<悲華経>の研究―釈迦五百誓願を中心として

石上 和敬

 本論文の目的は,インド成立の大乗経典の一つ,<悲華経>(KaruNApuNDarIka)について,その思想内容の中心を占める釈迦の五百誓願と呼ばれる部分の検討を通して,その成立事情の一斑を明らかにすることに存する.<悲華経>は,阿弥陀仏や阿閦仏等の浄土を選び取る諸仏に対して,穢土成仏を誓う釈迦仏の優位を宣説する経典であり,そこに説かれる釈迦の五百誓願とは,釈迦仏がはるか過去世に宝海というバラモンとして生まれた際にたてた誓願である.この<悲華経>の特徴の一つとして,他の仏典と共通する表現,または,他の仏典を参照しながら一部に編集を加えた表現等が極めて数多く含まれていることが挙げられる.このため,他の仏典に見られる関連表現やパラレル等を慎重に検討することが,<悲華経>の編纂事情や成立事情の解明にとって一つの有効な手段であると考えられる.また,<悲華経>という一大乗経典の編纂事情の解明を通して,未だ全貌が明らかにされたとは言えない各種大乗経典の成立事情の解明にも,ささやかな寄与が行えればと考えている.
 次に,<悲華経>のなかでも釈迦の五百誓願を中心に検討する理由を述べる.これまでの<悲華経>研究は,<悲華経>に収載されている阿弥陀仏の誓願文が,<無量寿経>等に説かれる阿弥陀仏の誓願文と酷似することに着目し,両経の誓願文の比較検討などが,主に浄土教への関心から考究されてきたが,研究者たちの関心が,その一点に,集中し過ぎたきらいがある.一方,上述の通り,<悲華経>の内容面での主題は,浄土を選び取る阿弥陀仏や阿閦仏などの諸仏よりも,穢土での成仏を誓う釈迦仏こそを,真の大悲を具えた仏として称揚することにある.以上の事情から,本論文では,思想面での眼目であり,なおかつ,これまでほとんど本格的な研究対象となってこなかった五百誓願部分に注目することとした.さらに,五百誓願は,巨視的に見れば,釈迦の仏伝を基調としており,この点で,他の仏伝諸文献とも共通の内容を豊富に含んでいるため,<悲華経>と他の仏典との比較対照を行い,その編纂事情を解明するという上述の目的のためにも,好適な箇所であると判断した.
 それでは,以下に,本論文の概要を紹介する.本論文は,〔本論〕と〔資料編〕とからなるが,はじめに〔資料編〕について説明する.
 〔資料編〕は「梵蔵漢対照テキスト(以下,「対照テキスト」)」と「訳注」からなる.「対照テキスト」は,五百誓願のなかの降兜率以降のいわゆる仏伝相当部分の,梵蔵漢(漢訳は二訳)を対照させたテキストである.対照テキストにおいては,蒐集した梵蔵漢の各々の写本,版本を対校させ,諸本の読みの特徴や,写本,版本ごとの系統分類にも,ある程度,見通しを与えている.なお,諸本の対校は,五百誓願中の一音説法に関する部分については,蒐集した全写本,版本を対校させたが,それ以外の箇所では,一部の写本,版本の対校に留まっている.
 〔資料編〕の「訳注」は,「対照テキスト」の梵本部分に対する訳注研究である.訳注作成においては,上述の本論文の研究目的に鑑み,他の仏典に見られる関連表現,パラレル等の指摘に特に意を用いた.訳注研究で明らかにした関連仏典,パラレル等の指摘は,本論の論述に反映されていくが,本論では言及できなかった情報も含めて,この訳注研究自体が,<悲華経>の編纂事情解明のための基礎作業であり,一つの成果であると位置付けている.
 次に〔本論〕の説明に移る.
 序章では本論文の問題の所在と研究方法を,<悲華経>に関する先行研究を確認した上で,明らかにする.まず,第一節では,これまでの<悲華経>研究を俯瞰した.<悲華経>を主たる検討対象とする先行研究については,個々の研究の概要を簡単に紹介した.また,<悲華経>を主たる検討対象とするのではない関連研究についても,管見の及ぶ範囲で紹介した.第一節起草の理由は,これまで,この種の<悲華経>研究概観が存在しなかったために,研究が重複することも多く,研究の積み重ねという面で,ある種のもどかしさが感じられたことを考慮しての故である.続けて第二節では,本論全体の問題の所在と研究方法が述べられる.
 第一章では,<悲華経>の文献学的研究の基礎となる梵蔵漢の資料の問題を扱う.第一節では,<悲華経>の梵蔵漢資料の諸情報を収集・整理した.<悲華経>梵本の標準テキストとなっている山田一止氏の校訂本の出版から40年以上が経ち,梵蔵漢いずれにおいても,参照・利用できる写本,版本の数が飛躍的に増大したため,それらの諸情報を整理したものである.これは,〔資料編〕「対照テキスト」作成の準備・基礎作業に位置づけられる.第二節においては,「対照テキスト」作成の過程で明らかになった,対校に用いた写本・版本等の諸本の特徴,系統分析などをまとめている.
 第二章「釈迦如来五百誓願の研究」は本論の中心部分である.先述の通り,五百誓願は釈迦の仏伝と見なし得るものであるため,他の仏伝諸文献や関連文献と比較した際の,五百誓願の仏伝としての特徴を検討した.
 第一節では,成道前の苦行の位置づけに注目した.仏伝諸文献では,成道前の苦行は最終的には放棄されるものとされているが,五百誓願では,苦行は成道への過程で肯定的な役割を果たしている.のみならず,苦行を目の当たりに見る者に,大きな利益がもたらされる,と力説される点も目をひく.つまり,釈迦の苦行は,自利のみならず,利他行でもあることが強調される.この点を関連文献との比較を通して明らかにした.
 第二節では,五百誓願内で,降兜率以前に,長時にわたって輪廻を繰り返すなかで,捨身などの苦行を含む布施行,菩薩行に邁進する,と誓われる点に注目した.第二節起草の意図は,前節で確認した釈迦の成道前の苦行は,最後生だけの問題ではなく,過去世の苦行,菩薩行とも一連のものと見るべきではないか,との視座に拠るものである.さらに,本節第二項においては,五百誓願での誓いに基づいて,その後の輪廻を繰り返すなかで,捨身行などの自己犠牲をともなう菩薩行を行じてきた様子が,六編のジャータカとして語られるが,それらのジャータカについても五百誓願の内容と深く関わるものとして検討した.
 第三節の第一項では,布施行や自己犠牲を伴う捨身行など,前二節で検討した五百誓願の特徴について,他の仏典に見られる関連記述を先行研究に導かれながら確認し,その上で,五百誓願に説かれる布施行,捨身行などとの関連を考察した.第二項では,衆生利益のために捨身等の自己犠牲を厭わない精神として,「代受苦」という概念に注目し,先行研究に導かれながら「代受苦」概念の枠組みを明らかにし,五百誓願全体に通底する「悲」の精神を「代受苦」と呼ぶことの是非について検討した.
 第四節の第一項では,仏伝としての五百誓願の特徴として,成道から般涅槃までの衆生教化の中心に一音説法が置かれていることに注目した.第二項では,他の仏典の一音説法描写を広く探索し,五百誓願の一音説法表現と関連の深い仏典の記述などを明らかにした.さらに,その検討を通して,一音説法が有する,多様な衆生を分け隔てなく摂取するという「悲」の精神ともつながる一面を浮き上がらせた.
 第五節では,仏伝としての五百誓願の最後の特徴として,般涅槃後の舎利神変が重要視されている点に着目した.特に,舎利(CarIra)を芥子の実ほどに細かく砕く,という表現を手がかりに,舎利の語義や細かく砕かれる意図などを,関連仏典などにも徴しながら考察した.また,舎利神変が手厚く扱われている理由として,阿弥陀仏と比較した際に,釈迦の八十年という寿命の短さの問題が根底にあることを指摘した.
 以上が,本論文の中心を占める五百誓願研究の概要である.結論として,五百誓願を仏伝的関心から捉えた場合,成道前の苦行,成道後の一音説法,及び,般涅槃後の舎利神変の箇所において,他の仏典とは異なる特徴を一部で見出したが,それらは,<悲華経>全体を貫く「悲」の精神に裏打ちされた特徴と見なすのが適当であること,また,編纂事情という関心からは,<悲華経>独自の描写のように見える箇所も,多くの場合,他の仏典に何らかの関連する記述を見出すことができることなどが挙げられる.
 第三章の第一節では,<悲華経>に見られる阿弥陀仏誓願文と<無量寿経>類の阿弥陀仏誓願文との比較対照という,これまで研究が尽くされた観のあるテーマについて,先行研究を精査し,新たな側面から再検討するものである.すなわち,<無量寿経>類のなかでも,古い漢訳である『大阿弥陀経』の記述と<悲華経>の阿弥陀仏誓願文との符合を手がかりに,<悲華経>編纂事情の再点検,及び,<無量寿経>自体の変遷史にも新たな視点を提供した.
 第二節では,<悲華経>に見られる阿閦仏や文殊菩薩の誓願と,<阿閦仏国経>や文殊経典とを比較し,前節で検討した内容と照応させている.
 以上が本論である.さらに,本論文では附論として,<悲華経>の日本中世での受容の一側面を語る資料として,曇無讖訳『悲華経』に増広編集を加えたとされる高山寺蔵『釈迦如来五百大願』という典籍に注目し,その編纂意図,『悲華経』との関係などの観点から三節を当てて検討した.

一覧へ戻る