本論文は、19世紀前半から20世紀初頭にかけての仏領植民地期アルジェリアを題材として、支配の背後にあった思想・学知と、その具現化としての地理的な空間形成を考察した社会史研究である。アルジェリアは本国と地理的に近く、最大の入植者コミュニティが形成され、法制度のうえで県という位置づけを与えられた、フランス植民地圏の中核というべき領土であった。地中海南東岸で最長の植民地支配(1830-1962年)を経験したアルジェリアの歴史は、中東・アフリカの近代を考察するうえでも重要な示唆をあたえる。

 以下、三部構成の内容を要約する。

 第一部「アルジェリア人とは何か」では、アルジェリアという地域、アルジェリア人という集団の枠組みが構築された過程を、近世から近代への長期的変動という視点から考察した。

 第1章では、これまで一国の枠組みでとらえられがちであったアルジェリアの前近代史を、人々の横断的ネットワークに依拠した政治体の形成として描き、地中海史の文脈に位置づけることをこころみた。第2章「植民地とネーション」では、1830-40年代のフランス中央政界における政策論争を題材として、アルジェリア侵略によってもたらされた言論の展開を考察した。第3章「市民と〈臣民〉」では、1860-90年代を中心に、国への帰属と市民としての権利が一致するという近代フランス社会の原則が、植民地の例外法制のもとでどのように変形されたのかを検討した。

 第一部の結論は以下のように要約される。アルジェリアという地域の枠組みは、オスマン朝の広域秩序のなかで固有の自律性をもって形成された。近世のアルジェリアとフランスは、地中海を介して長い交流の歴史をもち、1830年のアルジェリア征服は、フランスとアルジェリアの双方にとって、たんなる「野蛮」の発見や、純然たる未知との遭遇ではなかった。それゆえに、征服初期のフランス中央政界では、アルジェリアのアラブ人という「ナショナリテ」を認めるか否かという激しい議論が生じたのだった。植民地期に目を移すと、複数的な社会を人種的区分にもとづいて階層化するという身分制度は、確固とした国民国家モデルを前提としてその外縁に構築されたわけではなかった。フランス本国においても、ネーションとは何かという問いに対する答えは19世紀をつうじて流動的であったのであり、植民地と本国の身分制度は、同時性をもった模索のなかからしだいに確定していった。それらを背景として19世紀末から20世紀初頭にかけて出現したのが、先住民のマジョリティであるアラブ・ベルベル系の人々と、ヨーロッパ系の入植者が、同時に「アルジェリア人」を自称するという状況だった。

 

 第二部「植民地の学知と法の多層性」では、近代ヨーロッパの他者認識の一面を探る手がかりとして、19世紀後半のアルジェリアにおける植民地法学の形成過程に着目し、有名無名の実務家による著述を主な素材として検討した。

 第4章「学知集積の地としてのアルジェリア」では、フランスにおける「イスラーム世界」についての情報蓄積の結節点としてアルジェリアが果たした役割の大きさを確認した。第5章「イスラーム法学の主流と傍流」では、専門分野としてのイスラーム法学成立以前(1840-60年代)の状況を、高名な東洋学者ペロンと、無名の実務家カドズという二人の人物を比較から検討した。第6章「アルジェリア・イスラーム法の形成」では、1860-90年代にかけて、植民地法の枠組みが確定し、自律した学問分野としての法解釈学が形成された過程を整理した。第7章「土地制度改変の法的枠組み」では、先住民から土地を収奪する手段となった諸立法がどのような論理にもとづいていたのかを、主要な土地法に即して検討した。第8章「土地範疇をめぐる論争」は、前述した法制度の改変によって露呈したフランス法とイスラーム法の矛盾を、同時代のフランス人実務家がいかに論じていたのかという問題を、歴史家と法実務家の両面をもつ知識人エルネスト・メルシエの著作を軸として分析した。

 これまでの研究は、植民地の法は搾取を正当化するための道具であり、そこでおこなわれる知的生産は支配に奉仕するいわば虚偽の体系であるという前提にたってきた。こうした理解は誤りではないが、以下の事実も見落とすことはできない。アルジェリアでは、現地の法慣習と西欧の法を架橋し、すくなくとも表面的な合理性をもって接合するために、闊大な知的労力が投入されていた。もちろん、そこに展開された適法性の言説は、イスラームへの蔑視や無理解と結びつき、破壊や収奪を合法化する機能をもった。その一方で、法の欠陥や矛盾、その素地となった本質主義的な異文化認識に対しても、内側から批判がなされていた。植民地の学知は多くの誤解を生み出し、誤解にもとづく諸制度をつくりだすことに貢献したが、同時に、そうした社会的構築の誤謬は、脱植民地化の時代の人々の指摘を待つまでもなく、19世紀の人々によってすでに指摘されていたのである。

 

 第三部「支配の地域史」では、アルジェリア西部オラン地方の地域史をふたつのアプローチから考察した。第一の視角は、第二帝政から第三共和政への移行を、制度の連続性と、思想と人材の断絶の両面からとらえなおすことであり、第二の視角は、植民地の行政区として設定された空間が、居住する人々の社会関係を規定し、人の領域性をかたちづくる過程をたどることである。

 第9章「二重の自治体制度」では、フランス本国への同化を謳った第三共和政下のアルジェリアにおいて、「同化」の標語とは裏腹にモザイク状の空間構成がつくりだされていった過程をあとづけた。具体的には、混合自治体と呼ばれる地方行政制度の成立過程を検討し、第二帝政期と第三共和政期の断絶と連続性を検討した。第10章「植民都市オランのヨーロッパ性」では、地域の中心都市オランについて考察した。都市空間の形態に注目し、「ヨーロッパ的」要素と「イスラーム的」要素の対立や混淆といった、典型的な植民地都市の類型とは異なる都市の姿を提示した。第11章「空白の土地台帳」は、農村部に視点を移し、オラン県西部のアイン・テムシェント周辺地域を事例として、土地法制と地方行政システムのふたつが絡みあい、入植地の空間が構造化されていったプロセスを、現地の部族社会の消長とともに分析した。

 一連の考察からは以下の結論が得られた。同化主義が標榜された第三共和政期のアルジェリアは、行政制度のうえでも、土地法の適用からみても、ついに均質な空間となることはなかった。従来の研究は、土地制度改造による先住民土地権の剥奪という側面を強調してきたが、本論文が着目したのは、たんに奪うだけではなく、モザイク化された場のなかに人を再配置し、空間と人のかかわりを統御しようとする権力のあり方であった。その具体例は、都市部における街区の設計、農村部における入植村の建設、土地カテゴリーの設定によって生じる分節化にみられる。それぞれの過程は、固有の試行錯誤をへて、19世紀末頃までにほぼ安定したかたちをみることになった。かくして、都市と村、オランという「地方」、擬似的な「国」としてのアルジェリアにいたるまで、さまざまな尺度で、先住民と入植者双方の祖国・郷土意識の受け皿が実体化していった。それは、想像されただけではなく物質的な構造と時間の堆積に裏づけられた空間であり、この時期に形づくられた基本構造は、独立戦争期までのアルジェリア社会を規定することになった。

 

 本論文は、従来政治史の時代区分にそって記述されてきた植民地期アルジェリア史を、思想、制度、地理的な構造変化という複数の時間軸から再検討した。考察をつうじて明らかになったのは、それぞれの過程のなかにある断絶と連続性であり、また、それぞれの模索がひとつの着地点へといたる時期が、1890年代から1900年代に収斂するという事実であった。一連のプロセスを、「文明化の使命」や植民地的近代といった確固たる企てを謄写したものとして理解することはできない。現地のムスリムやユダヤ人との交流が陰に陽に作用するなかで展開された19世紀ヨーロッパ人の思索には、本国と周縁、西洋と東洋といった二項図式をみずから掘りくずすきっかけが内包されていた。そうした長期にわたる交渉と模索、懐疑の末に出現したのが、世紀転換期アルジェリア社会の脆い均衡だったのである。