を私邸や建設に転用した人々は制裁を受けた。親キリスト教政策のもとで抑圧されてきた地方宗教の支持者らはユリアヌスに忠誠を誓った。しかし、宗教間対立が顕在化すると、ユリアヌスは対立の首謀者と目される人物を追放して事態の解決を図った。
 ユリアヌスはアウグストゥス以来の帝国の首都であったローマよりも、キリスト教文化の影響下にあった新首都コンスタンティノポリス、アレクサンドリア、アンティオキアと帝国東方に関心を傾けた。彼の宗教政策はマルクス・アウレリウス時代のローマ宗教の復興よりもむしろ、帝国の脱キリスト教化と「ギリシア人の文化」の特権化・神聖化を図る理念的な施策であった。
 ヘレニズム・ローマ的多神教は本来、明確な教義と専門職としての聖職者団体と信徒組織をもたない。修養に資する教義と教典・聖職者制度・儀礼の場としての祭場の整備を求めた点で、ユリアヌスの宗教復興構想にはキリスト教的な教会制度理解の影響が色濃い。世俗的な祝祭空間への蔑視もストア的・新プラトン主義的な禁欲主義やキリスト教的な禁欲主義と通底する。彼の宗教復興構想はヘレニズム・ローマ型多神教の再興の域を大きく逸脱していた。
 ユリアヌスは哲学=愛智を、一者から流出する宇宙と多なる神々の教説に依拠した、民族を超えた「よりよき生」の手段として捉えようとした。彼の議論は、受肉の教説を介して世俗の哲学を超克する「真の哲学=愛智」としての役割をキリスト教に期待した盛期ギリシア教父の哲学観とも土壌を共有する。紀元後4世紀の哲人たちにとっての哲学=愛智は、現代の研究者が「宗教」に期待する役割を担ってもいたのである。

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