豊子愷(1898-1975)という名前を聞いて、多くの人が直ちに連想するのは「子愷漫画」と称される独自の挿絵であり、『縁縁堂随筆』に代表される散文であろう。豊の漫画と散文は中華民国期に一世を風靡したが、その背景として都市中間市民層の出現が指摘できよう。当時、上海などの大都市では経済発展にともない、中間市民層が出現し、近代的都市生活に相応しい新しい文化と倫理を求めていた。豊子愷は思想性と文学性に富んだ散文と漫画を通じて、これら新興都市大衆に新しい文化を提供したのである。豊はその他にも芸術教育に関する著述や翻訳を多数発表し、『源氏物語』などの翻訳を手がけ、また立達学園や開明書店の創設に関わるなど、多方面で活躍した。
中華人民共和国の成立後、反右派闘争(1957-1958)から大躍進(1958-1960)、文化大革命(1966-1976:以下、文革と省略)へと続く政治的な流れを受け、毛沢東の文芸路線が絶対化していく中、豊子愷も批判攻撃の対象とされることがあった。特に文革の折には、豊も多くの知識人と同様に激しい批判を浴びた。1970年以降は病気療養を理由に自宅謹慎の身となるが、豊子愷の名誉が正式に回復するのは没後の1978年のことであった。当時、豊子愷の主要な罪状とされたのは、民国期および百花斉放・百家争鳴期(1956-1957)の作品や活動に見られる個人主義や閑適主義、そして生涯を通じての仏教信仰であった。
しかし1980年代半ば以降、文芸史の見直しとともに、それまで毛沢東中心の中共史観により否定されてきた作家や作品も再評価されるようになった。そうした流れの中、1990年代後半には豊子愷文集や漫画全集が出版されるなど、豊子愷に関する研究も活発になった。近年では豊子愷作品の文学性や芸術性、同時代の文化人との関係など、新たな視点からの研究も見られる。しかし思想的視点からの豊子愷研究は、依然として不十分なままである。
小論では中華民国期の豊子愷の思想的特質を分析し、また民国期における豊の多彩な活動との影響関係について論じたい。それによって、豊子愷が活躍した1930年代上海に“海派”文壇や左翼文壇の他に、“京派”文壇と同様、国民党にも共産党にも与することなく、自らの信念に忠実に、啓蒙による国民の創生と国家建設を目指したグループ「開明同人」が存在し、都市の新興知識階級に少なからぬ影響を及ぼしていた点についても明らかに出来るのではないかと思う。
「開明同人」とは、1926年に章錫琛らが中心になって創設した開明書店に関わった知識人グループを指すが、彼らは一貫して読者を啓蒙する姿勢を保持し、また都市の知識青年を中心に多くの読者から支持されていた。抗戦期には開明同人のうち、夏丏尊(1886-1946)ら一部が孤島上海に残った以外は、豊子愷を含む多くが内陸部に避難した。このような分散状態にありながらも、開明書店は読者の要望に応える形で知識青年向けの雑誌の刊行を続けたのである。
その一方で、戦争という究極の愛国経験は、開明同人をも急速に愛国主義者へと変えた。それは豊子愷においても同様である。しかし豊子愷は時として、同じ開明同人の葉聖陶らから意識の低さを指摘されることもあった。これは主として、豊が抗戦中も師範学校時代の恩師で、1918年に出家した高僧弘一法師(1880-1942、俗名李叔同)や新儒家の馬一浮(1883-1967)に指導を受け、弘一法師との合作である『護生画集』はじめ、仏教や儒教的な色彩の強い漫画や散文を創作していたことに由来する。当時、これらの作品が戦意を喪失させる、あるいは戦争に非協力的であるという理由から批判を受けるであろうことは、豊子愷も理解していた。しかしそれにも関わらず、豊がそのような作品を発表しつづけたのは、人間としての尊厳の保持が困難な時代であるからこそ「品格や気骨、節操」を失うべきではないと考えたからである。その際に豊の精神的支柱となったのは、宗教と芸術に対する信念である。豊子愷にとって芸術は、人間を煩悩の世界から、より高度な世界へと導くための重要な手段であり、その意味において宗教と通ずるものであった。
当時の多くの知識人と同様、豊子愷も国家の将来を憂い、国家の強化を切望していたが、国家権力による個人の抑圧や統制には非常に強い反感を抱いていた。個人の尊厳や自由は保持しつつ、中国を一つの国民国家として強固なものとするための方策として、豊子愷が提唱したのが「生活の芸術」論である。
「生活の芸術」というテーマは、近代中国ではまず王国維(1877-1927)や蔡元培(1868-1940)、梁啓超(1873-1929)らによって提唱され、ついで周作人(1885-1967)、林語堂(1895-1976)、朱光潜(1897-1986)らが、それぞれの論を展開した。豊子愷は、芸術による国民性の改造を強く主張したが、この点において豊の「生活の芸術」論は、李叔同の師である蔡元培の系譜を継ぐものであり、また春暉中学や立達学園の同僚として親しく交際していた朱光潜の「生活の芸術」論と基本的に類似する。豊子愷の「生活の芸術」論は決して豊だけに特有の思想ではない。しかし上記の論者たちと異なるのは、豊は単に論を展開しただけではなく、自ら「生活の芸術」を実践し、それを散文や漫画で平易に表現し、読者に示して見せたことである。
民国期、豊子愷は漫画や散文などの作品そして自分自身の生き方を通じて、芸術と宗教の重要性を熱心に提唱した。国内外の情勢不安が続き、人々が個人よりも国家を優先せざるを得ないような時代において、個々の人間の尊厳や自由を重視する豊子愷の主張は理想主義あるいは個人主義と見なされることが多く、しばしば批判や攻撃の対象とされた。しかしそれにも関わらず、豊が自己の正義に忠実に発言を続けたのは、国民の啓蒙という社会的責任を感じていたからであろう。豊は宗教と芸術を通じて人々が世俗の考えや煩悩から解放され、言わば自立した市民となり、相互に協力しあうことで新しい社会や国家を建設し、更には国家や民族という枠を超えて世界共同体を形成することを願った。このような認識の背景には、豊の青年期に大きな意味を持つ立達精神が存在する。また豊は美学の構図法について論じる際、しばしば「多様性の統一」という概念を用いたが、これは豊の共同体理念にも通じるものである。豊子愷は人間がそれぞれの個性を活かしながら、全体として調和を保ち、一つの共同体を形成することを理想としたのであった。
豊子愷の思想には西洋美学や仏教、儒教など様々な要素が融合している。これらの要素は時代の制約に応じてそれぞれ時に強く、また時に弱く表現された。しかしその根底に共通して存在するのは、心がすべての事象を生みだす源であり、すべての事象は心の持ちよう次第でどのようにも変化しうるのであるから、人は心を正しく護持する必要があるという護心思想である。そもそも人間とは煩悩や世俗の考えに惑わされやすい、弱い存在である。しかし芸術と宗教によって心を正しく護持することが出来れば、その身は現実世界にありながら、心は現実の苦しみを離脱し、平和で穏やかな理想の境地に到達すことが出来る。豊子愷にとって、このような気持ちで日々を過ごすことが即ち生活の芸術化であった。つまり豊子愷の生活の芸術論は、人間が心の自由という絶対的な自由を獲得するための思想であり、また豊が目指したのは心の自由を擁護し、啓蒙することであった。
小論では豊子愷の中華民国期の活動と思想を取り上げたが、自由主義の擁護と啓蒙という豊の姿勢は生涯にわたって貫かれた。1949年に中華全国文芸界代表大会の代表に選出されて以来、豊は政治への参加を余儀なくされ、創作は著しく減少した。しかしその自由を擁護する姿勢は変わらず、1956年の「百花斉放・百家争鳴」に際しては「多様性の統一」であるとして高く評価し、自由な発言を行っている。
また1950年代後半には宗教界への政治的干渉に加えて、出版物への検閲や統制も始まり、『護生画集』のような作品は制作それ自体が困難な状況となった。しかし豊は様々なカモフラージュをしながら『護生画集』第四~六集(1960、1965、1973年)の作成を続け、シンガポールや香港で出版している。作成にあたって最も困難を極めたのは文革開始以降に作成された第六集である。文革期、豊子愷は「反動学術権威」「反共老手」「反革命黒画家」などのレッテルを貼られ、作品の他人への譲渡や販売は無論のこと、制作自体が禁止された。しかしこれらの批判や攻撃によって豊子愷が精神的に追い詰められたのは、文革開始後の極めて初期の間だけであった。如何なる時、如何なる状況においても平然と過ごし、しかもその中に楽しみを見出す。それはまさに、豊子愷の言うところの「自得其楽」の姿勢である。文革期にも、豊子愷は自らの提唱した「生活の芸術」を実践してみせたのである。
1990年代以降、豊子愷の漫画や散文は中国内外で再評価され、再び人気を博している。これは何を意味しているのだろうか。かつて豊子愷は、精神文明が不十分なままに物質文明だけが発展することを危険視し、物質文明は精神文明の基礎の上に発展すべきであると説いた。1930年代の上海で、豊子愷が警鐘をならした事態は現在も変わっておらず、悪化の一途を辿っているかのようである。そして、こうした事態は決して中国だけの問題ではなく、大量生産と大量消費に支えられた近代資本主義社会すべてに共通する喫緊の問題といえるのではなかろうか。