全真教における性命説の成立と展開

松下 道信

本論考は、全真教の性命説を論じたものである。時代範囲としては、全真教が登場する直前の北宋から、教団の変化が起こったとされる元代までを取り上げる。これを論ずるにあたり、以下の構成をとる。

序章
第一章 「性命双修」と「形神倶妙」
—鍾呂派といわゆる全真教南宗と北宗の関係について—
第二章全真教の革新性について
—性説の取り込みとその超克—
第三章牧牛図頌に対する道儒二教の反応
—円明老人『上乗修真三要』と譙定「牧牛図頌」を中心に—
第四章南北宗の融合と頓漸論
—牛道淳と李道純を中心に—
第五章趙友欽・陳致虚の性命説について
—「達磨西来の意は如何(ダルマはなぜ中国に来たか)」—
結語
各章における論旨は以下の通りである。

序章
序章では、全真教の性命説を取り上げるにあたって、従来の研究の枠組みを点検する。
「性命双修」は、性と命をともに円満に修養するという全真教の重要な考え方である。だが、実はこの考え方は一般に全真教に先行する北宋・張伯端の著した『悟真篇』により提唱されたとされる。他方、金朝下、王重陽により開かれた全真教は、劉徳仁の真大道教・蕭抱珍の太一教とならんで一般に「新道教」とされる。この名称が表しているように、ここでは先行する道教諸派との断絶が強調される。となれば、先行する張伯端以下の内丹道と王重陽の全真教はどのような関係にあるのか。ここで「新道教」という従来の研究の枠組みが問題になる。
全真教に対して「新道教」という用語を用いたのは常盤大定『支那における仏教と儒教道教』(1930)に始まる。その後、中国では陳垣が『南宋初河北新道教考』(1941)を、また戦後では窪徳忠がこれらを受け、『中国の宗教改革』(1967)を著した。全真教を「新道教」とする研究の枠組みは基本的にこれらの日本と中国の研究者により形作られてきたものである。しかし、これらを分析すると、「新道教」が、その背後にきわめて近代的な歴史的経緯を背負った術語であるということが分かる。またこの「新道教」という言葉により、たとえば浄明道などいわゆる「新道教」以外の諸派について目を閉ざすことになる。つまり、我々は「新道教」というこの術語を離れ、もう一度当時新たに勃興してきたさまざまな運動を見直す必要があるのであり、性命説も近世期の幅広い思潮の中で展開してきたととらえるべきである。序章では、全真教を「新道教」と見ることによるこうした問題点を指摘し、本論考全体の論点を明らかにする。

第一章「性命双修」と「形神倶妙」
第一章では、張伯端以下の内丹道と王重陽の全真教の思想的な連続性について論じる。
全真教は、唐から宋にかけて勃興してきた禅宗に対する道教側からの一つの反応であるといいうる側面を持っており、この意味でやはり同じ時期に成立した朱子学と全真教はパラレルな関係にある。こうしたとらえ方は常盤大定によりすでに提唱されていたものである。ただし常盤大定は北宋の周敦頤より百年後に活動した王重陽をもってこれに当てるが、実際には北宋の張伯端がそれに相当すると考えられる。張伯端の著した『悟真篇』は先行する鍾呂派と異なり、内丹の実践に加え頓悟の必要性を説き、仏教の性説を取り込んでいたからである。これは「性命双修」と呼ばれる。従来、この言葉は鍾呂派の文献に見える「形神倶妙」とほぼ等しいと見なされていたが、ここには禅宗や頓悟をめぐって大きな違いが見て取れる。
また張伯端以下の内丹道とは独立して成立し、展開した全真教でも「形神倶妙」に性命を重ねる用法が見られ、即座に直接的な影響があったとは断定できないものの、それでもやはり王重陽が北宋以来の張伯端による性説の摂取の思潮の上にあったことが認めてよいだろう。常盤大定・窪徳忠によれば、全真教は張伯端以下の内丹道、すなわち南宗との接触により「堕落」や変容したとされていたが、実際には性説の摂取という点で両者は本質的に同じ思想的な基盤に立っているということであり、そのような簡単な断定はできないということを意味している。

第二章全真教の革新性について
第二章では、王重陽以下の全真教、すなわちいわゆる北宗の性命説について点検する。
まず南宗の性命説を張伯端の『悟真篇』で確認しておくと、そこでは性と命が補完関係でとらえられているのが分かる。すなわち、命功の側からいえば、内丹を修めるだけでは肉体に執着することになるので見性することでその迷妄を破らねばならず、性功の側から説明すれば、頓悟の後の習漏を認める立場に立ち、これを浄化するために金丹を修めねばならないとされる。この頓悟の後の習漏を認める立場は、いわば鈍根的な修行観ではあるが、当時の頓悟頓修に傾く禅宗の一つの受け皿となった側面を持っていたと思われる。
これに対し、北宗では全面的に真性を把捉した果てに造化やそれに伴う世界の秩序が現れ、そこでようやく金丹が成就し、命功の完成するという。しかし、北宗ではこのために一切の習漏を残さぬ完全な境地、すなわち無漏を成し遂げなくてはならないとする。ここから分かるとおり、全真教北宗はきわめて上根的な立場に立脚しているのであり、この点で大いに南宗の立場と異なる。また北宗において性功の果てに造化や命功が現れるという教説が説かれた背後には、当時の戦火の絶えない過酷な社会環境にあって、現実世界とどう向き合うかという問題意識が作用していたと思われる。だがこの点で全真教はきわめて禅宗と鋭く対立し、そこには従来の一気か一心かという道仏間の古い問題が再び立ち現れてくることになる。至元年間の仏道論争の原因の一つはここに求められるかもしれない。

第三章牧牛図頌に対する道儒二教の反応
第二章では北宗と禅宗の差異に焦点を当てて論述したが、その一方でやはり北宗は南宗と同様に、性説の摂取という大きな思潮の中で成立しているのであり、そこに禅宗の大きな影響が見られるのは否定できない。これはまた全真教南北宗だけではなく、同時期に勃興しつつあった道学(朱子学)を含めた近世期初頭の大きな流れであったと思われる。
第三章では、その一つの実例として、普明や廓庵に代表される禅宗の牧牛図頌が北宗や道学に強い影響を与え、全真教北宗では円明の『上乗修真三要』巻上に見える「牧馬図頌」や、道学では譙定「牧牛図頌」などが制作されるに至ったことを論じた。ただし、細かく分析すると、それは単なる禅宗の模倣に終わるのではなく、やはり禅宗とはまた異なる造化や礼といった道教や儒教に特有の視点が見てとれる。

第四章南北宗の融合と頓漸論
第四章では南北宗融合期を取り上げる。金の滅亡後から次第に始まっていた南北宗間の接触は、やがて南宋滅亡により決定的になり、張伯端以下の内丹道が全真教を名のる形で融合していく。この時期、両派が融合していくにあたっては、おそらくは第一章で見た通り、それらが同じ性説の摂取という思想的に基盤が存在していたことがその背後にあっただろうと想像される。しかし、両者は独立して展開しており、その教説には特に機根の問題をめぐって差異が存在する。すなわち南宗が鈍根的立場をとるのに対し、北宗では上根的な立場をとる。こうした両者の違いが調停される形で現れたのが、この頃南北宗双方で登場する一群の頓漸論の議論であったと思われる。
性命説に関していえば、もともと北宋・張伯端の『悟真篇』では内丹が「命術」とよばれ、禅宗に由来する頓悟や見性は「性法」と呼ばれていた。このため命・性はそれぞれ道教と仏教、内丹と禅宗にスライドされることになり、内丹が漸修的修養であるのに対し禅宗では頓悟を説くため、命・性は漸と頓にも関係づけられた。ところが、南北宗融合期のこの頃になると、両者の修行観の違いから、さらに鈍根・利根、身体性・精神性、また南北宗の関係までが読み込まれることになったのである。なお特に南宗では南宋で完成した朱子学の影響から太極図・図説を用いてしばしば教説が整理された。この背景には、地理的な問題もさる事ながら、北宗が存在論・生成論的思考をあまり重視していなかったことや、また一方で南宗の身体性を重視するあり方も一つの原因として指摘できるように思われる。

第五章趙友欽・陳致虚の性命説について
全真教北宗は至元年間に行われた仏道論争に敗北し、『道徳経』を除く諸経典が焚書されるという事態になった。また南宋滅亡以降、江南の天師道が元朝の中で勢力を伸ばしてくる。こうして北宗は相対的に地位が低下し、また焚書されたこともあって文献的にその実態をたどることが困難になる。
第五章ではこうした状況下、江南で活動した趙友欽と陳致虚の性命説を取り上げる。趙友欽と陳致虚は性功に傾斜する全真教北宗の系譜を標榜しながらも、実際には南宗の教説の影響を色濃く受け、命功を非常に重視した。特に陳致虚はそれまで根機の問題が性と命にそれぞれ関連付けられていたのを読み替え、性功と命功の双方に利鈍があるとした。こうして、陳致虚は「命術は小伎にあらず」として命功を積極的に位置づけた。彼らの登場は、頓修的立場に立つ禅宗とは異なる漸修的あり方を指向するものであり、人倫・政治へと傾斜する朱子学などとも合わせ、当時の全真教の位置や宗教的な棲み分けを示唆しているかもしれない。また常盤大定らにより趙友欽・陳致虚の教説は全真教北宗を「堕落」に導いたとされたが、彼らの書物が後世受容されたという事実は、明清期のいわゆる停滞期の全真教を考える上でも重要であり、その積極的な意義を考えていかねばならないだろう。

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