本論は、9世紀の入唐真言僧、とりわけ空海(774~835)、常暁(?~865)、恵運(798~896)、宗叡(809~84)により請来された唐本図像が、いかなる意味を与えられながら造像に用いられていったかをながめるとともに、スタンプ式の仏教版画である印仏について、「中国の仏教儀礼と図像の受容」という観点から注目し、概念の受容期から、平安時代末期における仏像への像内納入の定着までの流れを追うものである。


 第一部では、平安時代初期の真言密教寺院における唐本図像の彫像化の問題と、平安時代末期以降におこなわれた、法流意識の興隆による尊格・図像のあらたな意味づけによる造像の問題をとりあげる。この二つの時代には、密教図像の受容とその使用において、非常に特徴的な現象がみられる。双方を視野におさめることで、中国に由来する密教図像の迅速な活用と、これにたいする図像のブランド化による意味の変容・再編が、対比的に把握できるものと期待される。
 第二部では、印仏・摺仏と称される、仏教的主題をあつかった版画に注目し、唐・宋代仏教文化の受容という側面に注目しながら、おもに儀礼的側面のつよい、印仏の像内納入にまつわる問題をとりあげる。

 

第一部 唐本図像の請来とその使用

 

第一章 神護寺五大虚空蔵菩薩坐像の図像について
 神護寺像については従来から、曼荼羅との外見的な類似が指摘されてきたが、本章では現存する密教図像のなかに、具体的な典拠となりえた作例をみいだす試みをおこなう。その結果、想定される神護寺像五尊の当初の像容が、原本が宗叡請来に帰せられる『理趣経十八会曼荼羅』中の五大虚空蔵図像と一致することを指摘する。神護寺像が、原本の請来が9世紀にさかのぼる密教図像と同一の図像形式をしめすことは、承和期の真言密教彫像との造像環境の共通性を、様式的・技法的な類似性とともにものがたる。
第二章 安祥寺五智如来坐像について
 安祥寺上寺の発展について、唐から請来された五大虚空蔵菩薩坐像(現在の東寺観智院像)の安置場所である、「草菴」を出発点として成立し、その改築というかたちで礼仏堂がうまれ、五智如来像が安置されたと考える。上寺礼仏堂安置説は、入唐八家のひとり、恵運請来の唐本図像にもとづく可能性が高い尊勝曼荼羅および八大明王画像とともに、五智如来像が文徳天皇追善の尊勝法の場に存在していたとの推定を可能にする。つまり、恵運はすべてみずから請来した図像を用い、上寺礼仏堂を国家的な修法である尊勝法の場として完成したといえる。
第三章 三宝院定海の吉祥天造像
 三宝院流における吉祥天像の特別な存在意義を図像学的見地から検討し、同流で造像されることの必然性を論ずる。また、本像が女人成仏のシンボルとして造像されたとの見解をしめすことで、密教彫像の図像解釈の一方法を提示する。
第四章 法琳寺大元帥明王彫像の成立
 入唐八家のひとり、常暁は四幅の大元帥法本尊画像を請来し、小栗栖の法琳寺に安置した。請来図像のうちの一点が特定の信仰にもとづいて独立し、変容を加えられたうえで彫像化に至ったのが、鎌倉時代末期まで大元帥法の中枢だった、法琳寺の六面八臂彫像である。本章では、大元帥明王感得説話を考察の材料とし、感得者である常暁ゆかりの「小栗栖本様」図像が変容され、化現像として可視化された形跡を読みとり、その推進者として、大元帥法へのつよい執着をしめした醍醐寺理性院の祖・賢覚を想定する試論を提示する。
第五章 理性院の御産御祈と本尊画像
 理性院の院家や法流のよりどころだったと考えられるのが、御産御祈法の本尊である准胝観音画像、そしてともに使用される閻魔天画像と醍醐寺の開祖・聖宝ゆかりの牛黄だった。本章では院家相承にさいして、准胝像・閻魔天像・牛黄のセットが象徴的な役割を演じていたことを指摘する。御産御祈の准胝法は理性院にとって、公家に接近する最大のチャンスであり、悲願である大元別当職への補任にあたっても、准胝法勤修を通じての信頼の獲得がおおきな意味をもちえたことを論ずる。補論「醍醐寺本大元帥法本尊画像の伝来―安祥寺と理性院の動向に注目して―」では、現在の醍醐寺本は安祥寺が主体となって製作され、大元別当職の理性院への移動にともなって寺を離れた形跡を推定する。

 

第二部 印仏の受容と像内納入

 

第六章 入唐僧と檀印
 印仏作法に用いる檀印(板彫像)について、中国仏教美術の受容という観点から論ずる。方法としては、檀印が描かれた元代の羅漢図を指摘し、また唐本図像のなかに、檀印を写したと思われる白描の曼荼羅をみいだし、恵運の請来図像と推定する。これが妥当ならば、草創期の安祥寺では檀印、そして印仏作法の知識が獲得されていたことになる。
第七章 像内納入品がうむ奇瑞
 『後拾遺往生伝』中の説話に注目し、念仏をかぞえるのに使用した小豆が聖性を帯び、これを納入した阿弥陀如来の彫像が奇瑞をおこすという語り口に検討をくわえ、印仏の像内納入について考える一助とする。補論「『地蔵菩薩応験記』所収「空観寺僧定法摸写地蔵感応記」について」では、地蔵の画像を彫像内に納入することによる奇瑞を語る北宋期の説話に触れ、この画像が版画であった可能性を指摘する。
第八章 千仏をあらわす印仏の像内納入について
 西域や中国に由来する、千仏をあらわす如来坐像印仏が日本で受容され、像内納入品として汎用性を獲得してゆく経緯を、平安時代末期以降の現存作例によって確認する。千仏(三千仏)は懺悔のための仏名経典に説かれるもので、滅罪と深く関連する。印仏による滅罪を説く密教儀軌に『慈氏念誦法』がある。本章では、興福寺・称名寺・本山慈恩寺の弥勒菩薩彫像への印仏納入を、同軌の影響ととらえる試みをおこなう。さらに、阿弥陀如来彫像と千仏のかかわりにも言及、印仏納入による滅罪、その結果としての極楽往生が願われている形跡を指摘する。印仏が千仏としての性格をあらわすには、①図像として、拱手の如来坐像を選択する②員数を千体または三千体とする③小像を羅列する形式で千仏を意味する、の方法があることをのべ、印仏にしばしばみられる、小像を羅列する形式が、千仏信仰を下敷きにしている可能性があることをしめす。
第九章 福寿寺千手観音菩薩立像と納入印仏
 福寿寺像の像内に墨書される、中原貞俊一族の結縁交名について、家族史研究の成果を参照しながら、一族の各人が平等な立場で結縁した集団造像ではなく、むしろ貞俊夫婦が強力なリーダーシップを発揮し、一族に勧進する形式で結縁をうながし、千手観音像を成立させた形跡をみいだす。そのうえで、印仏は勧進の場において貞俊によって印捺され、造像の機運を高める役割を果たしていた可能性を示唆する。この点は、鎌倉時代に全盛期を迎える、印仏による勧進の萌芽と位置づけられる。
第十章 覚音寺千手観音菩薩立像と納入印仏
 覚音寺像は造像期間中の念誦について克明にしるし、像内納入する。印仏もそうした造像儀礼の場で、念誦と並行して制作され、かたちある作善の蓄積として像内納入されたとみる。その目的は、念誦と印仏制作の実績を、異界の仏性に伝達されることが期待されていたとの見解をしめす。同時に、念誦数と印仏をともに像内空間に納入する行為が、印仏作法の場で制作される巻数と近い性格をしめすことを指摘する。

 

 以上の十章をつうじ、平安時代の唐本図像と印仏(さらにはそれにまつわる儀礼)の受容と、その定着以後のあらたな意味の獲得という結果をしめす。これは、根底に中国にたいする憧憬を秘めつつ、外来の信仰形態を変容させて再編する、平安時代仏教美術史の重要な一側面と認められるだろう。