近代オスマン帝国の立憲運動と議会論―ナームク・ケマルと新オスマン人運動―

佐々木 紳

 本論文の目標は,オスマン帝国史上初の本格的な立憲運動を展開し,1876年の「第一憲政」樹立にいたる議論の基盤を整えた知識人グループ「新オスマン人」の立憲議会論に注目し,1860年代後半に登場した多種多様な立憲議会論のなかで彼らの議論が占めていた位置を,当時の定期刊行物史料に基づいて明らかにすることにある。

 第1章「新オスマン人運動の形成と展開」では,「オスマン・ジャーナリズム」という新たな分析枠組みを設定し,新オスマン人の言論活動の舞台となった近代オスマン帝国の言論空間の構造と特質とを検討した。オスマン・ジャーナリズムの世界とは,多種多様の言語・文字で発行された新聞・雑誌が転載,翻訳,論争などを通してつながることで形成された,「公共的空間」とも呼びうる言論空間であった。同時にそれは,諸集団の利害や関心が錯綜し,緊張や摩擦の生じる危険性を孕んだ言論空間でもあった。

 オスマン・ジャーナリズムの世界が完成するのは,先行する外字新聞や非ムスリムの諸新聞に多数のオスマン語民間新聞が加わる1860年代のことである。この点で,イブラヒム・シナースィーとアーギャーフが1860年に創刊したオスマン語新聞『情勢通詞』は,現代トルコ・ジャーナリズムの始点であるとともに,18世紀末より続いてきたオスマン・ジャーナリズムの歩みの大きな到達点であった。新オスマン人の代表的論客となるナームク・ケマルやアリ・スアーヴィーも,まさにこの時期に叢生したオスマン語新聞の編集に携わることで,オスマン・ジャーナリズムの世界に身を投じた。やがてオスマン政府の言論弾圧ゆえにヨーロッパへの亡命を余儀なくされた新オスマン人は,1867年に結成した「新オスマン人協会」の機関紙として『報道者』や『自由』などのオスマン語新聞を発行し,亡命先のヨーロッパからオスマン・ジャーナリズムの世界に向けて立憲議会論を発信した。

 第2章「オスマン帝国における議会論の契機」では,1860年代後半のオスマン帝国で立憲議会論が本格化した契機を,1868年の「国家評議会」の開設に求め,それに対する各方面の反応を検討した。オスマン政府の諮問機関たる国家評議会の開設式で発せられたスルタンの勅諭には,この組織が臣民の自由と権利とを保障すべく,権力分立の原則に従って設立され,もって多元社会たるオスマン帝国の一体性の保全をはかることが明記された。

 ところが国家評議会は,実際には政府の強い統制下に置かれ,成員も政府が選任する諮問機関に過ぎなかった。そこで,亡命中の新オスマン人はもとより,同時期のイスタンブルの論壇でも,国家評議会の次のステップをめぐる広範な議論が巻き起こった。本章では,新オスマン人の立憲議会論と並行して,また場合によっては先行する形で,オスマン帝国内の論壇にも議論の蓄積があったことが確認できた。ただし,立憲議会論と政府批判とをイスラーム的言説によって結びつけるという議論のパターンを初めて確立したのは,新オスマン人のスアーヴィーがロンドンで発行した『報道者』であった。

 第3章「ナームク・ケマルの議会論」では,ロンドンで創刊された『自由』の諸論説をもとに,ナームク・ケマルの立憲議会論を検討した。イスタンブルの諸新聞やスアーヴィーの『報道者』と同じく,国家評議会の開設式の勅諭を批判的に検討することから本格化したケマルの立憲議会論は,オスマン政府の改革政策に「イスラーム」の名で異議を唱え,オスマン臣民の自由と権利を保障するための立憲議会制が必要であるとした。その際にケマルは,立憲議会制を導入することの必要性と正当性とを,一方ではクルアーンやハディースの文言を引き,他方では西洋世界の法制を参照しながら論証しようと試みた。そして,立憲議会制の導入はシャリーア(イスラーム法)に照らしても合法であるとの結論に達したケマルは,具体的な範例をフランス第二帝政下の法制に求めた。

 ところがケマルの立憲議会論は,オスマン帝国の支配層たるムスリム臣民の優位を前提としていた。その背景には,イスラームと「文明」とは相容れないとするヨーロッパ人の偏見への対抗心,ムスリム臣民の窮状が放置されていることへの憤り,そしてオスマン帝国の「治者」たるムスリムと「被治者」たる非ムスリムとの「平等」に対する反発があった。新オスマン人は,「治者」と「被治者」とのあいだに一線を引いた上で,オスマン帝国の立憲議会制を論じていたのである。彼らがオスマン帝国のムスリムと非ムスリムとのあいだの支配・被支配関係を,しばしば列強の植民地におけるそれになぞらえていたことは,ムスリム・オスマン知識人たる新オスマン人の「帝国意識」の表出といえよう。立憲議会制の導入をイスラーム的言説によって正当化しようとし,また議会では支配層たるムスリムが主導権を握るべきであるとする彼らの議論は,「イスラーム的立憲議会論」と呼ぶことができる。

 第4章「論争のなかのナームク・ケマル」では,新オスマン人のイスラーム的立憲議会論が当時の議論のなかで占めていた位置を探るべく,新オスマン人協会の会頭であったムスタファ・ファーズル・パシャと,ときの大宰相アーリー・パシャの立憲議会制についての発言を検討した。また,新オスマン人の議論に対してイスタンブルから体系的な批判を試みたポーランド人亡命者のジャーナリスト,ハイレッティン=カルスキの議会論を検討した。ハイレッティンの議会論は,現行の地方評議会制度を拡充することで国民議会導入の素地を整えることが先決であるとする点で,大宰相アーリー・パシャの議論と軌を一にしていた。一方でハイレッティンの議論は,オスマン帝国における「政教分離」のあり方にも及ぶなど,ムスタファ・ファーズル・パシャの議論とも重なる部分を有していた。

 本章で取り上げた三者の議論に共通するのは,多宗教国家たるオスマン帝国で「イスラーム」を強調することが,帝国の秩序を危うくするという政治的リアリズムに基づいていた点である。実際,三者の議論には,イスラーム的言説はいっさい見られない。これは,当時のオスマン帝国において,イスラーム的言説を用いずに立憲議会制の是非を問う議論があったことを示している。

 タンズィマート期から第一憲政期にかけてのオスマン帝国で展開された立憲運動や議会論の歴史は,これまで新オスマン人を軸にして叙述されてきた。ところが,本論文で確認したとおり,当時のオスマン帝国では,新オスマン人以外にも様々な人々が立憲議会制を論じていた。これを踏まえて,新オスマン人の議論が占めていた位置を考察してみよう。

 新オスマン人の議論は,立憲議会制の導入をイスラーム的言説で正当化しようした点で,たしかに「イスラーム的」であった。新オスマン人の議論の「新しさ」は,イスラームと立憲議会制とを結びつけて論じた点にある。こうした議論は,当時のオスマン帝国の人々にとっても極めて新奇なものであったにちがいない。

 一方で,当時のオスマン帝国では,イスラーム的言説を用いることなく立憲議会制を論ずることもできた。ムスタファ・ファーズル・パシャやアーリー・パシャなどのオスマン政治家,またポーランド人亡命者のハイレッティンが,多元社会たるオスマン帝国の現状と改革の進展状況とを見すえた現実的な議論をおこなっていたことは,その好例である。

 これらの議論の存在を視野に入れることで,新オスマン人のイスラーム的立憲議会論がもつ,戦略的な側面もまた浮かび上がってくる。時代は,オスマン・ジャーナリズムの枠組みの完成期にあたっていた。このオスマン・ジャーナリズムが形づくる「公共的空間」は,しかしオスマン帝国を構成する多種多様な諸集団の利害が錯綜し,緊張や摩擦の絶えない,争論のアリーナでもあった。ヨーロッパで発行したオスマン語新聞を通してオスマン・ジャーナリズムの世界につながっていた新オスマン人は,オスマン帝国の多元的言論空間での論争や競合を通して議論を練り上げたのである。その際に彼らが見いだした議論の正当化の手段こそ,「イスラーム」にほかならない。ところが当時のオスマン帝国では,議論を正当化するための手段を「イスラーム」以外に求めることもできた。つまり,「イスラーム」だけが正当性を証し立てるシンボルだったわけではない。新オスマン人の「イスラーム」も,オスマン帝国の多様な議論のなかで,自己の立場を正当化し,またその独自性をアピールするためのツールの一つに過ぎない。

 ただし,このことは,新オスマンが「イスラーム」を軽視したり,ムスリム知識人としてのアイデンティティを放棄したりすることを意味してはいない。彼らは,ムスリム知識人としての立場から,ヨーロッパ人の誤解や偏見を払拭すべく,「文明」としての「イスラーム」の優位を説きつづけたからである。ところが,そうした意味での新オスマン人の「文明意識」は,オスマン帝国の支配層としての自負に発する「帝国意識」と表裏の関係にあった。新オスマン人は,対外的には主権国家としてのオスマン帝国の国際的地位の向上を求めつつ,対内的にはオスマン帝国の「治者」たるムスリムと「被治者」たる非ムスリムとを峻別し,むろんみずからもその一員たるムスリムの優位を強調した。

 そうした「文明意識」や「帝国意識」の存在を踏まえて,いま一度新オスマン人のイスラーム的立憲議会論を振りかえるとき,列強に伍するべく「文明」の源泉たる立憲議会制を導入せよと説くことと,そうして導入される立憲議会制のなかでは「帝国」の支配層たるムスリムが主導権を握るべきであると説くこととは,彼らの議論のなかではみごとに整合していることが理解できよう。

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