本論は病者や障害者たちの文学作品(あるいは文学活動)に表われた自己認識と自己表現の相関関係から、日本の「近代」の諸問題を考察すると共に、「日本近代文学研究」という営みに対して、再考を試みるものである。
具体的に本論が行うのは、従来の「日本近代文学研究」という営みからこぼれ落ち、または切り捨てられてきた言葉の破片を拾い集め、それら一つひとつを手にとって可能性を確かめていくという作業である。それは厳しい抑圧に曝された人々の文学に対し、従来の文学研究の理論や手法を一方的に適用することで解釈‐意味付けするのではなく、それらの文学と向き合うことを通じて、時に理論や手法を変容させながら、今までとは異なる文学研究の姿を探究していく営みである。
差別・抑圧・隔離されてきた人々の自己認識と自己表現には、国家の権力や社会の規範、あるいはそれらを受けた家族の意思などが極めて露骨なかたちで影響し、有形無形の検閲を及ぼしている。かつてM・フーコーは、社会が「逸脱」の烙印を押して排除した病の中にこそ、かえって社会が認めようとしない自らの姿が映し出されると指摘したが、本論はいわば「逸脱」の烙印を押された人々の悲痛な肉声を読むことを通じて、その権力の所在と性質を逆照射していく試みでもある。
病者や障害者たちの文学に見られる自己認識と自己表現の諸相を分析することで、国家的もしくは社会的に構築された規範がいかに病者や障害者の中で身体化され、従属的で無力化された身体が形成されていくのか、また逆にいかに脱‐身体化されて新たな生の境地が開けてくるのか、その身体の政治学を読み取ることができるだろう。

*全体の構成
以下、本論の構成を簡略に示す。本論は二部構成になっており、第一部ではハンセン病者による文学(あるいは文学活動)を、第二部では脳性麻痺者による文学(あるいは文学活動)を採り上げる。
第一部で採り上げるハンセン病という病気あるいは病者の存在は、近代日本が欧米化を目指す歩みの中で、脱ぎ捨てるべき「亜細亜」という「野蛮」な「後進国」の象徴とされた。病者たちは「文明国」「一等国」に相応しくない「日章旗の汚点」や「血の穢れ」に喩えられ、国家規模での隔離撲滅が図られた。そしてその隔離政策は、1930~40年代の総力戦体制への移行の中で基盤が構築され、戦後民主化の進展の中で完成された。この病気は古来より強固な差別が纏わり付くと共に、日本近代史の中では、おそらく国家権力が最も露骨な形で干渉した病気の一つに挙げられるだろう。そのような抑圧のもとで、ハンセン病者たちは隔離政策施政者たちのまなざしを時に過剰と思えるほどに読み取り、その意図に沿った自画像を描いてみせることがある。
第一章「隔離する文学」では、隔離政策に多大な影響を及ぼした「財団法人癩予防協会」が行った作品募集を採り上げ、応募された文学作品から患者たちの自己認識の様相を分析し、そこに隔離政策施政者の検閲がいかなる形で働いていたのかを考察する。
第二章「断種を語る文学」では、かつて療養所で強制されていた断種手術(不妊手術)を主題とした文学作品を採り上げ、その言説内容から、患者が断種を受け入れざるを得なくなる心理状態がいかに形成されたのかを、戦前と戦後の事例を比較する形で分析する。
第三章「身振りとしての「作家」」では、ハンセン病の作家として著名な北條民雄の日記を精読することを通じて、社会的属性を喪失した人物が文学を機軸として自己同一性を形成‐維持していく過程を分析する。
第四章「飽和される「隠喩」」では、上記の北條民雄が脚光を浴びたという現象から、当時の文壇における「リアリズム」概念を概観し、それと照し合せて代表作「いのちの初夜」(『文学界』1936年2月)に、いかなる可能性と限界が内包されているのかを考察する。
第五章「御歌と〈救癩〉」では、近代日本の皇族の文学が社会的にいかなる機能を果してきたのかを、隔離政策を特別に庇護した貞明皇后節子(大正天皇の皇妃)の短歌と、それに呼応して発された患者たちの言葉をもとに考察する。
第六章「「病友」なる支配」では、小川正子(国立療養所長島愛生園医官)の手記『小島の春』(長崎書店1938年)を採り上げ、同書に見られる小川の他者認識の中から、当時の天皇制が抱えていた問題の一端を見出すことを試みる。
第七章「ハンセン病患者の戦争詩(前編)」及び、第八章「ハンセン病患者の戦争詩(後編)」では、アジア・太平洋戦争期に患者たちが記した戦争詩を採り上げ、戦時下におけるヒエラルキーの最下層にいた人々の語りの中から、生命の意義を見出そうと苦闘する自己認識と自己表現の特異性について考察する。
第九章「療養文芸の季節」では、敗戦後に結核患者やハンセン病患者たちによって引き起こされた人権闘争と、同時期に高まった「療養文芸(文学)」という独自の文化潮流の関連性について考察する。

第二部で採り上げる脳性麻痺という障害および障害者の存在は、敗戦という自尊心の喪失を経済成長によって贖おうとした1950~60年代、つまり高度経済成長への歩みの中で社会的な関心を得ることになる。生産性と合理性を是とした同時期の社会では、核家族化の中で経済的な自立を果し、独立した家庭を構築することこそ社会的人間の責務であるとする規範が整えられていった。筋肉の麻痺や緊張、動作を自制し難い不随意運動(アテトーゼ)、そして言語障害によるコミュニケーション障害を併せ持つ脳性麻痺者は、生産性を持たぬ重荷であると共に、「幸福」をもたらす経済活動とは無縁な「不幸」な存在として、一方では大規模収容施設に隔離され、また他方では自宅で家族の管理下に置かれ、社会から隔絶した位置に置かれていた(当時の在宅障害者たちも、家族から向けられるまなざし――それは過保護であると同時に抑圧的でもある――を極めて敏感に察知し、家族の意思に沿った自画像を描いてみせることがある)。脳性麻痺は他の身体障害に比して、外見の特異さやコミュニケーションの難しさなども加わって、際立って厳しい差別を被ってきた経緯を有し、その境遇の苛酷さゆえに、1970年代以降の障害者運動を牽引した「青い芝の会」を産み出したことでも広く知られている。
第一章「文芸同人誌『しののめ』誕生」では、戦後障害者運動の先駆けとしてしばしば指摘される文芸同人団体「しののめ」の経緯と意義について論述する。同誌には当時の在宅障害者たちの心情が多く綴られており、その内面の変遷過程を知り得る資料として極めて貴重である。
第二章「「安楽死」を語るのは誰の言葉か」では、在宅障害者が家族との同居生活において感じる精神的な苦痛を、いかに言語によって表現するのか、また逆に表現された言語から、そこにいかなる家族からの抑圧が加えられているのかという点について考察する。親や家族から抑圧を受ける在宅障害者が、ともすれば自己否定を通じて逆説的に自己の主体性を演出‐誇示してしまう危うい自己表現を見せてしまうことに注目し、「自己決定」なるものの困難さについて考察する。
第三章「『しののめ』誌に見る生命観の変遷」は、上記『しののめ』誌の中から、50年代・60年代・70年代を代表する「安楽死」の議論を採り上げ、その生命観の変遷を素描する。同誌に現われた生命観の変遷を見ることで、戦後日本の障害者(特に在宅障害者)が抱いていた生命観の変遷の一部を窺い知ることができるだろう。
第四章「横田弘の詩と思想(前編)」では、「日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会」の横田弘を採り上げる。同会は過激な発言と時に実力行使も辞さないという態度によって、社会に多大な衝撃を与えた団体である。「青い芝の会」が注目される契機となったのは、それまで障害者の聖なる庇護者と信じられてきた母親を、障害者の主体性を抑圧する象徴的な障壁として告発した点にある。本章では同会最大のイデオローグの一人であった横田弘の詩を採り上げ、障害者の主体性と母親の問題について検討する。
第五章「横田弘の詩と思想(後編)」でも引き続き横田弘について考察する。特に本章では、青い芝の会神奈川県連合会によって1970年代初頭に繰り広げられた「優生保護法」改定反対運動を採り上げる。この運動はウーマン・リブと衝突し、女性の中絶の権利(生殖の権利)と、障害者の出生の権利(生存権)の対立という難問を提示したことでも知られる。本章では、この運動を牽引した横田の中で優生思想がいかに認識されていたのかを詩作品から読み取ることを通じて、「青い芝の会」の思想と哲学を再考することを目的としている。