天性の詩人と評されつつ、小説家としても大きな足跡を残した佐藤春夫。生涯にわたって詩と小説の両ジャンルを手放さなかった作家は、日本近代文学史上あまり多くの例を見ない。そもそも春夫はなぜこれら二つのジャンルを必要とし続けたのか。本論の第一部(佐藤春夫における「自我」形成と自己演出)では、春夫におけるジャンル意識のメカニズムを、その形成過程に遡って分析し、そこからデビュー以後大正後期にかけての春夫の芸術論の展開を総合的に把握することを目指した。
明治末期、早熟の少年詩人(歌人)として登場した春夫は、大正初年代から散文を試みて幾つかの習作を執筆するも振るわず、画家への転向も考えながら、一時期神奈川県の田園地帯に「隠棲」している。だが、結局はそれが状況を打開する糸口となり、田園生活をモチーフにした作品「田園の憂鬱」(大7)の成功によって小説家として認知されるに到った。小説の試作開始から文壇デビューを果たすまで実に四年以上の時間がかかっている。その間に書かれた「田園の憂鬱」も、再三にわたる推敲を経て成ったため、この期間は純粋な詩人が散文体を獲得するための困難な修業期間であったと一般には考えられてきた。だが、デビュー直後の大正8年に集中的に発表された春夫の芸術論が、いずれも「詩」を極度に理想化していることに鑑みると、春夫の散文習作期は「詩」の意義を再確認する契機ともなっていたのではないか。苦労して小説家に転じたはずの春夫が、なぜ「詩」を理想化しなければならなかったのかが、ここでは問題になる。
第一短篇集『病める薔薇』(大7・11)に収録された「歩きながら」「円光」(大3)「戦争の極く小さな挿話」「或る女の幻想」(大6)「指紋」(大7)など初期の習作小説群に共通する特徴は、いずれの作品も、主観の外へ出られない人間の悲劇性を描き出した点にある。同じことは、春夫の絵画制作の試みについても言える。二科展に三度連続入選するほどの画才を発揮した春夫は、自分の作風が後期印象派に近いものであることを当時言明していたが、この立場は、セザンヌを師と仰いで自我や個性の普遍的な価値を高唱していた白樺派の立場とも基本的に重なるものである。だが、春夫の場合、自己の目が捉えた映像が、本人の「信仰」以外に何ら正しさの根拠も持ち得ないということを、極めて冷静に認知していた所に、白樺派との最大の相違がある。恐らくこの時期の春夫は、絵画や散文の試作を通じて、普遍性に到達し得ずに漂い続ける自我の孤立した本質を掘り出していたのであろう。春夫が見出した「個」は、周囲との関係において常にアブノーマルへと反転する危険性を伴った、多分にネガティブな要素を持つ概念だったのである。
さればこそ春夫にとって、「個」の絶対性・普遍性を憚らずに揚言できる白樺派の自信に満ちた態度は、極めて魅力的なものだったに違いない。当時白樺派の中心的な論客であった武者小路実篤を、春夫が「詩人」と呼んで評価していたことは注目に値する。大正8年に春夫が多作した芸術論の中でも、「詩」は個性の純粋な表現であることが繰り返し語られていた。つまり春夫は、個性の普遍化・絶対化を願う一面を「詩」に托し、そこから脱落せざるを得ない現実の悲哀を「小説」に托したという訳だったのである。春夫の浪漫主義の基本的な構造が、こうしたジャンル意識のダイナミズムとして確立されて行くのが、文壇デビューに到るまでの春夫の足取りであった。
さて、これまでに取り上げてきた「詩」は飽くまでも、浪漫主義の構成要素として概念化された「詩(の精神)=ポエジー」のことを指している。だが、春夫は谷崎千代をめぐる潤一郎との確執(小田原事件)を契機に、再び現実の「詩」を作り始めている。その最初の成果が『殉情詩集』(大10)であったが、ここで選ばれた詩の形式は、口語自由詩が詩壇の趨勢を占める当時において、時代に逆行するような文語定型詩であった。春夫はなぜこの詩形を選択する必要があったのか。「(表現としての)詩=ポエトリー」に関する春夫の考え方をここで明らかにして行かなくてはならない。
春夫は後年の詩論「僕の詩に就て」(大14)で、〈古情を愛した時にだけ僕は歌ふ。僕の詩は稀で、大てい古語で綴られてゐるのはこの理由による〉と述べている。またこの文章には〈詩人は僕の一部分である。散文家は僕の全部である〉という言葉も見えており、文語定型詩を択ぶ春夫の狙いには、「詩」と「散文」とを区別しながら役割づける意識が介在していることが窺われる。こうした意識の萌芽は、やはりデビュー当座の芸術論の中からもすでに発見することができる。それによれば春夫は、自分の小説が「散文詩」に近いものであることを否定的に捉えており、その原因を「韻律」のない日本語の性質によるものだと考えていた。この地点で春夫の課題は、日本語という与えられた表現媒体の中で、「詩」と「散文」との役割をいかに分離するかということに見定められて行くことになる。「散文」が「詩」の侵蝕を受けないように春夫が講じた予防策こそが、つまりは文語定型詩だったのではないか。「詩」にあえて厳格な「韻律」を与えることで、自らの詩情に明確な形を与え、「散文」との分離を図ったのである。
ここで注目したいのは、初期の認識論の文脈ではかなり抽象的だった春夫のジャンル意識が、現実のポエトリーを対象にすることで、「日本」ないし「日本語」というナショナリティーの問題に結び付いて行ったことである。先に挙げた「僕の詩に就て」の中にも、〈僕は純粋な日本語の美に打たれることが折々ある〉という一節がある。また、大正後期の評論「「風流」論」や「散文精神の発生」(大13)にしても、それらは紛れもなくジャンル論とナショナルアイデンティティとの相関関係を示すものだったのである。文学史の常識が語るように、新感覚派やプロレタリア文学が登場する大正後期の文学シーンにおいて、既成作家たちがこぞって心境小説・私小説の定義に関心を抱き始めた現象は、日本の固有性を発見しようとするナショナルな動機を秘めたものであった。だが、そうした同時代の趨勢に対し、「詩」と「散文」という二つのジャンルの実作者として関わって行った所に、春夫の独自性を見出すことができる。
ならばここでは、ジャンル論とナショナリティーとの交錯が、春夫自身の経歴の中でどのように用意されたかが問われなくてはならない。それに重要な役割を果たしたと思われる二つの要素に本論では注目する。一つはデビュー作『田園の憂鬱』の長い改稿過程であり(第二部・『田園の憂鬱』の成立と展開)、もう一つは、小説家デビュー後、詩作を再開するまでの二度目のスランプの期間に旅をした、台湾・福建地方での体験である(第三部・表現機構とナショナルアイデンティティ)。
第二部で扱った『田園の憂鬱』は、春夫が神奈川県の田園地帯に「隠棲」している当時に発表した生活雑記を、三人称に書き換えて小説化した『黒潮』版の初稿がもとになっている。春夫を有名にしたのは、『中外』版の第二稿という、これとは全く別に起稿された作品だったのだが、両者は題材が近い所から無理やり一本化されて第一短篇集に収められ、その後さらに加筆訂正されてようやく定本の形にまとまった。さて、『黒潮』版は「芸術的因襲」に絡みつかれた主人公の「自然」との出会いと、ディレッタントとしての性格分析とを主眼を置いた作品であり、『中外』版は出口のない憂鬱な田園生活の中で、意識生活と無意識生活との差異に直面する主人公の感覚体験を断章形式で塗り重ねたものであった。これらのモチーフの間には本来何の関係もないが、一つの作品の中に取り込まれることで否応なく相互に関係性を生じることになったのである。すなわち、主人公が自分の無意識の中に刻まれた「芸術的因襲」の声に耳澄ますという一種の「言霊思想」が、ここで浮上した。それは定本『田園の憂鬱』の世界を統一する原理となったばかりでなく、後年の「「風流」論」にまで受け継がれる長い射程を持つが、そのような一作家の根幹ともなるべき資性が、異なる未定稿の接続という作業レベルの要請によって生み出されたことにここでは注意しておきたい。
また、春夫は大正9年、台湾・福建地方に出かけ、数多くの関連作品を残している。本論では、小説「女誡扇綺譚」(大14)と旅行記『南方紀行』(大10)の二作品を取り上げ、個別に作品論を展開した。春夫の旅の虚実を実証的に検討すると共に、これら二つの作品において、文化的な相違がまずは「言語」による空間分節の相違として捉えられていることに注目するものである。デビュー当座の「詩」は、いまだ観念レベルのものとして、洋の東西を問わぬ抽象的な広がりを持っていたが、先に述べた通り春夫は、「詩」の表現媒体としての「日本語」の特殊性に思い至ることで、これを「日本」というナショナリティーへと結びつけて行く。大正9年の台湾・福建旅行の中には、確かにその具体的な契機となる「言語」への意識が頻繁に現れるのである。「女誡扇綺譚」における春夫は、他者の世界をあえて不可知のものとすることで、表象の暴力性を裏返しに表現し、散文の批評性を最大限に発揮することができたが、同じ旅の成果である『南方紀行』の中には、春夫がやがて熱烈な愛国詩人として戦争詩を多産する土壌があったこともまた見落とすことはできない。それは時代状況の要請である以前に、春夫の中の「詩」に対する役割付けとして、ある種の必然として行われたものだったのである。