近代中国におけるロシア文学の受容―李大釗・魯迅・瞿秋白ら五四期知識人を中心に―

白井 澄世

[本論文のテーマ]
 本論文は、五四期中国における同時代の世界のロシア文学テクストの伝播状況を分析し、比較文化史の視点から五四期知識人のロシア文学受容を再検討したものである。
 近代ロシア文学が中国近代文学の発展に及ぼした影響は大きく、その本格的な摂取が始まった五四期の受容状況については多数の先行研究があり、文学史的事実の解明が進んでいる。しかし同時期のロシア文学の総体的な役割についての考察は深められているとは言い難く、ロシア十月革命の衝撃とマルクス主義の伝播を起因とする革命性の摂取、および当時の新文学運動の課題であった「人道主義」の摂取という二点が指摘されるにとどまっている。それは先行研究の多くが中国国内のテクストの分析に留まり、五四期知識人がロシア文学から見出した革命性と人道主義を、五四期の思想的状況の中で考察していることが一因であると筆者は考える。そこで本稿では、五四期知識人がロシア文学からくみ取った「革命性」や「人道主義」の内容を、伝播したテクストの分析を通じて明らかにすることにより、五四期におけるロシア文学受容の役割に対する考察を試みた。

 

[第一部]
第一部では新文化運動の指導的知識人であった李大釗、周作人、魯迅を中心に五四期第一世代におけるロシア文学受容について分析し、その特徴を二点明らかにした。第一に彼らが共感を寄せたロシア文学が1905年第一革命時代のものであること、第二にそれは彼らが「大衆」に対する「知識人」のあり方を模索する中で道しるべとしたものであることである。
第一章「李大釗とトルストイズム」では、辛亥革命後、李大釗が中里介山著『トルストイ言行録』(1906年)を通じて、個人の倫理・道徳革命の実行に基づく平和世界の実現を「人道主義」として理解し、それを援用して独自の中国変革論を形成する過程を論じた。李大釗が中里介山を経て受容したトルストイズムとは、日露戦争および1905年ロシア第一革命時代に形成されたトルストイの「文明の転換」に対する希求から生じた革命思想であった。さらに李大釗は近代ロシア文学の中に、「人道主義」を「大衆」に浸透させ「革命」へと導く「文豪」=「先覚者」という知識人像を見出した。こうした李大釗におけるトルストイズムの受容とはいわば積極的な革命性の受容であった。
 第二章「五四期におけるドストエフスキー像の形成」では、五四期においてトルストイと並んで「人道主義」作家と称されたドストエフスキーの作家像の形成過程を論じた。周作人や茅盾、鄭振鐸ら文学研究会の作家は、ドストエフスキーは人間の普遍的な霊魂を描き、また下層社会の人々に同情を寄せた「人道主義」的作家であると評した。このような評価は周作人らが19世紀中期から20世紀初頭のヨーロッパ・アメリカ・日本・ロシアのドストエフスキー論テクストを参考にする中で形成されたものであり、ロマン主義的芸術性に対する評価と階級的観点に対する評価が混在するものであった。一方、五四期中国にドストエフスキーの翻訳作品が殆ど存在しなかったにも関わらず、作品「虐げられた人々」のタイトルが流布し、ドストエフスキーの「人道主義」的イメージを強化した。それは政治運動に「大衆」が現れた五四期の状況と関連する可能性を論じた。
 第三章「魯迅と1920~30年代中国におけるドストエフスキーの伝播」では、1930年代中国におけるドストエフスキー論テクストの伝播状況を明らかにした。1920年代末には韋素園および瞿秋白によってマルクス主義的観点によるロシアのドストエフスキー論がもたらされ、30年代には日本の「文芸復興」運動に煽られる形で多種多様のドストエフスキー論が流入し、五四期における「人道主義」イメージが薄れ新たなドストエフスキー作品解釈の基盤ができた。こうした状況の中で魯迅が独自のドストエフスキー観を述べるが、それは魯迅の礼教批判に根差す見解であり、30年代中国のドストエフスキー観を代表する意見ではなかったことを論じた。
 第四章「魯迅とアルツイバーシェフ『労働者シェヴィリョフ』」では、魯迅の「個人主義」の変容に伴って現れた「復讐」の情念の発生過程における『労働者シェヴィリョフ』の影響を確認した。魯迅における「個人主義」は民族解放運動における「人道主義」を行う先覚者のあり方であり、それは初めから大衆との対立をはらむ矛盾したものであった。その矛盾は五四運動後の政治的思想的な混乱の中で露呈し始め、それに伴い彼の「個人主義」の動揺が始まり、生命を抑圧する者への復讐の情念を露出する衝動が芽生え始める。その情念は散文詩「復讐」の章(『野草』所収)に結実するが、こうした衝動をひき起こす契機の一つとして、またそれを表現化する過程において影響を及ぼしたのが1905年ロシア第一革命で挫折した「個人的無治主義」者を描いた『労働者シェヴィリョフ』であった。

 

[第二部]
 第二部では、中国の革命運動に生涯を捧げ、「大衆」との関わりの中で自己の存在意義を追求した五四期第二世代の知識青年・瞿秋白の思想形成とロシア文学との関わりを「知識人アイデンティティ」の形成という観点から検討し、瞿秋白におけるゴーリキー受容の二つの特徴を浮かび上がらせた。第一に瞿秋白が革命運動に関わる際に道標としたのが1905年第一革命時代のゴーリキーであること、第二に瞿秋白がゴーリキーを通じて摂取したのは「大衆」と「知識人」との融合を可能にする積極的な革命性であるにも関わらず、その背後に自己破壊的な衝動があったことである。
第五章「五四期におけるベルクソン・生命主義に関する一考察―瞿秋白を中心に」では、瞿秋白がロシア文学を受容する前の思想形成に焦点をあて、五四期における生命主義の流行と彼の自己形成の過程を論じた。中国では五四運動直後から『創化論〔創造的進化〕』等ベルクソンの翻訳書・解説書が次々と刊行されて流行したが、その背後には一部知識青年の生命に対する危機意識が存在することを当時の「自殺」論争の検討を通して考察した。当時の一部の青年は「旧社会」から「新社会」を模索する中で自己を投企すべき社会を見出せず、切り離された固体生命として自殺の危機を抱え、その危機を超えて未来へ向かう生命のエネルギーを称揚した。瞿秋白も自殺論を生命論へ展開させ、自己と社会との新しい関係を結ぼうと試みた。さらにエッセイと詩で自己の物語を語ることにより中国社会の変革運動に投企する自己像を形成し、自己と中国再生の道を求めて革命後のロシアに赴いた。
第六章「1920年代における瞿秋白の知識人アイデンティティの形成―ゴーリキーの受容―」では、瞿秋白が中国の変革運動にかかわろうとした時に道しるべとしたのがロシア第一革命時代のゴーリキーであったことを論じた。瞿秋白はロシア滞在中、ネップによって利益をむさぼる「市?」(小市民)に対して危惧を抱き、ロシア知識人史の中に「市?」を弾劾する知識人像を模索する。その結果1905年第一革命において「反革命」である象徴派と対立し、「市?」を批判してプロレタリアートに与したと瞿が見るゴーリキーを見出した。彼はゴーリキーの「市?」観を共有し「反市?主義」の知識人の道を進むことを決意するが、それは中国における大衆運動に参加することであった。ただしそれは旧式の知識人の滅亡を見据えて大衆に投じるという自己破壊的な衝動に支えられたものであったことを論じた。
第七章「1930年代における瞿秋白の知識人アイデンティティの変容」では、革命運動から離れた瞿秋白が再び革命的知識人として自己認定する過程を検討した。1931年、瞿秋白は六期四中全会で批判され政治の中枢から追われた後、文芸活動に従事する。彼は自由人・第三種人論争、大衆文芸化論争に関わる中で、「市?」知識人を断崖する理論と大衆文芸化理論を模索する。その結果彼はゴーリキーの文芸理論を翻訳するが、その一部を『魯迅雑感選集「序言」』で引用した。さらに1933年党内批判を受けた瞿秋白は「反革命」的な『クリム・サムギンの生涯』を書いて革命運動に貢献したと瞿が見る文学者ゴーリキーを道標として再び革命運動に関わっていった。それは彼における知識人アイデンティティの確立でもあったことを論じた。

 

[終章] 
 終章では、第一部及び第二部を踏まえ、以下の本論文の結論を示した。五四期におけるロシア文学受容の特徴は三点ある。第一に五四期知識人が受容したロシア文学が1905年第一革命時代に焦点化したものであること、第二に彼らが当時のロシア知識人の「大衆」に対する心情に共感を寄せていること、第三にこうした共感には革命運動に向かう積極的な心情への共感のみならず、革命運動における挫折や自己破壊など消極的な情念に対する共感があることである。以上、これら三つの特徴が意味するものを第一革命時代のロシアと五四期中国との共通性から考察した。その共通性とは、政治や文化、知識人の存在意義における転換が行われた「文明の転換期」という時代性である。五四期におけるロシア文学受容の核心部とは、ロシア十月革命の衝撃やマルクス主義の伝播を起因とする革命性の摂取ではなく、第一革命時代のロシア知識人の「文明の転換」に対する期待や不安であり、新しい政治運動の主役としての「大衆」に対する彼らの理論と心情に対する共感であった。

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