明清期中国における演劇と社会―演劇政策の展開と社会関係―

村上 正和

 本稿は、明清期において演劇を通して形成されていた社会関係形成パターンを、清朝演劇政策や北京都市演劇の社会的実態といった諸問題を踏まえつつ、当該時期の歴史的展開の中に位置づけて論じたものである。

明清期において、士大夫や商人といったパトロン層の俳優寵愛は、単なる主人と服役的な被雇用者という関係である場合もあれば、同性愛的な強い情誼的関係である場合もあった。また、一口に俳優といっても、地方を流浪する者もいれば、北京で華々しく活躍する者もおり、その実態は多様である。俳優は賤業身分とされていたが、実際にはそう簡単に割り切れるものではなく、演劇を通して結ばれた社会関係は、身分秩序やそのゆらぎといった問題と深く関わりつつ、展開していったのである。

本稿では、以上のような複雑さを持つ社会関係を、家班型と劇場型として類型化することで、明から清にかけての社会関係形成パターンとして浮かび上がらせようと試みた。家班型とは、強い服役性を帯びながら、俳優が主人に仕えている社会関係を意味する。対して劇場型とは、特定の主人に服役するのではなく、劇場を活動場所とすることでより幅広い人々からの支持を受け、社会的地位を確立できる社会関係を意味する。

まず第一章から第三章にかけて、家班型の社会関係を取り上げた。第一章では、明末清初における家班型の社会関係について考察した。明末、社会の流動性の高まりと連動して、楽戸制度が弛緩する。その中で、士大夫の間では俳優寵愛や交際のための観劇が流行し、民間人もまた俳優業を選択するようになる。俳優は士大夫と結びつくことで富を獲得していたが、その振る舞いは身分秩序の乱れとして批判されることもあった。一方士大夫は俳優と結びつくことで評判を確立し、交際の幅を広げることができた。演劇を媒介とした家班型の社会関係は、身分秩序の乱れとして批判される反面、士大夫と賤業従事者の相互依存的な性格を持っていたのである。

こうした明末的状況は、王朝交替があっても継続していく。明清交替を経て、士大夫の劇団扶養や俳優寵愛がなくなったわけではない。明末清初の士大夫、陳維崧は冒襄の家伶であった徐紫雲を寵愛し、自分達の関係を絵を用いて周囲の士大夫に積極的にアピールしていた。そして次の乾隆年間になっても、陳維崧の一族である陳淮が題詠を求めていた。袁枚と沈初がそれを称賛し、翁方綱・于敏中・英廉らが題詠を寄せている。冒襄による董小宛寵愛が、明末士大夫の妓女寵愛を象徴しているのに対して、陳維崧の徐紫雲寵愛は、明末士大夫の俳優寵愛を象徴しているのである。

 第二章では、明末以来の演劇盛行に対応した雍正帝の演劇政策を考察した。注目したのは、楽戸廃止と官僚の俳優扶養禁止である。この二つの政策は、いずれも明末の社会流動性の高まりと密接に関連している。明末、戸籍によって定められた楽戸制度は、一般民戸で俳優業に従事する者の増加、人身売買の活発化によって弛緩していく。ただし、それでも明朝は楽戸制度を継続していた。その理由は、地方に分封した諸王への支給にあると考えられる。一方清朝は、諸王の分封そのものを行わない決定を下す。地方に諸王が不在であれば、政府が楽戸を制度的に準備する必要はない。根本的な統治構造の違いによって、楽戸制度はもはや不要になっていた。雍正帝の楽戸廃止は、社会の流動化を追認する身分政策の一環であると同時に、こうした統治構造の違いに起因していると考えられる。

 一方雍正帝は、士大夫の俳優寵愛に対して、官僚の俳優扶養禁止という形で規制を加えた。その背景には、本来賤業であるはずの俳優が、主人や顧客である士大夫の存在を背景に力を振るう明末的な身分秩序の乱れと、演劇を通して行われる交際に対する雍正帝の批判があった。雍正帝は、楽戸制度というもはや不要になった社会の枠組みを撤廃すると同時に、明末以来の社会流動化の過熱した状況に対しても、一部抑制を図ったのである。そして雍正年間以後、観劇や俳優寵愛は弾劾の口実として、官僚間の争いに頻繁に利用されるようになる。政治の中に個人の趣味がとりこまれたことで、屡々弾劾や処分の口実として利用されるようになったのである。

第三章では、清代の地方官と地方劇団との関係性、そして地方軍隊の演劇への関与を論じた。各地を広域的に移動し、在地の基盤を持たない劇団の場合、その経済状況は苦しいものであった。対して地方官を顧客にし得る劇団は、文字通り桁違いの金額を得ることが可能であった。さらに軍隊では、高位の者が地方官同様に劇団や俳優を利用するだけでなく、兵士を利用するという独自の形で、芝居が上演されていた。服役性を強く帯びる家班型の社会関係が、清代の地方でも形成されていたのだといえよう。

続いて第四章から第六章にかけて、北京を対象として劇場型の社会関係について論じた。

第四章では劇場が北京社会の中に定着していった過程を示すため、乾隆年間の演劇政策と万寿盛典との関連性、そして嘉慶年間における演劇政策の転換を論じた。北京において戯園と呼ばれる劇場が盛況を見せたのは、旗人を顧客として取り込んだことが一因と考えられる。そして乾隆年間になると、万寿盛典の影響を受けて、北京での劇場経営はより一層盛んとなる。乾隆年間には演劇規制も行われているが、いずれも万寿盛典後の出されたものであり、弾圧というよりは過熱した北京の風紀引き締めという性格のものであった。また乾隆年間には、防火対策のための建物検査が行われており、それを通過すれば内城でも戯園経営が可能であった。

 続く嘉慶年間になると、状況は一変する。嘉慶帝は親政を始めるとすぐに、内城における劇場経営の全面禁止を命じた。嘉慶帝のこの命令は相当に急激なもので、歩軍統領でさえ反対していた。それでも嘉慶帝は命令を実行に移し、以後、これは清末に到るまで清朝の基本政策となった。北京での芝居上演を平和と繁栄の象徴としていた乾隆年間の認識は、嘉慶帝によって否定されたのである。このように見ると、清朝の演劇規制は明末―雍正年間のサイクルと、乾隆―嘉慶年間のサイクルという局面変動として理解できるのである。

 第五章では、嘉慶帝に急激な方針転換を行わせた要因である、旗人と演劇・芸能との関わりを論じた。内城の警備や取り締まりを担当する歩軍統領衙門は、旗人を中心として運営されていた役所である。しかし、金銭を受け取るかわりに違法な経営を見逃すという、衙門官員と経営者との結びつきが生じていた。これもまた、清末にまで続く北京社会の実態であった。さらには、自ら俳優や芸人になる旗人も現れる。芸能を通じた旗人間の雇傭―服役関係も、形成されていた。家班型の服役的な関係性は、北京においても見られていたのである。しかし同時に、旗人が俳優業を選択した背景として、劇場で活躍していた人気俳優が、必ずしも賤のイメージで捉えきれなくなっていた状況があった。

第六章では、状元夫人という逸話に注目して、劇場型の社会関係について論じた。乾隆年間、挙人として不遇であった畢沅は、人気俳優李桂官の援助を受け、進士に合格する。李桂官はこれによって、状元夫人と称されることになる。この逸話は佳話として広まり、嘉慶・道光年間には二人に倣って自分達を状元夫人に擬える者も出現する。士大夫が俳優を庇護するのではなく、俳優が士大夫を援助する内容の状元夫人は、賤のイメージの強い家班型の社会関係としては理解できないものである。

 この逸話が生まれたのは、士大夫の宴会に俳優が呼ばれ、参加するという明末以来の交際のあり方が継続していたからであった。しかし決定的に違っているのは、劇場で活躍する一流劇団に所属している俳優が、士大夫の交際に参加し得たという点である。状元夫人になる資格を持つのは、民間の劇場で人気となった俳優であった。だからこそ、俳優は士大夫の側に完全に依存する必要はなかった。勿論、もともと力のある士大夫は俳優の援助を受ける必要はなく、士大夫と俳優の階層的な関係性そのものが逆転したわけではない。しかし、状元夫人が単発のエピソードではなく、後の世代にも受け継がれていったことは、評価を定める主体が一部の士大夫からより大勢の人々へと拡大し、それによって俳優への賤視の度合いが変化したことを示している。

良賤制そのものは明清時代を通じて継続していったが、明代と清代とでは、俳優が賤視されていたといっても、彼らの置かれていた環境は全く異なる。劇場を通すことで、俳優は認知度を高め、賤性の濃度を下げることができたのである。旗人が自ら俳優活動を選択していったのも、こうした賤性の濃度変化を背景としてのことであった。

 以上の議論を改めて整理すると、以下のようになる。明清期においては、家班型の関係性が広く作られていく。明末の江南地方では士大夫による劇団扶養流行があり、清代に入って雍正帝による一部制限を経ても、地方では官府や軍隊においても幅広く見られていた。他方で北京では、乾隆年間の万寿盛典を経て、演劇が劇場を中心としたものに変わっていき、旗人も演劇や芸能への愛好を深めていく。その中で、劇場型の関係形成パターンが成立していく。親政を始めた嘉慶帝はかなりの切迫感を抱いて、内城の劇場経営禁止という厳しい政策を実行するけれども、劇場を中心とした北京の演劇文化と、劇場型の社会関係の形成は以後も継続していくのである。

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