アリストテレスのアクラシア論―「自制心のない人」とはどのような人か―

相澤 康隆

 本稿の目的は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』第7巻のアクラシア論を解釈し、その哲学的意義を考察することである。

「アクラシア(akrasia)」というギリシャ語は「自制心がないこと」を意味する。アリストテレスの記述に即して規定すると、アクラシアとは、「ある行為を悪いと知りつつ、欲望のゆえにそれを行ってしまう性向」である。また、そのような性向に対応する行為は、研究者たちによって「自制心を欠く行為(akratic action)」と呼ばれている。たとえば、ダイエット中の人が、食べてはならないと知っているのに、欲望に負けて目の前のケーキを食べてしまうといった行為がそれに該当する。

 自制心を欠く行為が哲学的な問題になるのはなぜだろうか。それは、「合理的な行為者ならば、自分にとって悪いと知っていることを、自ら進んで行うことはありえない」という想定があるからであろう。自制心を欠く行為はこの想定と矛盾する。それゆえ、なぜそのような行為が存在するのかという問いに答えることが、合理性の観点から人間の行為を分析する哲学者にとっての課題となるのである。

 アリストテレスは『ニコマコス倫理学』第7巻第3章の中で、自制心を欠く行為がいかにしてなされるのかを説明している。この問いに答えるためには、「知っている」や「無知である」という言葉の意味を明確にする必要があるとアリストテレスは考えた。すなわち、自制心のない人は「悪いと知りつつ、欲望のゆえに行う」と言われるが、彼はいかなる意味で知っているのか。また、自制心のない人が行為の際に何らかの無知に陥っているとすれば、その無知とはいかなる意味での無知なのか。「知っている」や「無知である」という語の言語分析を通じて、自制心を欠く行為という現象を解明しようと試みるのがアリストテレスのアプローチの特徴である。

 それでは、自制心を欠く行為がなされるときの知のあり方とは一体どのようなものなのか。「自制心のない人はいかなる意味で知っており、またいかなる意味で無知なのか」という点に関して、多くの研究者が支持する次のような伝統的解釈がある。すなわち、自制心のない人は、たとえば「何であれ健康に悪いものは味わうべきでない」という大前提を所有している。この前提に加えて、もし彼が、「これは健康に悪い」という小前提を所有していて、その前提に意識を向けているならば、彼は「これを味わうべきでない」という結論を導き出すことができるだろう。ところが、欲望の影響によって、彼は小前提に意識を向けることができない状態になっているため、「これを味わうべきでない」という結論を導き出すことができない。伝統的解釈のポイントをまとめると、「自制心のない人は、大前提を所有しているという点では知っている。しかし、小前提(および結論)に意識を向けることができないという点では無知である」となる。

伝統的解釈の最大の難点は、自制心のない人が抱くはずの葛藤を説明できないところにある。自制心のない人は、「これを味わうべきでない」と知っている(あるいは判断している)からこそ、「私はこれを味わうべきでない。でも味わいたい」と葛藤するのではないか。自制心のない人が伝統的解釈で示されるような無知の状態に置かれているならば、彼は「この行為をすべきか否か」について葛藤しないことになってしまう。伝統的解釈は、できるかぎりテクストに忠実な読みを試みる点では評価できるが、自制心を欠く行為に関して非現実的な説明をアリストテレスに帰するという欠点を持つ。

伝統的解釈には上記の難点があるために、それに代わるいくつかの新たな解釈が提唱されてきた。とはいえ、新解釈は、大胆な読解を通じてアリストテレスの議論を擁護しようとするあまり、テクストから離れてしまっているように見える。つまり、「テクスト解釈としての妥当性」という観点から見て、どの新解釈に対しても不満が残ることは否めない。

こうした研究状況を踏まえて、本稿で私は以下のように論じた。アリストテレスは第7巻第7章において、自制心のない人を「性急な人」と「弱い人」の二種類に分けている。二つのタイプのうち、「性急な人」に関しては、伝統的解釈は正しい。つまり、性急な人は、「これを味わうべきでない」という結論に至ることなく、欲望に従って行為する(そのため、性急な人は行為に際して葛藤しない)。他方、弱い人は、行為に至る前の段階で、「何であれ健康に悪いものは味わうべきでない。しかるに、これは健康に悪い。それゆえ、これを味わうべきでない」と推論する。そしてその段階で、「私はこれを味わうべきでない。でも味わいたい」と葛藤する。ところが、快楽への欲望が彼の心を占領することによって、弱い人は最終的には「これは健康に悪い」という小前提に意識を向けることができなくなり、その結果、「これを味わうべきでない」という結論も認識できなくなる。要するに、弱い人に関して、「葛藤している段階」と「葛藤を終えて行為に至る段階」を区別するのが私の解釈のポイントである。

 以上で述べた解釈は、「行為に至る前の段階で弱い人は葛藤する」とみなす点で伝統的解釈と異なるものの、「行為の最中に自制心のない人は『この行為をすべきでない』という結論に意識を向けていない」とする点では伝統的解釈と共通する。さて、これがアリストテレスの見解だとすると、次のような疑問が生じる。自制心を欠く行為というのは、「この行為をすべきでない」という結論に最後まで意識を向けているのに、にもかかわらずその行為をしてしまうことではないか。あるいは、少なくとも、自制心を欠く行為の中にはそのようなケースも存在するのではないか、と。この種の行為を「明晰なケース」と呼ぶことにしよう。実は、自制心のなさを論ずる現代の哲学者たちの主要な関心は、「明晰なケース」をどう説明すればよいかという点にある。アリストテレスの理論では「明晰なケース」を説明することができないとすれば、それは重大な欠陥と言うべきではないだろうか。

 この批判に対して、本稿では、「現代の哲学者の関心とアリストテレスの関心は必ずしも一致しない」と指摘することによって、アリストテレスの擁護を試みた。自制心のなさを論ずる現代の哲学者の考察対象は、「行為者一般が自制心を欠く行為をする場合」である。つまり、自制心を欠く行為の主体は、ある特定の性格の人に限定されてはいない。他方、第7巻第3章におけるアリストテレスの考察対象は、「自制心のない人が自制心を欠く行為をする場合」である。アリストテレスの関心は、行為そのものよりも、ある種の性格を持つ行為主体に置かれている。自制心のない人の性格的特徴を行為の分析を通じて明らかにすること、これがアリストテレスの目的なのである。それでは、自制心のない人の性格的特徴とはどのようなものか。「欲望の影響によって最終的には結論に意識を向けていない」という点を踏まえてこの疑問に答えるならば、「自制心のない人とは、欲望のせいで理性的認識が一時的に曇ってしまう人である」と言えよう。

アリストテレスの考察対象を正しく理解すれば、「明晰なケース」の存在がアリストテレスの理論を損なうものではないことも理解できる。おそらくアリストテレスは、「明晰なケースを人々が経験することはあるかもしれないが、それは自制心のない人を自制心のない人たらしめる特徴ではない」と答えるだろう。

 それでは、自制心を欠く行為そのものよりも、自制心のなさという性格に着目するアリストテレスのアクラシア論にはどのような意義があるのだろうか。この問いに関して、私は「悪しき性格の定着」という観点からアリストテレスの理論の意義を論じた。

自制心を欠く行為は、われわれにとって何ら珍しい現象ではない。とりわけ、欲望の対象を味覚や触覚の点で快いものに限定せずに、それ以外のさまざまな対象にまで拡張するならば、自制心を欠く行為は多くの人々が日常的に経験することだと思われる。たとえば、「受験が終わるまで毎日勉強すべきだ」という方針を持っているのに、勉強せずに遊んでしまうというように。

もちろん、多くの人々は、「通常は自分の行為方針(大前提)に従って行為しているが、自制心を欠く行為をする場合もある」という程度だろう。その程度ならば、「自制心のない人」とは呼ばれない。とはいえ、欲望に負けて大前提に反した行為を何度も繰り返していると、やがては当該の欲望に関して「自制心のない人」になるだろう。その意味では、われわれの多くは「自制心のない人」のいわば予備軍なのである。そして、自制心のなさは避けるべき性格であるというアリストテレスの見解に同意するならば、われわれは、自制心のなさが性格として根づく前に、大前提に応じた行為を繰り返さなければならない。これは、自制心のなさという性格に着目するアリストテレスの理論から学べる教訓の一つである。

アリストテレスのアクラシア論を解釈する際、解釈者の関心に即して彼を批判するだけでは生産的とは言えない。われわれは、アリストテレスの関心を的確に理解し、そのうえで、彼の議論の中にどのような有益な視点を見出すことができるのかを考えるべきであろう。

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