本研究は、中世の教皇庁役人や教皇家人に関して、彼らが編成された下位組織のあり方、彼らの職務、彼らの給養を考察するものである。対象とする時期は、教皇庁がアヴィニョンに移転するまでのおよそ一世紀間、すなわち十三世紀とする。

 構成は次のとおりである。第一部(第一章)で問題のありかを明らかにしたのち、第二部(第二章~第六章)では官房など統治に関する教皇庁諸部局から、また第三部(第七章~第九章)では教皇の側近や家政役人から、教皇庁組織の構造をとらえる。第四部(第十章~第十一章)では、教皇庁付属大学など上記以外の教皇庁関係機関を扱う。最後に第五部(第十二章)では、教皇庁役人や教皇家人の給養の問題や教皇庁の移動問題を通して、十三世紀の教皇庁に固有の歴史的特性の把捉を試みる。

 中世の教皇庁組織をある程度具体的に把握できるようになるのは、十三世紀以降である。なぜならこの同世紀初め以降、教皇文書が従来に比してはるかに体系的に保管され始めたことで教皇庁に関する情報が格段に増大したからであり(第三章)、しかも新たな部局や役人がいくつも現れ、それに伴って業務の分担と専門化、活動規模の拡充が進展したからである。この世紀においてこそ、庁内の司法業務が発達して一般聴取官などの専門的スタッフが形成され(第四章)、内赦院(第五章)や教皇庁付属大学(第十章)が成立し、いくつかの救護院が教皇庁に直属し(第六章)、厨房など四つの宮中職が教皇庁構成員に生活物資を供給する機関として整ったのであった(第九章)。また、俗人が庁内からある程度排除され、都市ローマとの結び付きが弱まったのも十三世紀においてであった。このように十三世紀の教皇庁は自らの歴史における一つのまとまった時代を形成し、われわれにその独特の姿を提示するのである。

 教皇庁内における新しい下位組織や新しい役職の創設は、確かに教皇の主導のもとに行われたという側面もあるが、外的な要因に規定されて教皇庁組織が改変を被ったという側面も見落としてはならない。例えば、キリスト教世界における教皇権威の向上に伴って、教皇文書局では書簡や特権状などに関する膨大な文書業務は専門的に分担され(第三章)、教皇庁に各地からもたらされる上訴が増えることで司法業務も活発化するようになった(第四章)。また、教会統治および世俗権力との外交のためにキリスト教世界各地に使節が派遣され、教皇領が拡充を遂げたことで統治のための人員が領内に派遣された。ほかの仕方で組織が整備されることもあった。そもそも教皇庁を意味する「クーリア」という表現が「帝国の模倣」の一環として採り入れられたものであったが(第一章)、厨房、パン焼き所、酒蔵、厩舎がそれぞれ責任者や書記などのもとに教皇の家政機関として整えられたのも同時期における他の世俗宮廷と同じように観察されるのであり、おそらくそのような諸宮廷からの影響があったと推測される(第九章)。また、カペッラーヌスの制度はドイツの宮廷から持ち込まれたと考えられるが(第七章)、このように他の世俗宮廷から影響を受けたり、それらを模倣することによって新しい組織や役人が生み出されることもあった。

 ローマ教皇は、ヨーロッパ中世における宗教的権威者としてカトリック・キリスト教世界に君臨した。しかし、教皇を下から支える教皇庁の諸部局とそこに所属して職務を遂行する役人や教皇家人らが行政的に、そして宗教的にも有効に役目を果たして初めて、教皇の権威の維持は実現することができた。これは特に第二部と第三部において、詳しく検討される。

 第二部では、教皇官房(第二章)、文書業務機関(第三章)、司法機関(第四章)、内赦院(第五章)、慈善施設(第六章)を取り上げつつ、教皇庁の行政的組織とキリスト教世界の中央機関として教会統治に必要な宗教的組織の構造と機能、そしてそこで職務に従事する者たちの役割を明らかにする。教皇はこれら諸部局や役人たちに支えられ、権威を維持することができたのである。任意の時点における教皇権や教皇庁は、時として教皇個人の個性のみによって認識されてしまうことがあるが、教皇庁を構成する諸々の組織が有効に機能し、持続して初めて、教皇の権威も成り立ち、持続するものとなったのである。

 第三部では、教皇の篤い信任を得て裁判業務や使節活動に従事したカペッラーヌス(第七章)、また教皇のごく身近で世話をする侍従や使用人、護衛を担当する者たちを取り上げ(第八章)、その役割を明らかにする。これらの側近集団においては、カペッラーヌスが本来的には宗教上の務めを負っていたのに対して、護衛や守衛を務めた者たちの中には俗人が多く含まれていたことが確認された。聖職者であろうと俗人であろうと、彼らの中に教皇の親類や教皇の同郷者が多く見られたという事実は、彼らが教皇の身近で仕えるために教皇から信用されていた、あるいは教皇との血縁・地縁等のなんらかの結び付きが強かったということによって説明されるだろう。

 しかし、組織とスタッフが揃うだけで教皇庁組織が維持されたわけではない。なぜなら、大勢からなる教皇庁スタッフは日々の経済的な支柱を得ることによって初めて、日常の業務を遂行することができたからである。そこで本稿は、それぞれの部局の務めをたどるだけでなく、諸部局の人員の生活基盤にも目を向ける。彼らの生活基盤が常に配慮されていたことは、クレーメンス五世期に作成された、教皇庁役人や教皇家人についての慣習を記した文書が、それぞれについて生活物資(ヴィダンダ)の支給に関する規定を厳密に記録していることがよく証言している。また、教皇のみならずそれらのスタッフを養うためにこそ、厨房、パン焼き所、酒蔵、厩舎の宮中職が整えられたのであり、ボニファティウス八世期の教皇官房の会計簿が示すとおり、毎週それぞれの宮中職の長と書記が厳密に会計報告を行い、官房は収支を記録したのであった(第九章)。教皇庁の構成員の中には、日々の生活物資のみならず、聖職録や土地を与えられるなどして、さらに経済的な基盤を教皇から保証された者たちもいた。このように、教皇庁とそれに奉仕するスタッフとの経済的関係の検討を通じ、教皇庁という宗教的権威を体現した機関が単に権威や権力といった理念的な基盤だけに支えられたのではなく、多種多様な業務を遂行する数多くの人材と彼らが生活上必要とする日々の糧を満たすことによって初めて機能することができたという点が確認される。そして、教皇や教皇官房もその点を理解していたからこそ、スタッフの給養について常に配慮を怠らなかったのである。

 本稿においては「教皇庁役人と教皇家人」という表現がしばしば用いれる。「役人(officiales)」と「家人(familiares)」という言葉が存在した以上、何らかの区別があったはずであるが、両者の境界は必ずしも明瞭ではない。このことは、「家人のためのセルヴィティア」がほぼすべての教皇庁役人が受け取るものであったことによって確認される。このことを踏まえるならば、教皇庁役人は広義における家人に含まれたとみなさなければならない(第十二章)。行政的・教会統治的な観点において、役人は、教皇の篤い信任を得て聖務やその他の職務に従事した家人の称号を帯びたカペッラーヌスや教皇の身辺で家政的な奉仕を行った家人と区別されうる。しかし、教皇に養われているという観点においては、ほかでは役人と呼称される者たちであっても、広義の家人とみなされたのである。これは、宮廷という組織に付随する公私の曖昧さについて、他の宮廷との比較検討のための材料を与えてくれるものである。

 本稿は、十三世紀の教皇庁がローマを離れた期間が極めて長かったという事実を前提として踏まえるが(第一章)、教皇庁の各組織の構成が体験した変遷や機能の発現においては、教皇庁の移動や、教皇庁と都市ローマの関係のあり方が大きな要素となっていたであろうということがいくつもの点において確認される。例えば、教皇庁付属大学はリヨンに滞在中のインノケンティウス四世によって設立され、教皇庁とともに移動したのであり、必ずしも場所に結び付く機関ではなかった(第十章)。また、聖アントニウス救護院は、移動可能な救護院としての役割を特別に与えられ、移動する教皇庁において慈善活動に従事した(第六章)。他方で、侍従や守衛などは、教皇庁とともに移動したが、職務の担い手はもはや都市ローマの俗人ではなく、教皇庁固有の役人へと変貌したのであった(第八章)。ボニファティウス八世期の近習や教皇付騎士の登用などに見られたように、血縁的・地縁的な結び付きが反映されることはあったとはいえ、都市ローマとの結び付きの弱化が進展したのは確かである。実際、構成員に関して都市ローマと強く結びついていた聖歌隊も、移動する教皇庁から振り落とされるように教皇庁との結び付きを弱めることになった。やがて彼らの代わりとして、カペッラーヌスたちが教皇典礼における聖歌の歌い手になったのである(第十一章)。

 教皇庁の移動および都市ローマとの結び付きの弱化は、教会論上の重要な意義をもたらした(第十二章)。十二世紀までに、教皇庁は教会論上「普遍的教会」としての地位を獲得していたが、依然として都市ローマに地理的に強く結びついていた。しかし、十三世紀に入って都市ローマとの結び付きを弱めた教皇庁は、「教皇のいますところにローマあり」という言い回しを生み出すことになる。このような抽象的な議論は、本研究が具体的に検討する教皇庁組織の充実化という現実によって補完される。こうして十三世紀の教皇庁はその普遍性を強化し、続く中世末期の教皇庁に継承されるのであった。