梁代「艶詩」の再検討―楽府「相逢行」「長安有狭斜行」「三婦艶」に基づく考察―

大村 和人

中国の南朝斉梁時代には女性を題材とした「艶詩」が流行した。この詩風は、内容は空疎で儒教の理に基づかず、細かな表現の美のみを追求したものとして、今日に至るまで批判されてきた。批判者の多くは、この詩風が斉梁時代に大流行した理由を、この時代の文学の主な担い手であった貴族たちが頽廃的な生活を送っていたことにあるとする。
しかし、この説では説明できない事実が存在する。梁の昭明太子蕭統は正統派文学作品のアンソロジーである『文選』の主編者として知られ、「艶詩」に反対する「古典派」の領袖であり、日常においても女楽を好まなかったと史書に記されるが、その彼も何首かの「艶詩」を残している。この事実は、「艶詩」流行の原因に対する従来の説に見直しを迫るものである。本論文は、蕭統が残した「艶詩」の一つであり、斉梁「艶詩」の代表的作品の一つである楽府「三婦艶」と、その母体作品である「相逢行」「長安有狭斜行」を対象とし、梁代詩人が「艶詩」を制作した理由を考察するものである。
「相逢行」「長安有狭斜行」の古辞は、漢代に制作されたと推測され、その後多くの模擬作を生んだ。古辞の主題については二つの説がある。一つは享楽的な生活を送っている者を諷刺するという説、もう一つは、漢代の人々の理想が反映された祝頌歌であるという説である。前者の諷刺説は成り立ちにくく、後者の祝頌説が古辞の主題の本質を言い当てていると考えられるが、その根拠に関しては十分な研究がなされていない。
魏晋から劉宋時代まで、「相逢行」「長安有狭斜行」の模擬作は、古辞の設定の一部を使用するのみで、内容は大きく異なるものが作られた。斉梁時代になり、模擬作の数が急増するとともに、そのほとんどが古辞の構成や主題を踏襲したものとなった。「三婦艶」は「相逢行」「長安有狭斜行」の末六句を独立させた作品で、劉宋時代より制作が始まり、斉梁時代には、母体作品の古辞にならうものが作られた。
本論文は、上記の事実を踏まえ、二つの方向から研究を進めた。第一章から第四章では、一連の楽府とその古辞系模擬作を分析し、その主題を考察した。具体的には、これらの作品に共通して見られる特徴的表現やモチーフを取り上げ、その源流と意味を探った。終章では、六朝時代の文学創作に関わる歴史的背景と、詩人たちの言説を検討し、時代によって模擬作品の数と質に偏りを生じた理由と、作品制作を支えた思想について考察した。
第一章「深奥の宴」では、「相逢行」「長安有狭斜行」に登場する「三子」(三人兄弟)が、「門→堂→戸・室」と順を追って邸の奥へと移動し、そこで家族と宴を行うというモチーフに注目した。『論語』「先進篇」のエピソードや、宋玉の「風賦」によれば、先秦時代には、邸の深奥部に、ある種の聖性があると考えられていたことが窺える。更に、『詩經』「楚茨」や『楚辭』「招魂」という祭祀詩には、祭祀の後に人々が建物の深奥へ移動し、そこで同族による宴が開かれ、幸福が祈願されるというパターンが見られる。これは、後世の作品、例えば後漢建安年間・曹植の「大魏篇」にも継承されていた。三つの楽府とその模擬作に描かれる深奥への移動とそこでの私宴というモチーフは、先秦時代から受け継がれた祖先祭祀とそれに伴う宴の描写に由来し、集団の和合を言祝ぐ観念をその根底に蔵していたと考えられる。
第二章「三子の帰宅と私宴」では、「三子」の描写について考察した。「三子」は高い官位を有し、豪華な衣装や黄金の馬具を身に付けている。先秦時代には、類似する描写は見当たらないが、漢代の人々の理想が盛り込まれたとされる漢鏡銘文には、高い官職や、豪華な服飾を願う文言が見られる。また「三子」は、漢代に出現した「都市社会の文化と風俗を体現した」「豪侠」であるとする先行研究があり、「三子」の形象は、漢代に登場したものと考えられる。「三子」の描写は、三人の誰かに焦点が当てられることはなく、「兄弟」というひとつのまとまりで捉えられている。『詩經』小雅のテーマの一つは一族の和合であるが、小雅に属する幾つかの作品で、「兄弟」という語は一族を指し、「兄弟」たちの宴には、家族の和合という理想が投影されていた。「相逢行」「長安有狭斜行」の「三子」は、『詩經』小雅の頌する和合した家族像を継承し、漢代に出現した理想像が付け加えられ、新たな吉祥のシンボルとなったと考えられる。この他、「三子」が帰宅する豪邸には「華鐙」「蘭膏」など灯火の描写が見られるが、これは祭祀詩に見られる神霊を迎える灯火や、宴飲詩に見られる賓客を迎える灯火に由来するものであった。
第三章「巫から小婦」へでは、三人兄弟の妻である「三婦」の描写に注目した。いずれの作品においても、「三婦」の中では末の「小婦」に焦点が当てられ、またしばしば「小婦」は「無為」「無事」であるとされる。『周易』説卦伝「兌」の卦や、『詩經』召南「采蘋」の「少女」に関する記述によれば、楽舞で舅や夫を持て成す「小婦」は、古代の祭祀において楽舞で神を饗応する「巫」を祖型とするものと考えられる。その「小婦」が「無為」「無事」であるのは、「巫」が「無為」「無事」でありながら「自然=天」の運行に従い、神霊の仲介者となったことに由来するものであろう。更に、「小婦」が舅や夫に勧める「安坐」という動作は祭祀詩において饗応される神霊の動作であり、この点からも、「小婦」の祖型が巫であったことが確認できる。
第四章「絶えざる楽舞、永遠の祝福」では、「小婦」が楽舞演奏を継続することによって、舅や夫を宴の場に留めるというモチーフについて考察した。古代より、音楽とは歓楽であり、それを聞く人々を和合させるという思想が存在した。本作品において音楽の継続は、家族の和合という幸福の継続を意味することになる。類似する祝辞は、『詩経』以来様々なジャンルの詩歌に見られたが、本論はさらに「白紵舞歌」の存在に注目した。「白紵舞歌」は「相逢行」「長安有狭斜行」「三婦艶」と同じく、梁代に模擬作の制作が流行したもので、舞を舞う女性の艶麗な姿を描写した後に、国家の繁栄の永続を祈る祝辞が添えられる。本論が対象とする三作品と同様、この楽府においても「艶詩」としての性格と、祝頌歌としての性格が、明らかに同居しているのである。
以上のように、「相逢行」「長安有狭斜行」「三婦艶」には、先秦時代の祭祀詩や宴飲詩に由来する祝頌のモチーフが数多く用いられている。さらに漢代の新しいモチーフが加わり、家族の和合した理想的な姿が描かれており、これらの歌の主題は祝頌にあったということができる。ただし漢代に制作された古辞は、ある一つの家族の中で歌われたというよりも、都市の発展を背景に、都市住民全体の理想を反映した歌であったと考えられる。
終章第一節「家族の和合と国家の平和」では、「家族」と「国家」という視点から、三つの楽府の模擬作の質と量に、時代によって偏りが見られる原因を考察した。先行研究によれば、魏晋宋時代は、有力な大貴族が王朝の存亡を越えて存続し、貴族たちの関心は国家よりも一族の繁栄におかれていた。大家族の中には、年長者が同族の子弟を指導するという形の文学集団が生まれ、一族のために作られ、一族の内部で享受される文学作品が誕生した。貴族たちが、一族の繁栄を願うとき、一族の特定の者に向け、個別的具体的な作品が作られ、理想的な家族の姿を象徴的普遍的に描く楽府が用いられることはなかった。三つの楽府の模擬作が作られず、小数の模擬作も本来の歌とはかけ離れたものになった理由はここにあったと考えられる。
次の斉代には、魏晋宋時代の大貴族たちが衰退し、貴族の側から「国家」に接近しようとする傾向が見え始めた。そして斉代の政治や文学の思想を継承した梁代において三つの楽府の模擬作制作が流行した。その原因のひとつに考えられるのは、梁朝の政治と文学の頂点に立っていた武帝・蕭衍の存在である。蕭衍は寛容仁慈の君主として知られるが、『詩經』「正雅」が言祝いだ人々の和合の実現を希求して、宮中の宴において歌を制作したと記録される。儒家思想においては、「孝」「悌」という家族間の道徳は国家安定の礎である。理想的な家族の姿を描く三つの楽府は、「正雅」復活の一環として、梁朝の平和と繁栄を祈願する歌に変化した。そして蕭衍の先導の下、多くの詩人が模擬作を制作した結果が、現存する多数の作品であると考えられる。
終章第二節「宴における言志」では、梁代詩人の作品制作の場の多くが宴であること、宴における創作活動を述べる文章の中で「志」という語がよく見られることに注目し、梁代詩人の作品制作を支えた思想と創作態度の再検討を行った。「言志」は、『毛詩大序』が詩とは何かを語った中に用いられる語である。中国詩歌の伝統から乖離したと批判される梁代詩人が、宴における「艶詩」の創作を「言志」と呼んでいたという事実はこれまでに指摘されたことはない。しかし詩に関する儒家の言説を検討した結果、『毛詩大序』が想定する「志」は集団のものであり、古代における詩歌の存在意義は、集団の和合にあったことが明らかになった。梁朝の宴で制作される「艶詩」は、参加者が和合し、ともに国家の繁栄を祈願するものであることで、「言志」の文学の伝統を継承するものだったのである。

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