唐代初期小説の研究 牛肅『紀聞』と戴孚『廣異記』を中心に

溝部 良恵

從來の唐代小説研究においては、唐代小説を代表する傳奇は、六朝志怪の後を繼ぎながら、作者が構成、描寫に工夫を加えると同時に、想像力を驅使し意識的に創作したものであり、初唐の王度『古鏡記』など數篇の先驅的な作品を經て、中唐初期に至り沈既濟『任氏傳』、白行簡『李娃傳』などの作品が突如集中して書かれたとされてきた。以後唐代小説の研究は、この枠組みに沿って進められ、初、盛唐期は、特筆すべき作品がない空白期と考えられ、研究對象は唐代小説の黄金期である中唐初期に書かれた傳奇に偏る傾向があった。その結果、實際は傳奇が發生する前後にも、傳奇を上回る膨大な數の志怪風の作品が書き繼がれ傳奇と併存していることが見落とされがちであり、またそれらの作品が傳奇の發生にいかなる影響を及ぼしたのかについては、解明されないままであった。
そこで本稿では、傳奇發生の過程を解明し、新たな唐代小説史叙述の視座を提出するためには、初、盛唐期から中唐初期、傳奇發生以前の個々の作品を分析し、それらを積み重ねつつ、各作品間の影響關係に考慮し、この時期の小説制作状況の全体像を明らかにすることが必要であると考え、この時期に書かれた小説を「唐代初期小説」と總稱し、その中でも特に重要な小説集である牛肅『紀聞』、戴孚『廣異記』について、從來とは異なる樣々な視點から研究を行った。
具體的には、第1部で、唐代小説を研究する際に直面するテキストの問題について考察し、第2部では、『紀聞』、『廣異記』の作品分析を通して、作者がそれぞれある話のどのような點に關心を持ち、どのように各人独自の物語を作ったか、小説制作の状況を解明することを試みた。
唐代小説は、原書が殘っているものは非常に少ない。九七七年(太平興國二年)太宗の命をうけ、李昉等が編纂した『太平廣記』は、北宋初期以前の文言小説を多く收めていることから、唐代小説研究には欠かせない資料である。しかし現存する『太平廣記』も明の嘉靖年間(一五二二-一五六六年)に出版された談刻本が最も古いものであり、その他には清の陳鱣や孫潛が發見した宋本の一部が傳わっているのみで、原書はこれまでのところ發見されておらず、唐代小説の研究を行うためには、これらの殘された諸本の價値を見定め、原書により近いテキスト作りを目指すことが必要である。そこで第1部では、二篇の論考を通して、唐代小説のテキストについて考察した。
第1部第一章「成任編刊『太平廣記詳節』について」では、朝鮮世宗時代の成任が、『太平廣記』五百卷を五十卷に抄錄し、一四六二年(朝鮮世祖八年)に刊行した書物である『太平廣記詳節』について論じた。この書は、談刻本よりも百年ほど早く出版されており、南宋で出版された『太平廣記』に基づき抄錄したと考えられ、大變貴重なものである。そこでこの書について、筆者が韓國において調査した結果を紹介するとともに、その文獻的價値を指摘した。
第1部第二章「『廣異記』の諸本について」では、唐代小説のテキスト校訂においては、各小説集の抄本が重要な資料となることを論じた。『廣異記』については、從来清代の六卷抄本二本が知られていたが、筆者は中國國家圖書館新館及び舊館において調査を行い、新たに三種の抄本を發見した。その三種とは、①百麓洞抄本『雜抄五種五卷』の一つとして收められた明代の抄本一卷、②從來知られていたものとは別の六卷抄本、③清末の二十卷抄本の三種である。これらに從来知られていた二本を加えた五本の抄本は、いずれも『太平廣記』から編集したものと考えられる。『太平廣記』諸本と五本の『廣異記』を比較することによって、『廣異記』各本が大きな資料的價値を持つことを明らかにした。
第2部で取り上げた『紀聞』と『廣異記』は、いずれも從來の研究では、その内容は、六朝志怪風の話を主とするが、幾篇かは傳奇的な内容を持つ「志怪から傳奇への過渡的な作品」とされ、一部の話は、物語性が強く、すでに傳奇に近い水準に達していると評價される一方で、その他多くの話は、六朝志怪と變わらず、見るべきものは前者のような篇編のみであると考えられてきた。しかし本稿では傳奇風の作品と志怪風の作品は單純にわけられるものではなく、兩者を含め、小説集全體の特徴を考えて行くことが必要であると考え、兩小説集を取り上げ、全體的な考察を試みた。
第一章「牛肅『紀聞』について」では、從來『紀聞』の中で傳奇的作品として高く評價されてきた「呉保安」を取り上げた。「呉保安」は、唐代の著名な政治家郭元振の甥、仲翔が南蠻にとらえられた際に、同郷の呉保安が家族をも捨て、仲翔救出に奔走した樣子を描いた話である。この話は、一見、呉保安を中心に据えた話のようであるが、實は呉保安その人について描かれた部分は少なく、その人物形象や物語の運び方には、アンバランスな點がある。そこで『紀聞』には他に、瑯琊王、裴炎といった武后期の有名な政治家の親類達に關する話があることに注目した。例えば「裴伷先」は、蠻地から困難を克服して生還するという點で、「呉保安」と類似性が感じられる。そのため「呉保安」は本來郭元振の甥である郭仲翔を中心とした話だったが、牛肅は呉保安の人間像に惹かれ、呉保安を中心とした物語に書き換えたのではないかと考えた。
第2部第二章「戴孚『廣異記』について」、第二章-二「「戴氏廣異記序」について」では、中唐の詩人として有名な顧況によって書かれた「戴氏廣異記序」に注目した。この「序」は、作者について現存するほぼ唯一の資料であるとともに、冒頭の部分で、『論語』「述而」篇の「怪力亂神を語らず」という言葉を「怪力亂神を示して語る」と讀み直すことを根據に、怪異を語り、記すことの正當性を主張するというユニークな説を展開しており、唐代の人々の怪異觀を考察する上で、貴重な資料である。本稿では、まず『論語』「述而」篇の「不語怪力亂神」に關する從來の解釋、及び顧況が「不」を「示」と讀む根據としてあげた『説文解字』「示」字の記述について檢討した。「不」を「示」と讀むことについては、現存する唐以前の『論語』の解釋に特に顧況が基づいたと思われるものは、見當たらなかった。また『説文解字』「示」字の記述は、『易傳』に基づくものであり、「序」の冒頭も『易傳』を踏まえたものであることが明らかになった。そこで顧況の主張は、彼以前の變化や怪異についての議論を踏まえた上で、獨自の考えを示しているのではないかと考え、六朝志怪に見られる怪異觀と比較檢討した。その結果、顧況は六朝の人々のようには、怪異を信じていないことを指摘し、またそれを踏まえたうえで、顧況は「序」において、中國の人々がいかに怪異に興味を持ち、語り、記してきたのか、その歷史的変遷を記そうとし、さらにその歷史に、戴孚の書を位置付けようとしたのではないかと考えた。
第2部第二章-三「戴孚はいかに小説を作ったか(一)-「淮南獵者」(『紀聞』)と「安南獵者」(『廣異記』)の比較分析を中心として」においては、ほぼ同じあらすじを持つ象の報恩譚『廣異記』「安南獵者」と六朝志怪『異苑』及び『紀聞』「淮南獵者」との比較分析を通して、『廣異記』がいかに描き方に工夫を凝らしながら、虛構の物語を作りだしているのかを明らかにした。
『廣異記』「安南獵者」では、常に獵師の視點を通してわかることのみを書き、提示するという方法で物語が進められ、一方『紀聞』「淮南獵者」においては、獵師が象の行動を解説するという方法で物語が進められた。この二話の比較を通して、すでに唐代初期において、作者が細心の注意を拂い虛構の物語を作り上げており、またその方法は一樣ではなく、中唐の傳奇と比較しても遜色がないことを指摘するとともに、從來の研究では一般的に、『廣異記』に比べ、『紀聞』の方が傳奇的であると評價されてきたが、この二話に關しては、當てはまらないことを明らかにした。
續く第2部第二章-四「戴孚はいかに小説を作ったか(二)―狐たち、幽鬼たち」においては、さらに『廣異記』の狐の話や鬼の話を分析することを通して、戴孚にとって、怪異を記すことがどのような意味を持っていたのかを考察した。『廣異記』では、戴孚は話を集めていくうちに、その話のいくつかに、特に興味を持ち、話を作りなおしている跡が見られる。『廣異記』に三十三話ある狐の話では、筆者が「おしかけ狐」と名付け分類した話が三話あり、さらにその話をベースとしながら、「唐參軍」という話を書いている。そこで「唐參軍」と三話の類話の比較を通して、戴孚がいかに類話の要素を巧みにずらしながら、狐に振り回され、狐を退治しようと必死になる人間の姿を描き出しているのか、またそのことによって人間のあさましさ、愚かさを浮き彫りにすることに成功しているのかを明らかにした。またさらに鬼の話の分析を通して、戴孚は、怪異そのものだけでなく、怪異と人間が接することで見えてくる人間の姿に關心があるように思われることを指摘した。以上の分析を踏まえ、『廣異記』とは、戴孚が、官職には恵まれなかった一生の中で、仲間と怪異を語り、記すことに情熱を傾け、そしてその中で聞いた話を單に記すだけでなく、自分の想像力を頼りに、書き換えていくことに喜びを見出していった結果、生まれた書ではないかと考えた。
從來『紀聞』や『廣異記』は、志怪的な話と傳奇的な話などが雜多に入り混じっており、作品に一貫した作者の個性をとらえることは難しいと考えられてきた。しかし本稿は、兩小説集の作品を分析し、從來考えられていた以上に、作者は意識的に虛構の物語を作り出しており、またそれらは決して突然變異のように生まれたのではなく、それぞれの小説集の他の話との關連が見られることを明らかにした。
以上のことを踏まえ、初唐から中唐傳奇發生以前の時期は、從来考えられてきたような特筆すべき作品のあまりない空白期ではなく、虛構の物語が、本格的に書かれるようになった時期としてとらえ直すことができるのではないかと結論づけた。

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