本論文は、フッサールの『デカルト的省察』の「第五省察」における、他者の身体の構成に関わるテクスト(第四二節から第五四節)を分析の主題とする。「きわめて迷宮的」(デリダ)なこのテクストをその叙述の流れに密着して読み解くために、相互主観性に関連する諸草稿を年代ごとに編んだフッサーリアーナ第13-15巻が<資料集>として参照される。終章を除く本論全体が、このテクストのそうした注釈的な読解にあてられる。そして、こうした作業を通じて、終章で我々の問いが立てられ、答えられることになる。

我々の読解は、大まかに言えば、①他者経験の記述が現象学の課題なのだという、独我論の異論に対する応答から始まり(第1章)、②<他者>という意味を捨象する「固有還元」を導入し(第2-4章)、③他者の身体を構成する「類比的統覚」──固有領圏内に現れた他の身体物体〔=物体としての身体〕と私の身体物体の類似性に動機づけられて、私の身体の方から他の身体物体へ<身体>という意味を移送する統覚──の可能性を説明する(第5-9章)というテクストの流れに従って展開される。
第1章では、第五省察冒頭における、超越論的現象学は独我論なのではないかという異論に対する応答が論じられる。現象学の立場からは、例えば、他者の実在という「仮説」を証明しようなどとするのではなく、そもそもそうしたことに先立って「経験」されている<他者>を、私に経験されているがままに記述するということになる。
第2章では、固有領圏とそこにおける私の身体について論ずる。固有還元によって画定される「固有領圏」において、「身体」という意味を有する唯一のものは「私の身体」である。他方、固有領圏における「私の身体」は差し当たりは「物体」ではない。換言すれば、固有領圏において私の身体が「物体」として統握されうるか否かは、問われ得るということである。関連する諸草稿においては繰り返し論じられ、考え方も揺れているこの問題は、第五省察読解の上でも強調されなければならない。さもなければ、私の身体の「物体化」可能性が第五省察で果たす役割(第9章)は容易に見落とされてしまうだろう。
第3章は、固有還元導入の理由に関連する議論である。第五省察で問われるのは、<構成する自我>(超越論的エゴ)と<構成する他我>(他の超越論的エゴ)の関係ではなく、<構成される私>(原初的エゴ)と<構成される他者>(他の原初的エゴ)の関係である。固有還元は、<超越論的エゴ>の内部で自他の区別の可能性を問うという問題構制の中で、こうした<構成される私>を画定するのである。ここからして当然、「他者とは他(の)我である」というよく知られた公式における「他者」も「我」も<構成されるもの>のレベルで言われているのであって、デリダが誤読したように「他我」とは他の超越論的自我を意味するのではない。そもそも、「超越論的他者」の問題は第五省察では立てられていないのである。
第4章は補論的な内容である。固有領圏の二義性(他者経験を含む固有領圏と他者経験を含まないそれ)という、一部では流布している解釈が、ケルンの立論に応じて、『デカルト的省察』及び後の草稿に即して批判的に検討される。対比的に、我々の一義的な解釈が明確にされる。更に、関連草稿の読解を通じて「原初性〔=固有性〕」概念成立の一つの道筋を辿り、ケルンの述べる二義性はそこで言われている「原本性の二義性」に対応するものであることが示される。
第5章では、他者経験における付帯現前と現前の「絡み合い」が論じられる。他者経験においては、他者の身体物体の現前に付帯して、他者自身にとっての感覚、現出、感情等が私に対して「付帯現前」する。我々の主張は、こうした付帯現前が、他者の身体物体の現前のみならず、原初的な私自身の現前とも「絡み合い」においてあるということである。このことを、ディディエ・フランクを参照しつつ、第五省察第五〇節のテクストの解釈として述べた。
この点は、第6章で「原創設する原本が絶えず生き生きと現前していること」の考察として展開される。他者の身体の構成という問題においては、それは「私の身体が絶えず現前していること」と限定される。フッサールは、このことが他者の身体の経験の特有性をなすと考える。問われるべきは、その場合「私の身体が絶えず現前している」とはどういうことかである。いかなる知覚においても私の身体は絶えず現前している、という自明な意味で理解されるなら、それは他者の身体の経験の「特有性」を説明しないからである。ところで、第五省察第五一節に従えば、それは「対化」と連関させて理解されなければならない。しかるに、トイニッセンの指摘を参照しつつ述べたように、「原創設」と「対化」の間にはある種の矛盾がある。この<矛盾>を解釈することによって、他者の身体の経験における私の身体の現前の仕方が考えられなければならないのである。この点は終章で述べられる。
第7章では、第五省察第五一節における「対化」の一般的な記述が分析される。『受動的総合の分析』や他の関連する草稿を参照し、対化についての「静態的考察」と「動的考察」が第五省察においても区別されるべきこと、そして、「動的考察」が<潜在性の次元>と結びついていることが示される。潜在性における対化は、私の身体物体と他者の身体物体という、直接的には現出様式が全く異なるものの間の対化(「現象的対化」)を説明するために必要となる。身体の類似性は、フッサールにとって常に問題であり続けたことがフッサーリアーナ第13-15巻から知られるが、『デカルト的省察』ではそうしたことは全く述べられていない。だが、この後の第五省察の叙述(第五三節及び第五四節冒頭)を全体の中で整合的に理解するためには、こうした観点からの第五一節の読解が欠かせない。
第8章では、この点を論ずるに先立ち、第五省察の叙述の流れに従って、他者経験の「調和性」による確証という考え方が解明される。そのために、第五省察第五二節の「毀損していると思われる」(ケルン)テクストの<穴>が、関連する草稿を参照しながら解読される。現在の振る舞いの物体的な側面に対する「内部解釈」は、それ以前の位相の解釈を通じて下図を描かれていた「先行解釈」でもあることによって、それ以前の位相の解釈を「充実する」ということ。このような意味で<解釈が解釈を充実する>ことが、他者経験の現実性を維持するのである。
第9章では、「類比的統覚」を動機づける「現象的対化」が具体的に記述されている、第五三節及び第五四節冒頭が読解される。そこでは、私と他者の身体物体間の、「零現出」相互の、また、「外的現出」相互の「対化」が、「私がそこにいるとしたらwennichdortwäre」という<潜在性の次元>を引き合いに出すことによって説明されている。それゆえ、ここで初めて「類比的統覚」の可能性が説明されたと我々は解するのであるが、実は、ここで「対化」の可能性が前提している、<固有領圏における私の身体の「物体」としての統握可能性>という考え方を探っていくと、「類比的統覚」の意味はより具体的に理解される。我々は関連する草稿を参照し、第五省察においては、「現実化された類似性」とは、<本来はあらゆる物体との間に起こりうる「対化」が、ある物体との間に生じていて、それに動機づけられた「類比的統覚」が調和的確証の進行において維持されつつあるもの>と思考されていると解する。「類比的統覚」とは類似性を創造しつつある統覚なのである。

こうした「注釈と解釈」を経て、終章で、我々は「他者の身体の経験とは私のどのような経験か」という問題に辿り着く。それは、第2章以来みてきた他者構成の問題を、再び、第1章でみた他者経験の記述という課題の内に引き戻してみてなった問いである。これに対して我々は、「他者とは私の変様である」というよく知られたフッサールの公式を相関的に言い換えつつ、「他者の身体の経験とは、私の身体を対化的に変様する経験である」と答える。<他者経験における私の変様(「対化」)が、取りも直さず他者経験に他ならない(すなわち、他者経験に対する「原創設」である)>というこの理解の内で、原創設と対化の<矛盾>が具体的かつ統一的に解釈されている。また、他者の身体の経験における私の身体の現前の仕方もここから理解される。他者の身体の経験において、私の身体は、対化的に変様するという仕方で絶えず生き生きと現前しているのである。我々はこの答えをさらに「他者の身体の経験とは、私の身体を潜在性において変様するような経験である」と限定する。そうした<潜在性>の内容は、»wiewennichdortwäre«の内実から得られる。こうした<潜在性>は、潜在性である以上、「隠されている」のでなければならない。しかし、それは「能力」として<眠った潜在性>であるのではなく、まさに「隠されたもの」として作動する<目覚めた潜在性>である。また、こうした<潜在性>は、潜在性である以上、「なじまれたもの」である。しかし、それは「能力」として<自我によって実現されうる潜在性>であるのではなく、<想起不可能な潜在性>である。
我々の結論は、このような意味で、「他者の身体の構成」とは、私の潜在性において、「私の身体の構成」であるということになるだろう。

補論Ⅰは、本論中(第6章第4節、終章第4節)で言及した「思弁的思考の問題」を、フッサールの想起論に即して展開したものである。補論Ⅱは、私の身体の物体化(第9章第4節)についての「1914年あるいは1915年のテクスト群」における考え方を論じたものである。