本論文は、10世紀前半にアッバース朝カリフを傀儡化し、イラクからイラン西半部に勢力を広げたブワイフ朝の政権構造に関する研究である。
従来、ブワイフ朝に関してはイラクの事例に基づき、もっぱらイラクに視点をおいた研究がなされてきた。そのため、ブワイフ朝はイラクからイラン西半部にかけて勢力を及ぼし、イラクを中心とする王朝とみなされ、同王朝勢力の支配が及んだファールスやジバールなどの事例は付随的に示される場合がほとんどであった。
しかし諸史料を繙くと、ブワイフ朝の歴史はブワイフ一族の政権相互の関係の中で動いていることが見えてくるのであり、イラク以外の地域を捨象することは、その実体の把握から懸け離れることになると考えられる。
またカスピ海南岸地域の住民であり、ブワイフ家の出身母体でもあるダイラムの位置づけに関して、従来の研究は、ブワイフ朝君主たちがダイラムの反抗的な態度を嫌い、これをアトラーク軍団の力によって排除していく傾向を、王朝の初期から有していたという見解でほぼ共通していた。だがこの点についても、諸史料の記述からは、ブワイフ朝君主たちとダイラムの関係が、時期や地域によって異なっていることが明らかとなってくる。

そこで本論文は、ブワイフ朝前半期(324-390/935-1000年)を考察の対象とし、ブワイフ一族の紐帯の問題と王朝の支持基盤であるダイラムの位置づけの2点から、ブワイフ朝の政権構造を解明すべく考察を行った。また本論文では考察対象時期をアドゥド・アッダウラ(372/983年没)の死の前後で区分し、各々を第1部、第2部とした。

まず第1部では、ブワイフ朝の勃興からアドゥド・アッダウラによるブワイフ朝諸政権の統一に至る期間を対象とし、この間ブワイフ朝諸政権の君主はカリフの叙任を得たアミールという意味で独立した存在であったが、その一方でブワイフ一族の年長者が有するリアーサri’āsaという主導権ないし家長の権限の下にまとまった存在であったことを明らかにした。第一世代の君主たち、ルクン・アッダウラ、ムイッズ・アッダウラはこのリアーサを保持する長兄イマード・アッダウラを尊重することで、また第二世代の君主アドゥド・アッダウラとイッズ・アッダウラはリアーサの獲得を巡って争うことで、彼らはブワイフ朝という大枠を構成する存在であった。またブワイフ朝内部では、リアーサの獲得・保持がカリフの権威付以上に価値があり、彼らの支配の正当性の根拠となったのである。
そしてブワイフ朝諸政権を統一したアドゥド・アッダウラは、もはやカリフの任命したアミールではなく、強大な権力を有する支配者「マリクmalik(王)」(その権限は「ムルクmulk(王権)」と呼ぶ)としてその前に現れる。また彼はカリフと自らの娘を娶せることで、ブワイフ家の血を引くカリフの誕生を目論んだ。アドゥド・アッダウラは、ムルクを有するブワイフ家の血統にカリフ権を有するアッバース家の血統を取り込み、その支配の正当性をさらに確実なものにしようとしたのである。
またこの時期にブワイフ朝の軍事力を支えたダイラムに対しては、イラーク政権とファールス、ジバール政権でその対応に違いのあったことが明らかとなった。従来の研究はイラーク政権の「ダイラム排除」かつ「アトラーク重用」の政策をもってブワイフ朝全体の傾向としていたが、ファールス、ジバール政権の事例を個々に扱い、これを比較することで、イラーク政権の政策は個別事例であり、ブワイフ朝史全体に敷衍すべき傾向ではないことが明らかとなった。ブワイフ朝においては、むしろダイラムを重視し、彼らの支持を得ることが政権の確立と安定に必要であったのである。ダイラムの支持を得ていたジバール政権が、その支持を失っていたイラーク政権に勝利し、ブワイフ朝諸政権の統一を果たしたことを考えれば、ブワイフ朝におけるダイラムの重要性が高かったことが分かる。
またこのダイラムを巡る各政権の対応の違いはブワイフ朝を構成する諸政権が独立した存在として政権運営にあたっていたことの証左であったが、加えてジバール政権の対東方政策の検討から、同政権がサーマーン朝やタバリスターンの諸政権との戦争や外交交渉において独自の方針のもとに動いていたことも明らかとなった。

次に第2部では、アドゥド・アッダウラの死からバハー・アッダウラ(403/1012年没)によるファールスの征服完了までの時期(390/1000年)を対象とし、アドゥド・アッダウラの死によって、一旦は統一されていたブワイフ朝が再び諸政権に分裂し、一族内部で勢力争いを繰り広げる過程を検討した。アドゥド・アッダウラの死後、その後継位を巡るシャラフ・アッダウラ(379/983年没)とサムサーム・アッダウラ(388/998年没)の争いは、バグダードの家臣団が次男サムサーム・アッダウラを君主として擁立したことに端を発していた。そしてそのイラクでは文官らの権力闘争が繰り返され、結果として政権の弱体化を招くことになったのである。
一方、シャラフ・アッダウラも、そのイラク侵攻については大多数の家臣団の反対に遭い、当初はこれを進められずにいた。しかし強力な推進者の存在と彼自身のそれに向けての強い意志によって、最終的にイラク征服は実行され、達成されたのである。シャラフ・アッダウラは家臣たちへの指導力を発揮することが可能なブワイフ朝君主であったことになる。
また両者の争いの最終段階において、サムサーム・アッダウラはリアーサをシャラフ・アッダウラに認め、イラクとファールスに兄弟政権が並立する形を模索したが、それは自らの政権の滅亡を必至と見た彼の、生き残りをかけた戦略であったこと、従って、当初から彼がシャラフ・アッダウラに対して年長者としての権威(リアーサの保持)を認めてはいなかったことが明らかとなった。
一方、ジバールではアドゥド・アッダウラの弟ムアイイド・アッダウラが君主として立つも1年足らずで死去し、ジバールに存在したブワイフ朝の家臣団や軍隊はアドゥド・アッダウラに追放された、ファフル・アッダウラ(387/997年没)を君主に迎えた。君主の選定はサーヒブ・イブン・アッバード主導で進められたが、そこには君主に選ばれる側と彼を選ぶ側の利害の一致が働いており、とくにサーヒブの、宰相としての自らの地位を保全しようとする意図が強く働いていたのである。
アドゥド・アッダウラ死後の君主擁立の2つの事例は、官僚と中心とする家臣団主導で行われ、彼らの政治や継承問題への発言力が強くなっていたことを示すものである。
また、ダイラムの存在がブワイフ朝の政治・軍事面において大きな位置を占めていたことを、ファールスおよびキルマーンのダイラムの動向を検討しつつ、これを証明した。ファールスはブワイフ朝創設以来ダイラム軍団やその有力者たちの、イクターをはじめとする経済基盤の存する土地であり、そこを根拠とするダイラムたちは、シャラフ・アッダウラの死後、独自の君主を擁立し、自らの権益を守ろうとした。それが盲目のサムサーム・アッダウラを君主とする第二次ファールス政権の成立につながったのである。
その後、イラクのバハー・アッダウラ政権に対抗していた第二次ファールス政権はダイラムの支持を失うことで崩壊し、ファールスおよびキルマーンはバハー・アッダウラの支配下に入ることとなる。だがこれらの地方のダイラムはバハー・アッダウラの支配を速やかに受け入れたわけではなく、既得権益の確保のために2度の反乱を起こし、ようやくその支配に服したのであった。彼らにとっては経済基盤の確保が最大の関心事であり、これを脅かす支配者は彼らの拒否に遭うことになった。ダイラムはブワイフ朝第三世代の君主であるバハー・アッダウラの治世期においても、同王朝の基盤となる集団であり、また王朝の政治・軍事面での影響力を有す集団として存在していたのである。

従来の研究は史料の傾向に影響され、ブワイフ朝のイラク統治やイラクに存在した君主に焦点を当ててきたためにイラクの重要性を過度に強調する傾向にあった。しかし、本論文で試みた、諸地域のブワイフ朝政権に注目した上で、ブワイフ朝の政権構造を考察するという方法によって、ブワイフ朝におけるイラクの政治的重要性への過大評価に対して再考を促すとともに、相対的にジバールやファールスといったイラン地域の重要性を示すことができたと考える。
ブワイフ朝の政権構造は、イラーク政権のような例外もあるが、およそダイラム軍団とダイラム君侯をその支持基盤とした。そして、ブワイフ朝第一、二世代の君主たちは、一族の主導権すなわちリアーサ保持者への服従姿勢を示すことでそのまとまりを意識しつつ、各政権の長として家臣団や軍隊を率いて独自の政権運営を行うという統治形態を採用したのである。つまり、彼らは自らの意志で一族諸政権の連合体制を形成していたのである。
しかし、その連合体制を崩壊させ、ブワイフ朝を単一の政権としたアドゥド・アッダウラが死去すると、彼の許で行政を司っていた文官たちは、各自の利害に基づいてブワイフ朝の君主を推戴するようになり、ブワイフ朝は再び一族諸政権の分立状態になるのであった。この諸政権分立状態は、ブワイフ一族の君主たちの自発的な意志によってではなく、彼らを支える家臣団や麾下の軍隊の思惑によってもたらされたのであった。
以上からブワイフ朝の政権構造は、その諸政権の分立における論理がアドゥド・アッダウラの死の前後で異なり、前者は一族の論理による分立、後者はブワイフ一族の君主を支える集団の論理による分立であったと結論づけることができる。