本論文は、中国宋朝時代~清朝時代(主に南宋朝時代から清朝乾隆年間まで)の儒教知識人が風水思想に向けた言説を分析し、風水思想に対する批判の論理を系譜付けると共に、それを当該時期の儒教思想史・術数学史や祖先観の歴史の上に定位したものである。ここでいう風水思想の「批判」には、それを「矯正」しようとする試みが含まれる。かつて文化人類学者MauriceFreedmanは、風水は「道徳と無関係な技術」であるという見解、及び風水思想で語られる世界の構造は機械的であり、「祖先を良地に埋葬すれば、現存の子孫たちが吉福を得る」とされる墓地風水のメカニズムにおいて、墓中の遺骨は非人格的な媒介役に過ぎないという見解を提出した。これは後続研究者のEmilyM.Ahernにより「機械論的風水観」と呼ばれたが、本論文では、風水思想に関する思想文化史学的な研究においても、Freedmanの指摘が原則的には有効であることを確認した上で、それでは「道徳と無関係な技術」の暴走を抑止するために、儒教知識人たちはどのように風水思想を再編して、彼らが「正しい文化」と見なしたものに取り込もうとしたのか――その思想的営為の通時的過程や共時的諸相を、究明の対象とした次第である。最も主要な資料としては、彼ら自身が制作した風水理論書や、既存の風水理論書に彼らが附した注釈を選んだ。
本論文は、序論・第1部・第2部・結論から成る。まず序論では、風水思想に関する思想文化史学的研究と文化人類学的研究の沿革を併せて検討し、これを踏まえる形で、本論文を執筆する趣旨と具体的な研究方法を、上記のように導き出した。
第1部は、「伝蔡氏撰『発微論』の研究」と題する。第1章「風水思想を儒学する:「四庫全書」の中の『発微論』」では、南宋朝時代の儒学者で、朱熹による道学の集大成を補佐した蔡元定、或いはその父である蔡発に帰せられてきた『発微論』の理論構成を、清朝乾隆年間の勅撰叢書「四庫全書」の公式な解題集である『四庫全書総目提要』が、同書に相対的に高い評価を与えたことに着目しながら、全面的に解読した。後者においては、易学の理論に基づいて、風水思想の語る世界の構造を整然と再構築したことと、天人相関論に基づいて、「天は善人に良地を与え、悪人には与えない」という道徳的言説を導入したことが、「風水思想を『儒理』に拠って探究した」業績として肯定されたのだった。また、そうした評価が為されたことの儒教思想史的背景、及び術数学史的背景を考察した。この章は、『発微論』に関するモノグラフであると同時に、本論文の全体における総論的部分を担う。
第2章「『発微論』四庫全書本及び関連資料の訳注」は、第1章に附属する資料集である。『発微論』四庫全書本の全篇と、『四庫全書総目提要』の子部総序、子部術数類序、子部術数類相宅相墓之属に置かれた『発微論』の解題に、日本語訳と学術的注釈を施した。
第3章「補論:人体に擬えて大地を読み解く地理認識」では、やや異なる視角から『発微論』を解読した。風水思想においては、「地勢や地形を人の身体に擬えて把握する」という地理認識が為される場合がある。同書は、これを比喩的な結び付けよりも深化させ、人体と大地の構造に類似性を指摘したのみならず、両者が存在論的にも共通性を持つことを、易学に由来する陰陽・剛柔の理論を用いて主張したのだった。『四庫全書総目提要』が、同書を「風水思想を儒理に拠って探究した」と評価した項目の内に、この点は直接には含まれないが、やはり「儒理」による風水思想の再編作業の一環として、解釈が可能であろう。
第2部は、「風水的世界システムの中の地理と天理、祖先と子孫」と題する。Freedmanは、風水思想の本質として「道徳と無関係な技術」性を挙げたのだったが、その一方で「天理」なるものが、そうした「地理」のメカニズムに干渉する要素として、風水的世界の中に役割を与えられていることも指摘していた。即ち、「道徳と無関係な技術」の暴走を抑止する装置として、「(天による)応報」という優越的な原理が、世界の構造を語る上で導入されているというわけである。
第1章「風水は「道徳と無関係な技術」なのか?:宋朝時代~清朝時代の風水理論における「地理」と「天理」の交渉」では、当該時期の儒教知識人たちが自ら著した風水理論書(第1部で扱った『発微論』を含む)を資料として、彼らが風水思想を「矯正」するために、どのような論理を導入して「道徳と無関係な技術」を牽制し、特に祖先に対する不孝(代表例は、風水的条件の良い墓地を得るまで、埋葬という孝行を甚だしく延期すること)という不道徳行為の誘発を封じようとしたかを検討した。第1に、Freedmanが文化人類学的研究を通じて報告した「地理に干渉する天理」や「天による応報」の語りが、それらの風水理論書にも見られることを指摘し、具体的な論理を分類した。第2に、風水理論書というテクストの場における、それらの記述され方の特徴を論じると共に、こうした言説を盛り込んだ型の風水理論書が、儒教知識人による風水思想批判の系譜に乗りながら、彼ら自身の手で生み出された著作に他ならないことを、具体的な文言に即して確認した。
第2章「風水思想における「気」概念の画期:『劉江東家蔵善本葬書』と、その鄭謐注をめぐって」では、明朝時代初期の鄭謐が、『葬書』の1エディションである『劉江東家蔵善本葬書』に附した注釈を資料とした。このエディションは、本文の確定作業や序文の提供を含め、道学の系譜に列なる者たちによって順次形成されたという特徴を持つ。この章では第1に、『葬書』に語られた風水的な気の理論に鄭謐がもたらした、「道学化」と呼ぶべき変化の諸相を分析した。第2に、機械論的な「道徳と無関係な技術」を牽制して、祖先に対する不孝行為の発生を回避するために、鄭謐の場合は、墓地風水のメカニズムが発効する条件に関する語りの中に、Freedmanに対抗してAhernの提出した「人格論的風水観」(墓中にある者に、祖先としての人格性と能動性が認められる)を組み入れたと言えるが、そのようにして風水思想における世界の構造が拡張された姿を、道学の祖先祭祀観の影響に着目しながら検討した。第3に、宋朝時代の程頤と朱熹、明朝時代の鄭謐と丘濬は、儒教経典に記載されていない風水という占術を、彼らの所謂「正しい文化」の一翼として承認したのだが、その論理を「孝」や「格物」の実践という意義において考察した。
第3章「人格としての祖先、機械としての墓:福建上杭『李氏族譜』に見る風水思想的言説」では、福建省上杭県に宗祠を構える李氏宗族が1990年代に編纂した『李氏族譜』と、その始祖とされる人物の事績を記す『李火徳史話』を資料とし、そこで語られる世界の構造を、今度は「機械論的風水観」「人格論的風水観」「地理に干渉する天理」の三者が緊密に連携するものとして理解した。これらの資料自体は現代に制作されたものだが、そこに示された風水的言説は、最も旧くは明朝時代前期にまで、その原形を遡ることができる。そもそも宋朝時代以後の儒教知識人は、唐朝時代以前とは違った型の親族集団を創造した者たちでもあった。彼らにとって、風水思想の再編と親族組織の再編は、恰も一対を成す営みだったのである。故に、風水理論書や注釈の制作を通して表明された風水的な祖先観や風水的な祖先祭祀論を、彼らの思想総体の中に定位するためには、彼らが祖先を直接に語り、風水的な世界の構造に関連付けた言葉を検討しなくてはならない。章の末尾では、以上3章分の小結として、風水理論書、族譜、民間説話の筆録、及び一般民衆の語りに現れた「地理と天理の交渉論」の異同と、そうした異同が現れた理由を考察した。
第4章「風水は「古の卜筮」に代わり得たか?:『司馬氏書儀』と『文公家礼』の比較から」では、親族組織のあり方を「冠・婚・喪・祭」儀礼の規則という媒体によって表現する「私礼」というテクストに着目した。論述の形式としては、宋朝時代に成立し、後世の親族組織論に大きく影響した2つの私礼文献『司馬氏書儀』と『家礼』を資料としつつ、牧野巽が両書を対比的に分析した論文「司馬氏書儀の大家族主義と文公家礼の宗法主義」を取り上げて、その説を再考した。そしてこれを踏まえ、「儒教経典に記載されていない風水という占術を、かつて喪礼に用いられていた(と信じられた)卜筮に代えて用いる」という宋朝時代以後の趨勢をめぐって、それに反対した司馬光の著作である『司馬氏書儀』と、それを承認した『家礼』や、丘濬による注釈書『文公家礼儀節』の論理を比較した。
第5章「補論:宋朝時代の道学者による風水の「発見」をめぐって」では、「宋朝時代の道学者たちが、風水思想に親和的な態度を取るようになった」という方向性が、風水思想批判の系譜の中に生じたのみならず、「儒教知識人が『風水』と呼んだ占術体系の内容自体が、北宋朝時代~南宋朝時代における道学の確立過程と並行して、彼らの認識の中で変遷を遂げていった」という方向性にも、注意が向けられるべきであることを論じた。
結論では、第1に、本論文で究明されたことを整理した。第2に、当該時期の儒教知識人が道教・仏教や民間信仰に向けた言説と、それを比較することの有用性を展望した。また、文化人類学者が風水を再発見した時点に至っても、「道徳と無関係な技術」による不道徳行為の誘発は根絶されていなかったという事実を確認した上で、儒教知識人が試み続けた風水思想の「矯正」が、どれほどの社会的影響力を持ち得たのかという問題を、思想文化史学的研究と文化人類学的研究の接点において、今後取り組むべき課題として掲げた。