民主化以後の労働問題の展開に関する日韓比較研究

金 正勲

 本論文の課題は,民主改革後の日本の経験をレファランスとしつつ,1987年の民主化以降の韓国の労使関係の展開を総括することである.総括にあたり本論文では特にふたつの点に注意を払っている.まず,韓国の企業内労使関係についての固定観念を克服するために企業内労使関係におけるダイナミズムと多様性を的確にとらえること,次に,政府の役割を中心とした労使関係における企業外的要因を,独立した要因としてではなく,政・労・使間の相互作用のなかで理解することである.
 第一章では,労使関係が問題化する契機となる民主化そのものの様相を概略的に叙述する.日本の民主化はGHQによって最大限の市民的権利を保障するように設計され,その一環として労働基本権が一気に保障された.労働者の闘争なしに労働基本権が付与された稀なケースであって,これは敗戦直後の経済的困窮状態とともに労働攻勢を可能にした大きな要因であった.そして,一般的民主化からは考えられない財閥解体と財界人の公職追放が行われたのも,日本の民主化のひとつの特徴であって,これによって専門経営者体制が本格化する.一方,韓国の場合,経済成長にともなう中間層の政治的権利への欲求が原動力となって,民主主義への移行が始まったが,その進行は非常に漸進的なものであって,最初民主化の舵取り役となったのは既存の政府であった.労働基本権は拡大されたが,労働者の権利を抑圧する労働法の一部条項はそのまま残った.そして,民主化によって財閥体制と財界人が苦しめられることは起きなかった.そのため日本の民主化はその後「逆コース」をへて労働者の権利を一部縮小していく方向に向かうのに対して,韓国の民主化は労働者の権利を徐々に拡大していく方向に向かう.もっとも労働者の政治活動の自由や革新政党の存在などの面で,韓国の労働者が日本の労働者水準の権利を勝ち取るようになるまでには,民主化後10年以上の歳月がかかる.
 第二章と第三章では,企業別組合体制をとる日韓両国において,労使関係の主な舞台となる民間大企業の労使関係を取り上げている.
 まず,日本の民間大企業の労働者は,民主化の流れをうまくつかみ早い時期に労働組合の結成に成功した.組合の結成を主導したのは主に工員であったけれども,当時の政治・経済情勢により職員層も組合結成に走り,結局混合組合の成立をみた.混合組合における組合の性格は主導グループの属性によって違っており,それが労使関係にも影響を与えた.特に,首都圏に位置する企業に多くみられた理念志向の職員活動家は,平工層の大衆的支持をバックにいわゆる「企業民主化」運動を主導した.経営に関する主要事項を「同意」によって決めるという経営協議会はそのための手段となった.この企業民主化運動の勢いを止めるには企業内外の努力が必要であって,まず企業外においては,経営権という概念,「逆コース」,ドッジ・ラインなど総じて戦後民主化を見直す作業が,そして企業内においては,専門経営者体制の安定および経営指向の職員と役付工を中心とする組合の再編作業が行われた.理念的労働運動に対処するための専門経営者と経営指向職員および役付工の「愛社連合」は,戦後民間大企業の労使関係の原型となる.このような連合が成立した後にも春闘のように労使が対立する場合はみられたが,協議型経営参加,能力主義賃金制度,生産性向上運動などのように労使の利害を調整する諸制度は協調的労使関係を強化していった.
 韓国の場合,民間大企業の労働組合は工員主導であって,労働攻勢の時の要求も処遇改善に関するものが主であって,企業民主化運動はあまり見られなかった.一方,経営の場合,財閥企業は家族経営体制を維持しており,それは民主化によってもあまり変わらなかった.従って,問題の構図は処遇改善をめぐる財閥経営者と工員との関係という非常にシンプルなものである.さて,韓国企業において初期の労使関係を規定した要因は経営側の戦略であった.代表的な財閥企業である現代自動車とLG電子は同じく労働攻勢を経験したけれども,労使関係政策は異なった.現代自動車の経営者は組合結成後初のストにロックアウトで対応し,当時組合を主導していた穏健な熟練工グループを困難に陥れた.現代自動車労組の主導権が平工層に移ったのはその結果であった.一方,LG電子の経営者は1989年ストの際に組合の穏健派グループと手を組み,強硬派グループを孤立させる戦略をとった.経営側の巻き返し局面が始まるという条件も手伝って,LG電子の愛社連合は労使関係を安定化させることに成功する.このような初期経験はその後も両社の労使関係を多く規定している.1990年代末以降,現代自動車の経営体制が創業一世から二世に変わり,組合も経験の蓄積によってそれぞれ現実的になっているが,その労使関係はLG電子の信頼関係とは違ってより実利的関係に近い.
 第三章と第四章では,賃金問題を題材として,政府,専門家,世論の反応などをも要素に入れた企業外の労使関係を取り上げている.
 日本の場合,敗戦直後の賃金問題を主導したのは労働組合側であった.生活賃金論に代表される労働組合の生存権要求は,当時の厳しい経済情勢を反映し,賃金問題を社会的問題に引き上げることに成功した.しかし,物価と賃金との悪循環を解決するための政府の試みが次々と失敗すると,GHQが賃金問題の解決に乗り出す.賃金三原則に見られるGHQの基本原則は市場経済の復活であって,使用者側はそれにあわせて支払能力論を持ち出した.1950年から組合側の生計費賃金論と支払能力論は,本格的に対決する.おおよそ5年間の対決でも優劣は決まらず,新しい方法として総評は春闘を,使用者側は生産性運動を提案した.春闘は名目上生計費賃金論を継承していたけれども,その主な機能は社会的賃金調整制度となったことである.春闘にあわせて出された「賃金行動綱領」にみられるように,春闘の重心は生計費賃金という論理ではなく,交渉力によって春闘相場を上げることにあって,そのため特定の論理に拘らず当事者の主張を総合的に取り入れた中央労働委員会の調整方式が効果を上げた.一方,生産性向上運動は生産への貢献に比例して利益を配分するという考え方であって,厳密な意味での賃金調整方式ではない.ただ,それは使用者側が組合との対決ではなく,労使共同の利益の追求を目指すようになったことを示すものであって,賃金問題の性質を変えるものとなる.
 韓国の賃金問題の構図は日本の賃金問題が終わった時点から問題が始まっているように見える.労働者大闘争以後賃金が急騰すると,政府と使用者団体は,賃金上昇が生産性の上昇を上回っているという問題提起をした.使用者と政府の考え方は生産性賃金論に基づくものであって,企業の枠を越え全産業の賃金調整基準を提示しようとした. しかし,生産性賃金論の登場とともに賃金問題の多くが解決された日本と違って,韓国においては生産性賃金論にもかかわらず,問題は容易に収束されなかった.賃金問題における政府の役割が問題とされたからである.1990年に賃金ガイドラインを復活させた政府は,1992年まで指導指針の違反企業に制裁措置を設けるなど権威主義的政策も躊躇しなかったが,労働組合はこれに激しく反発した.もっとも韓国の労働組合には春闘のような賃金の社会的調整プログラムがなく,そのため企業規模別賃金格差の拡大という問題に効果的に対処することができなかった. 1993年と1994年に労使頂上団体によって賃金の社会的合意がなされた要因は,政府が賃金調整から一歩退いたこととともに,労働運動に対する世論の批判が高まったことであった.大企業労組にとって不利な賃金の社会的合意は長く続かなかった.韓国の労働運動は賃金の社会的調整から事実上退いたので,賃金問題は解決したのではなく消滅したのである.
 第六章のテーマは,新聞社説を素材にして,民主化後の労働問題についての世論を捉えることである.民主化以後,両社会において重要な労働問題として浮上したのは,労働者の権利問題と経済的利益配分に関する問題であった.日本の場合,労働基本権はGHQの権威によって民主主義=労働基本権保障となっていたので,権利問題の中心は労働組合の政治活動であった.労働組合の政治活動についてマスコミは非常に批判的であって,批判の要点は,組合の政治活動の過剰=民主主義への脅威ということであった.これらの基準がマスコミにとって労働者の権利の下限と上限となる.一方,韓国において権利問題の提起者は労働者自身であった.労働者の論理は日本と同じく民主主義=労働基本権保障であったけれども,労働者の権利要求はマスコミから過剰な政治活動と非難された.韓国の民主化の漸進的特徴を示すものといえよう.韓国の労働者は民主化がはじまって10年後ようやく政治活動の自由を獲得するが,この自由を得るため雇用の柔軟化を受け入れなければならなかった.経済的利益配分に関する問題においては,両社会のマスコミは大体同じ認識をもっていた.労働者の生計保障は大事であるけれども,国家経済をも考えなければならないということであった.個人の自由より国家の発展を重視する価値体系が強い両社会において,責任の重視は労働者にとっても変わらない徳目とされたのである.
 終章では要約とともに韓国の労使関係の展開にみられる特徴を,企業内と企業外に分けて整理する.ポイントとなるのは多様性と変化である.韓国にも日本企業のような協調的労使関係を形成している企業が多く,従って韓国の労使関係を対決的労使関係と決め付けることは困難である.さらに民主化以降韓国の労使関係は変化を続けており,よく指摘されてきた対決的労使関係や政府の労使関係への介入などもそこから例外ではない.

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