本研究の題材は,1920年に結成され28年まで活動を続けた,日本の建築運動団体である分離派建築会(以下分離派)である.本研究は,彼らと彼らをとりまく建築界の理論的状況を,当時の日本語建築系雑誌や書物に掲載された論考群から描出する.
 理論的状況を整理するにあたって,本研究は建築における「芸術」概念という軸を設定した.また彼らおよびその周囲による,この概念に対する働きかけを3つに大別し,章立てをこの3段階にしたがって構成した.第1章では分離派が結成された直接の理由であった,建築における「芸術」概念の確保または防衛を取りあげた.検討した年代は日本に「建築」概念が導入されてから分離派の活動の中盤までである.第2章では分離派が建築における「芸術」概念の内容を書き換えようとしたことを挙げた.分離派に関わる限りで検討した年代は,彼らを直接教えた教師が世界および日本の建築史を整理したところから始まり,彼らの活動期の後半までである.第3章では分離派が抱えていた「芸術」概念が,別の概念と新たな連関を結んだことで,概念の輪郭が弱まったことを挙げた.検討した年代は分離派の創設から活動休止までである.これは分離派自身の意識が,中盤以降,第1章で扱った「芸術」概念の確保や防衛から離れたことをも示している.
 また論述にあたっては,上述の3つの大別あるいは章立てにしたがい,分離派がいかなる理論上の敵を設定したか,具体的には彼らの主張が(出版メディアを通じてであれ,より直接的な関係にある人間にであれ)どの受け手にむけて発せられたのかを念頭に置いた.第1章では,当時「構造派」と呼ばれた人々と,彼らが発していた工学主義的な理論が念頭に置かれた.工学主義的な立場において建築から「芸術」概念が駆逐されるのを,分離派が防衛したという図式になる.これが分離派が結成された直接の理由となった.第2章は,結成時に分離派の念頭にあった「過去の様式」と,この「様式」そのものに彼らを当てはめて理解しようとした人々を対抗者とした.過去の様式の「模倣」を拒否して結成されたはずの分離派が,まさにある様式を主張,ないし過去の様式を再生産していると理解されがちだったことに着目する.第3章は一貫した理論上の敵を設定できなかった.しかしこうした対抗者の拡散によって,分離派が自らの輪郭を失い,理論上の役割を終えていったことが記述される.第1節では第1章から引き続く「構造派」との対立に関して,自らの立場と止揚する可能性が分離派結成当初から分離派内部において示唆されていたこと,第2節では日常生活と「装飾」を結び付けた議論への対応の限界,第3節では彼らの「芸術」概念に,彼らと異なる立場からアプローチされたとき,元から内在していた弱点が増幅され,「芸術」概念が弱体化したことを,それぞれ指摘した.また最終節において,分離派の理論的役割の終焉を指摘した文章と,終焉に至る実際のエピソードを記述した.
 以上で分離派が発足当初いかなる輪郭を画定したかったか,ついで活動の中でいかなる輪郭をもたされたか,最終的にその輪郭がどうぼやけたかを,「芸術」概念を軸に通時的に,かつ理論面から記述した.彼らが設定しようとし,設定せざるを得ず,また設定できなくなっていったこの輪郭,“境界線”は,当然ながら彼らと,彼らと異なる理論的立場を別けながら接続している存在である.この“境界線”を跨いだ記述を重ねることで,本研究は,理論上分離派の結成が準備されつつあった時期と,実際にメンバーが分離派を結成し活動した時期における,建築に関する理論の配置を描いたことになる.

 

 以下,各章における具体的な手続きを概説する.
 第1章1節では,建築学の導入以来の枠組みを制度と概念の両面から明らかにし,2節で工学主義的な「構造派」の立場を先駆的に築いた佐野利器と,その弟子であり分離派の直接の論敵となった野田俊彦を扱った.ついで3節で後藤慶二,4節前半で分離派発足当時における堀口捨己を,同様の立場として扱い,白樺派あるいは現代の研究において大正生命主義と呼ばれている風潮の影響下にあるものとして、彼らの理論を理解した.しかし4節後半で扱った渡欧後の堀口は,オランダと日本の伝統を直結しながら,オランダ建築の要素を日本で実践することが,新たな表現活動となる可能性に気付いた.5節では論敵であった野田俊彦の理論における展開を指摘し,野田のデビュー論考「建築非芸術論」よりも議論の焦点が明確になり,同時に野田自身の弱点も示されていった様子を辿った.6節では山田守の「表現」が具体化した東京中央電信局について,工学主義あるいは効率の観点から批判した山越邦彦と分離派の瀧澤真弓が展開した論争を概観した.
 日本に建築学を導入した頃の西洋では,用途に合わせて既存の様式のリストから選択して建物に性格を与えるという歴史主義,あるいは(一時代,一都市,あるいは一つの建物において)様式の混在を認める折衷主義が主流だった.したがって第2章1節では,様式は選択されるものだという認識がジョサイア・コンドルを通じて移入され,同時に日本という国全体の様式を選択または創出するという課題が生じたこと,また歴史的様式全般や,様式を選択するという姿勢そのものへの拒否も生じたことを説明した.具体的には,分離派を大学授業で直接指導した伊東忠太と,彼らの先駆けとなる岡田信一郎や村野藤吾を取りあげた.2節では,分離派という名称がゼツェシオンなどヨーロッパの新建築運動との関連を当時から連想させていたことから,当時の日本でのゼツェシオン理解を辿った.「構造派」を含め分離派への理解があった層は,元々「セセッション」が様式の名ではなく運動の名であると理解していたが,この理解が伝わらないサイレント・マジョリティが,分離派に対して様式的主張であるというラベリングを施した.このことは4節冒頭でも触れられる.3節では瀧澤の歴史的な様式展開に関する理解と,堀口の日本的様式に関する提案の二つを切り取った.特に後者は,後の1930年代に堀口も議論に加わった「日本的なもの」への建築界を超えた一般的な関心に繋がる部分だが,この検討は本研究とは別の課題とし,まずは分離派自身の歴史認識を明らかにすることとした.4節では「様式」と「セセッション」という二つの概念を用いて,分離派がいかに理解/誤解されたのかを,特に博覧会という耳目の集まりやすい場において検討した.以上とは別の側面から,5節で活動の前半において,彼らのドローイングや設計や実作がいかなる様式史的な脈絡に位置づけられるかを,彼らの旅行と議論,わずかながら建築形態を含めて考察した.
 第3章1節では,まず「芸術」概念が工学とくに構造力学と融合したことを示す.分離派創設メンバーでありながら,「構造派」への対抗という分離派の本質を止揚した森田慶一を取りあげた.「構造派」との対抗を回避する森田の論点は,結成時点であらかじめ提出されていたが,結果的に分離派全体で共有されることはなかった.森田は後年,分離派時代に関する発言を,稀な機会を除けば拒むようになった.2節では,分離派の瀧澤真弓と,バラック装飾社を率いた今和次郎との論争において,「装飾」と単純な形態とを双極とした理論の布置を描いた.バラック装飾社は「様式なきダダイズム」を主張したが,これは過去様式の否定というよりも,様々な様式と様式にも含まれない装飾形態とを包含した概念であった.こうした建築における装飾を否定する立場にあったのが分離派で,そのことは後のモダニズム建築を導入する際に,理論的な輪郭をある程度維持できたことに結びつく.ここには,「芸術」概念がバラック装飾社の「装飾」観と融合したことで,分離派にとって「芸術」という概念が使いにくくなり,建築は芸術であるという当初の彼らの主張が弱まったという間接的な関係がみてとれる.3節では,分離派と創宇社建築会を掛け持ちした岡村蚊象(山口文象)を取りあげた.分離派には結成後も3名の新メンバーが加入したが,その一人岡村は製図工(当時の表記では「ドラフトマン」)から建築家に登りつめた,つまり社会階層を移動した人物である.当初の岡村および創宇社メンバーは,まさに分離派が結成時に掲げていた「芸術」を後追いしたが,それは分離派を含む建築界から「造形偏重」との批判を受けることになった.分離派の抱えた「芸術」概念の弱点に,創宇社が階級的な憧れを吹き込むことによって,この概念が破損した展開だったと本研究では位置づける.創宇社との摩擦は,分離派の「芸術」概念を消耗する働きを果たした.その創宇社は分離派の「芸術」が霧消し,したがって分離派の活動が停止したとき,別方向に転じ,社会運動や階級という視点を強調することになった.最終の4節では,三科造形美術協会への批評にある分離派への短い言及の中に,彼らの理論的役割が果たされたことへの予感を見出した.また実際に彼らの活動へ引導を渡した谷口吉郎の文章を検討し,また日本インターナショナル建築会との糾合をめぐる石本喜久治の分離派からの決別というエピソードを扱った.