カンブレー大聖堂の聖歌隊 中世・ルネサンスにおける音楽家とその組織

山本 成生

この論文は、中世からルネサンスにかけての西欧世界における「音楽家」の社会的身分のあり方とその組織構造の解明を目的とするものである。この時代において音楽を生業としていた諸身分のなかで特に着目したのは、教会に仕え、日々の聖務において音楽の演奏を行なっていた「聖歌隊」の構成員である。彼らは教会制度のなかでは「聖職者」(ないしはそれに類する存在)として規定される一方で、とりわけ中世後期になると、音楽に関する専門的な能力も求められるようになっていた。これら価値観の相克のなかで、彼らの存在形態はいかなるものであったのか、これが本論を貫く主要な論点である。
個別の調査対象には、北フランスのカンブレー大聖堂の聖歌隊を取り上げた。この教会はギヨーム・デュファイを始めとした著名な音楽家が多数、在籍していたことで知られ、当時のヨーロッパにおける中心的な「音楽拠点」として、研究者によって重要視されている。本研究は、フランスのノール県立文書館やカンブレー市立図書館などに所蔵される、同教会参事会関連の未刊行史料の読解に基づき、そこに所属した人間たちがいかにして日々の礼拝に関わったのかを論じ、また音楽史家によってやや過大評価されている、この教会の音楽保護のあり方について修正を加えることを目的としている。

本研究の構成は二つの部からなる。第1部は「準備的考察」として、研究史上の位置付けや個別対象に関する概説、そして使用される史料の性質が検討された。
第1章「音楽拠点研究の現状と課題」では、本研究にもっとも関連が深いと思われる欧米の「音楽拠点研究」について論じた。「宮廷」「教会」あるいは「都市」といった、前近代における主要な音楽活動の「場」に着目した研究が、1970年代以降、欧米の音楽学界ではさかんに行なわれている。そうした流れは基本的には評価できるものの、教会音楽家の身分に関する議論はいまだ不十分である点は否めない。そこで本研究では、教会制度の枠組みを自明かつ不変なものと捉える従来の研究の立場を離れ、それ自体を、音楽制度とその発展にとって不可分なものとして考察することが確認された。
第2章「音楽拠点としてのカンブレー大聖堂」では、まずこの教会の歴史的・空間的な情報や教会制度の概要について整理し、次に「音楽拠点」としてのその位置付けを検討した。著名な音楽家の存在や同時代における証言、そしてクレイグ・ライトによって1970年代になされた一連の研究によって、この教会は音楽に対する手厚い保護を行なっていたとみなされ、またそこでの事例は、当時の音楽と音楽家のあり方として一般化される傾向がある。こうしたことから、本研究はライトの学説を批判し、上記の理解に修正を加えることも、目的の一つとしている。
第3章「史料」では、本論における様々な議論の土台となる史料群を検討した。本研究はもっぱら、カンブレー大聖堂参事会に由来する文書類を取り扱うが、とりわけ重要な「参事会審議録」と下級代理職の会計文書について検討が行なわれた。

第2部「カンブレー大聖堂の聖歌隊」では、以上を踏まえ、教会組織における音楽と音学家のあり方を、それぞれの身分や集団から検討した。
第4章「参事会の音楽保護政策」では、カンブレー大聖堂において、日々の霊的・世俗的事柄の責任を負っていた「参事会」の音楽保護政策を論じた。教会の音楽保護にはある種の保守性があり、また本来的には参事会(員)自身が聖務を執り行なわなければならないという制度理念から、参事会と音楽家の関係は世俗諸侯の宮廷でみられるような「パトロン」と「クライアント」のそれにはなり得なかった。これらを踏まえ、具体的な事例の検討として、1268年における「上級代理」の設置と、1500年に行なわれた参事会員聖職禄の下級代理職への割り当てなどの政策が論じられた。そして最後に、16世紀初頭における下級代理の給与制度改革の内容とその意義が検討された。
第5章「『音楽家参事会員』の実像」では、「代理担当参事会員」と呼ばれる職務とその担い手を考察した。音楽史家によって、彼らは音楽監督としての「聖歌隊長」とみなされる傾向がある。しかし、在職者の伝記的情報やその職掌の検討によって、この職には音楽家でない者も少なからず就いており、またその権限は必ずしも排他的なものではなかった点が指摘された。続く二つの節では、音楽家として知られる参事会員個人にそくして検討を行なった。例えば16世紀初頭のヴァンサン・ミゾンヌの事例は、ローマ教皇庁聖歌隊の構成員がいかにしてカンブレー大聖堂の参事会員聖職禄を獲得し、他方で同教会は彼らに何を求めていたのかという問いに関して、有益な情報を提供するものである。
第6章「代理とその周辺」では、日々の礼拝における聖歌の演奏で中心的な役割を担っていた「下級代理」という身分を中心に論じた。彼らは音楽史家によって「歌手」ないしは「音楽家」と一様に考えられているが、その内実は非常に多様なものである。本論ではまず代理を研究する際の史料的な問題を整理し、続いて、受け入れから除隊にいたるまでの彼ら活動の実態が、演奏実践の観点も踏まえて考察された。上級代理や礼拝堂付き司祭という役職が彼らの「昇進先」として有効に機能していたのかという論点については、筆者が作成した現時点でもっとも詳しい該当者のリストをもとに検証された。また代理ではないが礼拝に参与していた「遍歴の音楽家」や祭壇補助者の存在も指摘された。これらを踏まえて、下級代理とその周辺にある人々の雑多な性格が、カンブレー大聖堂の音楽生活を支えていたという見通しを立てた。
第7章で扱ったのは、いわゆる「少年聖歌隊」である。現代のそれとの混同を避けるために、ここではまず歴史学の分析概念としての「少年聖歌隊」を定義し、続いてその研究史を概観した。史料の残存状況から近世における少年聖歌隊の研究が進んでいるため、それらの諸研究を参照しつつ一般的な傾向を論じた。続いて、少年らの管理方針を定めた中世末期の二つの史料を検討した。そこでは、音楽的な事柄よりも品行方正さが、彼らの教師に求められていた。そして最後に、入隊から除隊にいたるまでのカンブレー大聖堂における少年聖歌隊の「日常」を瞥見した。その他に、15世紀において彼らの居住環境はそれほど望ましいものではなかった点や、除隊後の元少年聖歌隊員らには勉学の道が開かれていたことなどが指摘された。
第8章「少年聖歌隊教師と参事会の雇用戦略」の主題は、この子供たちを指導していた教師たちである。この職務は、作曲家として現代にその名を残す音楽家が多数、務めていた一方で、その基本的な職務内容や社会的身分などについてはあまりよくわかっていない。そこで、15世紀に彼らを雇用する際の基準が大きく変わったというポーラ・ヒギンズの主張をまず紹介し、続いてカンブレー大聖堂の事例を検討した。その結果、以下の三点があきらかにされた。(1)15世紀後半における度重なる招聘の失敗にみられるように、カンブレー大聖堂の少年聖歌隊教師は必ずしも有利な立場にある訳ではなかった。(2)ヒギンズの主張とは反対に、この教会では「生え抜き」の教師が好まれるようになっていった。(3)16世紀になると、少年聖歌隊員からその教師を経て参事会員まで登りつめる一種の「内部昇進」のルートが成立した。

以上の分析をもって、本論文は次のように結論付けられた。カンブレー大聖堂の聖歌隊組織と音楽保護のあり方をめぐって、これまでの研究は、ある意味で単純な理解にとどまっていたといえる。すなわち、そこには職業的「音楽家」による大規模が合唱隊が組織されており、教皇庁聖歌隊の出身者を中心とした参事会員たちが、その指揮にあたっていた。参事会はその音楽的名声を維持するための努力を厭わなかったし、多くの音楽家がこの教会に仕えるために北フランスや低地地方の各地より集っていた、と。
それに対して、本論が提示するのは、司教座聖堂という伝統的な組織における保守性と音楽的革新の複雑な鬩ぎ合いの諸相である。中世盛期以降、司教座聖堂における日々の聖務は、「代理」と呼ばれる下級聖職者や少年聖歌隊によって担われていたが、それらは本来、聖堂参事会員が行なわれければならないものであった。こうした理念は決して消え去ることはなく、彼らの存在のあり方を規定し続けていたのである。「聖歌隊」の問題は確かに「音楽家」の専門領域になりつつあったが、しばしば教会全体の事項として取り扱われた。これは中世・ルネサンスにおける音楽組織の限界であったかもしれないが、他方で柔軟な対応を可能とする長所でもあった。音楽を担っていた下級聖職者の身分についていえば、そこには非常に雑多な人間が含まれており、彼らもまた「聖職者志向」と「音楽家志向」の狭間のなかで生きていたといえる。近代的・職業的な「音楽家」像からみると未熟で曖昧な存在かもしれないが、そこにある可能性と力強さを本論は評価したい。

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