自分自身の心を知るということ:命題的態度の自己知を巡る哲学的ジレンマとその解決の試み

島村 修平

 非常に大まかに言うなら、本稿で展開する七つの章に渡る論述は、まず問いを立て(第1章)、その問いを正当化し(第2章)、問いに答える下準備を経て(第3章)、問いに答え(第4・5・6章)、最後に、全体の議論をまとめ、その含意を整理する(第7章)という一連の流れとして整理できる。
 第1章では、本稿で主題とする「自己知の問題」を定式化しようと試みた。そのためにまず、問題にする「自己知」の範囲を、自分自身が現在持っている命題的態度(信念・意図・欲求)を対象とする、直接的に形成された、二階の信念状態として限定した上で、そのように限定された自己知に関して、ジレンマの形式で問題を立てた。そのジレンマは、直接的で、網羅的で、権威的であるという自己知の特異な諸特徴を出発点として、デカルト主義へと至る第一の角と、自己知の対象である命題的態度の公共性を出発点として、命題的態度を心的傾向性として捉える標準的見解(典型的には、行動主義や機能主義)へと至る第二の角から成るものである。私たちは、デカルト主義も標準的見解も、互いにそれらとは反対の角が救おうとしていた出発点を手放さざるをえなくなるために、それぞれに問題を抱えている、と論じた。私たちが取り組む「自己知の問題」とは、一方で、私たちに備わっている、自身が持つ命題的態度についての、直接的で、網羅的で、権威的な知識を形成する能力を説明しつつ、他方で、そうした自己知の対象となる命題的態度が公共的な帰属条件をも持つこと(私秘的な対象ではないこと)をも認めることのできる、そのような一つの整合的な描像を示せ、という課題に他ならない。
 こうした問題提起を受けて、私たちに取りうる道は二つある。一つは、ジレンマのそもそもの出発点のいずれかを拒否して、問題を解消する道であり、もう一つは、それらの出発点をあくまで受け入れ、問題に対する正面からの解決を試みる道である。現在の心の哲学における主流派である標準的見解の支持者の多くは、前者の道を選び、自己知の諸特徴の内、とりわけ特権性(網羅性と権威性)を否定しようとする。これに対して、本稿の第2章では、後者の道を選び、自己知の特権性を否定しようとする論者に対して、むしろそれを積極的に擁護するための議論を展開した。この目的のために筆者が依拠したのは、いわゆる「合理性説」や「合理的行為者性説」の論者たちの発想である。それらの論者は、まず、心的主体としての私たち自身を合理的主体あるいは合理的行為主体と分析した上で、次に、そのように合理的であるためにあるいは合理的行為者であるために、特権的な自己知の能力が要請されると論ずる。筆者は、この議論に対して、基本的に共感しつつも、その実質性に関するありうる懸念を明示化し、そうした懸念を乗り越える試みを行った。そこでの筆者の戦略は、合理性・行為者性の概念を、その中核的要素だけを取り出しつつ、しかし特権的な自己知の能力をあからさまには要求しないような仕方で規定した上で、なおかつ、そのように規定された合理性と行為者性(及び、基本的言語能力と各種の命題的態度概念の習得)の前提から特権的な自己知の能力という帰結を導く論証を提示する、というものである。筆者は、この論証を通じて、合理的な行為者としての私たち心的主体にとって、特権的な自己知の能力というものが、どのような意味で必要不可欠であるのかを示そうと試みた。
 一度特権的な自己知の能力を私たちにとって必要不可欠な能力として受け入れたならば、私たちは第1章で定式化されたジレンマに正面から取り組まざるをえなくなる。第3章では、「いかにして私たちは、自身が持っている命題的態度について、特権性を始めとする諸特徴を備えた知識を持つことができるのか」という自己知の問いに答えるための準備段階として、まずは、そこで知識の対象となっている命題的態度の本性についての分析を行った。それまでの議論を踏まえるならば、この分析が満たすべき条件は、次の二点に要約される。第一に、分析された命題的態度は、特権性を始めとする諸特徴を備えた自己知の対象となる見込みのあるものでなければならない。第二に、分析された命題的態度は、公共的な帰属条件を持っていなければならない。筆者は、これら二つの条件を満たす分析として、ビルグラミの考察に依拠しつつ、命題的態度をコミットメントとして捉える分析を支持した。コミットメントと、標準的見解によって想定されてきたような心的傾向性との違いを理解する上で重要な役割を果たす「視点の二元性」というビルグラミの論点は、それ自体として、大変興味深いものである。とは言え、コミットメントとそれに関連する論点を巡るビルグラミの分析には、十分論じられていない点や行き過ぎた点も含まれていた。そのため筆者は、コミットメントに関する上述した二つの基本的主張はあくまで維持しつつ、これらの点を補ったり、修正する試みを行った。とりわけ、筆者としては、そのままでは厄介な問題を呼び込んでしまう、視点の二元性についてのビルグラミのラディカルすぎる特徴づけを修正し、より穏当な定式化を与えた上で、そのように再定式化された視点の二元性を正当化する論証を提示しようと試みた。
 第4章から第6章では、前章での準備を踏まえ、いよいよ、「私たちはいかにして、自身の持つ命題的態度について、直接的で、網羅的で、権威的で、認識論的に正当な二階の信念(つまり、自己知)を形成しうるのか」という自己知の問いに取り組んだ。最初の第4章では、各種の命題的態度の中でも、とくに信念を取り上げて、考察を展開した。信念についての自己知が持つ上述の諸特徴を体系的に説明しようとする際、その説明体系の土台をなす要素は、直接性についての説明―自身の信念を直接的な仕方で知る際、そこで私たちは一体何をしているのかについての説明―である。筆者は、エヴァンスに由来する「透明性説」のアイデアに依拠しつつ、この直接的な方法の内実を説明し、それを「T手続き」と名付けた。その後筆者は、前章で与えた、信念に対するコミットメントとしての分析を前提すれば、このT手続きは妥当なものとなること―T手続きを踏まえて生み出される自己帰属は、常に真であること―を論証しようと試みた。以上が、信念の自己知を説明する際の基礎である。信念の自己知に関わる残りの説明課題(網羅性、権威性、認識論的正当性)は、いずれも、この基礎的な説明から派生的に説明される。
 続く第5章で筆者は、前章で展開された、透明性説+コミットメント説の説明パターンを、信念の自己知から意図の自己知へと応用するという試みを行った。エヴァンスが信念の自己知に関して提案した透明性説のアイデアを、その他の命題的態度へも適用可能な形で一般化する提案は、すでにモランによってなされている。しかし、モランの一般化されたT手続きは、それが意図の自己知の説明に用いられた場合には、信念の場合以上に、多様な反例に出くわすことになってしまう。そこで筆者は、信念の自己知に関して提案されたエヴァンスの元の発想により忠実な仕方で、改めて意図の自己知に関するT手続きを定式化しようと試みた。さらにその後、意図をコミットメントとして捉える分析を前提するなら、そのように定式化されたT手続きが妥当であること―例外なしに、真なる意図の自己帰属を生み出すこと―を論証した。信念の自己知の場合と同様、意図の自己知の説明においても、T手続きの定式化とその妥当性の論証というこれら二つのステップは、説明の基礎であり、意図の自己知に関わる残りの諸特徴は、ここから派生的に説明されうる。
 第6章で、筆者は、残るもう一つの命題的態度である、欲求の自己知の説明に取り組んだ。欲求の自己知に関して特筆すべきは、次の点である。欲求の自己知は、信念や意図の自己知と同様、直接的な仕方―自身の言動という証拠に依拠しない仕方―で形成されはするものの、その直接的な方法の内実は、信念や意図の自己知とは違って、もはやT手続きによっては説明できない。筆者は、比較的異論の余地なく欲求に認められるいくつかの特徴に基づいて、欲求の自己知のこの不透明性を示そうと試みた。だがそれでは、欲求の直接的な自己知は、一体どのようにして形成されるのか。これに答えて筆者は、欲求を手段目的に関わる条件的信念から対応する意図への実践的な推論傾向として分析した上で、そうした実践的推論傾向としての欲求は、信念・意図のT手続きと自己シミュレーションという一種のシミュレーション能力の組み合わせによって、直接的に自己帰属されうると論じた。信念・意図の自己知とは異なるやり方で形成される以上、欲求の自己知はまた、それらとは異なるいくつかの特徴を持っている。筆者は、欲求の直接的自己知についての上の説明に対するありうる反論に答える文脈で、欲求の自己知が合理的熟慮の文脈で果たす独特の役割の一つにスポットライトを当て、また、欲求の自己知には、信念や意図のそれと違い、認識論的達成について実質的に語る余地が十分にあることを示した。
 最後に、第7章では、それまでの議論全体を振り返りその要点をまとめると共に、自己知の問題の文脈を離れ、より広く、心の哲学や行為論、心理学などの文脈で、それまでの議論が持つ含意を整理する作業を行った。本稿の議論は、一方で、従来の心の哲学で多くの論者の関心を集めてきた、心の自然化プロジェクトや消去主義の立場に対して、批判的な含意を持っている。他方で、それ(とりわけ、第6章の考察)はまた、行為論や心理学におけるいくつかの新たな興味深い探究の可能性を示唆してもいる。

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