琉球近世物質文化の多角的研究

石井 龍太

本稿は、考古学的物質文化研究が主体的に参加した歴史研究の実践を目指し、物質文化の多角的検討を通じて琉球諸島の近世史を考察する。具体的には、琉球近世社会における瓦、植木鉢、キセルといった三つの物質文化を中心に取り上げ、先ずそれぞれの生産、供給、消費のあり方を検討する。何れも琉球諸島各地の生産遺跡・消費遺跡何れからも多量に出土しており、琉球近世社会において重視され、生産・供給に力が注がれたものであると考えられる。また近世期を通じ生産され消費され続けており、生産、供給、消費の変遷を知る上で貴重な手がかりが得られると期待される。さらに一部は輸入により賄われていたことから、近世期の琉球諸島と周辺諸地域との物流を知る上でも重要な物質文化だといえよう。
またこれらは道具であり、これらがどのような文化・習俗を支えていたのかまで踏み込んで検討する必要がある。琉球近世社会が必要と強く求めた道具を用いて展開された文化・習俗は、やはり琉球近世社会において必要とされた文化・習俗であると考えられ、その検討は琉球近世史を理解する上で重要なものであると考えられる。本稿ではさらに建築、防火、園芸、喫煙、葬制といった、それぞれの物質文化と深く関わる事柄を検討し、その展開を追及する。そしてまた周辺諸地域の状況を踏まえつつ、これら物質文化、さらに文化・習俗が東アジア、東南アジアの中でどのように位置付けられるかまで、可能な限り論じていく。物質文化研究に基づくデータを中心として近世史の様々な側面を検討するという構成は、これまでの琉球近世史に関わる先行研究になかったといえよう。

沖縄県内遺跡から最も多く出土するのは瓦である。瓦は琉球近世窯業の中心的存在であり、琉球近世物質文化全体を知る上で最も重要な対象であるといえる。中国南部の瓦に類例があり、また日本の瓦文化の影響も受けている。周辺諸地域の多様な瓦文化から影響を受けつつ成立して行ったと考えられる。16世紀には王府の管理下で大規模生産が行われており、後には宮古・八重山諸島へも拡大した。瓦は諸特徴が変化し、特に灰色から赤色へと言う色調変化は建築景観を変化させる大きなものだったといえる。瓦は建築材であり、瓦によって建物は飾られ、台風から守られ、屋根伝いの延焼から免れることが出来るとされた。瓦はこうした利点を供えた瓦葺き建築を建てるためのものであったといえる。そして瓦葺き建築の社会的位置付けは元から意識されていた訳ではなく、変遷を経ていると考えられる。16世紀までに一部の士族邸が瓦葺きであった頃は主な目的は美観にあったと推察される。17世紀に首里城や各地の蔵を瓦葺きにした際は、美観と共に丈夫な建材として意識されていた。18世紀に入ってからは防火対策の整備の中で耐火建築材としても意識されるようになっていった。こうして瓦葺き建築の価値は増していったと考えられるが、一方で琉球王府は瓦葺きを制限しており、一定の地位になければ瓦葺き建築に住むことは出来なかった。また茅葺きに比べ遥かに高価であるため、許される立場にあっても手の届かない士族も多かった。瓦葺き建築は見栄えよくまた丈夫という理想的な建築として琉球近世社会の中で意識されていたと考えられる。
植木鉢は各地の遺跡からしばしば出土し、広くまた大量に供給された製品であったと考えられる。また当初は貿易陶瓷器を用いていたが、17世紀初頭までには瓦質の製品を自給し、各地に広く供給していたと考えられる。瓦との類似性が認められ注目される。一方で陶質の製品が生産されていたことが知られ、同じ植木鉢でありながら諸特徴、さらに生産体制が異なっていた。中国産陶瓷器、薩摩焼と類似性が認められ、周辺諸地域からの影響を受けつつ生産されるようになったと推察される。そして植木鉢は植物の栽培容器であり花卉園芸の要素である。植木鉢が生産され供給され続けたのは花卉園芸文化を維持するためであったと考えられる。当初は王権と結びつく特殊な文化であったと推察されるが、後に士族層を中心に普及し、邸宅内の装飾の他に路供、贈物としても用いられ、時には他者に披露し園芸の腕を競い合うことも行なわれたようだ。特殊な例としては日本本土や中国へ植物を輸出するための入れ物としても用いられていた。また花瓶・花生も植木鉢と並ぶ花卉園芸の要素である。18世紀までには自給されるようになったと考えられ、屋内装飾の他、下賜品、さらに葬制に使用されていたと考えられる。士族達は花卉園芸に熱中しており、日本本土や中国との花卉園芸文化の交流も積極的に行なわれていたと考えられる。
キセルは喫煙に用いられる道具であり、身分、性別を問わず普及していた。各地で生産され、地域毎に独自のキセルも産み出されていた。また輸入も行われていた。喫煙は個人で楽しむ他、来客の供応には他の喫煙具とともにキセルを添えて出すといった社交的な側面を持つ。またタバコは下賜品、贈物、薬、年貢の代替物といった多様な位置付けをなされ、また様々に変化していた。当初は批判的であった王府は18世紀には容認に転じ、さらに生産を推進するに到っている。
花瓶、キセルは葬制とも深く関わる点で特徴的である。特に花瓶は墓や仏壇に花を供えるために生産されていたものが多く見られる。またキセルは死者と祖先への贈物として副葬されたと考えられ、高価なものだったと推察される輸入品の金属製キセルが未使用のまま多く用いられている。金属製キセルは葬制のために大量に生産され輸入されていたという側面が認められる。

こうした製品の大量生産を担った初期の窯が湧田窯であり、琉球諸島における初めての本格的な大規模生産施設であった。既に17世紀初頭には湧田窯は操業しており、琉球王府の統括の下で近世期を通じて長く存続し、生産された製品は広く供給されていた。湧田窯が当時の社会に及ぼした影響は大きなものであったと考えられる。出土資料の内容を見ると、圧倒的に多いのが瓦であり、次いで植木鉢、キセルが目立つ。湧田窯の操業にはそれまでなかった、あるいは輸入に頼ってきた様々な品々を自給するという、輸入から自給への方針転換を読み取ることが出来る。琉球諸島全体で出土していた大量の貿易陶瓷器が16~17世紀には減少傾向に転じたことがその背景にあると推察される。自給生産を行うことで、それら製品を必要とする文化・習俗を創出するあるいは存続させる目的があったと考えられる。
湧田窯は灰・褐色系に分類される軒瓦を独占的に生産していたと考えられる。資料の分析から湧田窯内に複数の瓦生産集団が存在し、それぞれ王府から分配された製作用具を管理して生産していたと推察される。また消費遺跡との比較検討から、製品の供給も生産集団と同じ単位で行なわれていた可能性がある。また植木鉢は胎土・焼成から二種類に大別され、そのうち瓦質土器製植木鉢は一部の瓦と胎土、焼成、デザイン、施紋用具に一定の共通性が見られ、出土状況も類似していることから性質の近い生産集団によってほぼ同時期に生産されていたと考えられる。一方無釉陶器製植木鉢は分布が異なり、同じ植木鉢でありながら瓦質土器製植木鉢とは異なる集団によって生産されていたと推察される。そして湧田古窯跡では無釉陶器製キセルが生産されていたと考えられ、出土状況の検証から瓦、植木鉢とは異なる集団によって遅れて生産が開始されたと推察される。何れもほぼ独占的な生産を行い、琉球諸島内の需要を賄っていたと考えられる。
湧田窯が操業を停止したのが何時なのか判然としないが、18世紀前半には異なる窯で生産が行われている。王府の自給化志向はその後も継続し拡大していったと考えられ、以後琉球諸島各地に窯が築かれ、窯業集団は再編成され、製品は変容して各地の物質文化に変化をもたらすこととなったと考えられる。湧田窯の瓦生産集団は再編され、一部は沖縄本島で赤色系瓦生産に従事し、また宮古・八重山諸島へ技術を伝えたと考えられる。瓦質土器製植木鉢は継続されなかったが、無釉陶器製植木鉢は各地の窯で生産され、かつ窯同士で技術交流を行いながら展開していったと推察される。キセルも同様で、湧田窯の製品の類例は沖縄本島内の他の窯にも認められる。一元的だった琉球近世窯業が多元化していく現象が確認される。各地の窯では地元民を用いて地元の資源を用い地元で用いる窯業製品を生産させるようになる。結果として自給化志向を背景として産業の多元化現象が生じ、各地域毎に独自の製品が生み出されかつ流通し、独自の物質文化を生み出すこととなった。
一方で、地域間、さらに周辺諸地域との物流は継続されていたと考えられる。琉球諸島では概ね18世紀前半以降には複合的な流通網が成立していたと推察される。キセルの分布から、琉球近世社会の複合的な流通網を検討した。中国産と推察されるキセルが琉球近世社会には僅かながら存在しており、東アジア全体に広がる交易網を経てもたらされていたことがうかがえる。また日本本土からは薩摩を通じてタバコ・キセルが大量に輸入されている。こうした広域の流通網と共に琉球諸島内の流通網も存在し、沖縄本島を基点として沖縄本島で生産された製品、輸入品が宮古・八重山諸島まで広く供給されていた。また宮古諸島、八重山諸島では独自の陶製キセルが生産され、島内かせいぜい隣接諸島までの狭い範囲で流通していた。一方輸入だけでなく僅かながら輸出も行なわれていた。17世紀には中国に大量のキセルを輸出している。また18世紀までには琉球王府の統制の下で観賞用植物の組織的な輸出が行われていたと考えられる。
こうした生産と物流によって支えられた文化・習俗は琉球近世社会において重視されたものばかりであるといえよう。また士族層・聖職者層といった社会的地位の高い人々との関わりが強いものとして位置付けられるものが多く、こうした人々の持つ大きな需要が王府の統括する大規模窯業生産が開始され推進された背景にあったと推察される。琉球近世窯業は、権力者側の文化・習俗のために展開した性質が強いといえよう。

湧田窯の操業が示す琉球近世物質文化史の開始は、1609年に起こった薩摩の琉球侵攻より前に位置付けられる。これまで薩摩の琉球侵攻は大きな政治的画期とされ、琉球王国が幕藩体制に組み込まれていく重要な歴史の転換点と位置付けられてきた。しかし琉球近世社会を特色付ける物質文化は薩摩の侵攻以前に産み出され、独自の窯業製品が生産・供給され全島的な展開が開始されているのは明らかである。17世紀初頭以前に位置付けられる湧田窯の開窯と生産、そして供給が示すのは、外来の文化・習俗を支える道具の供給を輸入に頼らない地場産業化であり、琉球近世物質文化の展開は薩摩の侵攻による影響とは異なる文脈での外来文化の定着と普及、さらに在地化が推し進められていたことを示しているといえよう。また窯業生産の再編は薩摩入りから約1世紀を経た17世紀後半以降に位置付けられ、薩摩入り前から掲げられていた自給方針に貫かれてなされた動きであったと考えられる。琉球近世社会においては、第三者の意思によらず積極的な自給方針が貫かれ独特の物質文化が生み出され発展していったと考えられる。
一方で琉球近世物質文化は閉塞することなく、中国・日本を始めとする周辺諸地域との相互影響関係を変容させつつも長期に渡って維持していたと考えられる。琉球近世社会は必要とする物品、さらに製作技法や紋様といった情報までも輸入するルートを確保していたといえる。また文化・習俗を受容するだけでなく独自のものに組み替え変化させていったと考えられる。自給化路線を貫き、地域毎に特色ある物質文化を展開させ、文化・習俗を独自のものとしていったのは、幕藩体制との関わりではなく琉球近世社会の自発的な動きであったと考えられる。

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