本論文では、スピノザ哲学における概念と個別性との関係を論じる。概念的認識は、個別的な認識ではない。スピノザ哲学において個別的なものが何を意味するのかは一つの問題であるが、それ以上に、スピノザ哲学が一方で「概念」に重きをおくことで成立する哲学である点が、問題を形成する。スピノザの「概念」論は、デカルト哲学における「観念」説からの発展として、なぜ必要であったのだろうか。それは、個別性に対する視点と、どのように関係しているのであろうか。個別性をとらえるという課題に、なぜ一般的な概念による哲学によって応えることができるのだろうか。これが本論文の問いである。

この問いは、以下のような解釈の文脈のなかにある。個別性にかんしては、われわれ自身の存在が個別的なものであることが指摘されてきた。上野修がわれわれに注意を促すように、『エチカ』のなかにはわれわれ自身のすがたが描きこまれている。そこに直観知の位置が見出される。佐藤一郎は、直観知がもつ個的なものをとらえる役割に重点をおいて『エチカ』の理論的枠組みの再解釈を試みた。これはデカルト的な「観念」説とのつながりを重視している点でも重要な解釈である。だが、このように個別的なものに力点をおくことにより、概念による理性知の位置は相対的に低下する。あくまでも理性知によって『エチカ』が組み立てられていることの理由がそこでは明らかにならない。それに対して、概念知に重きをおく解釈が対置される。ドゥルーズは共通概念に重きをおくスピノザ解釈をおこなった。共通概念に重きをおくとは、理性知を重視するということである。だがそこでは、それがデカルト的な「観念」説とどのような関係にあるのかが明らかにされていない。また理性知と直観知との関係には、なお大きな問題点が残っている。ゲルーが言うように、スピノザ哲学には種的な本質の位置づけが考えられなくてはならず、けっしてドゥルーズが言うように本質はすべて個的であるとして済まされはしないからである。個別的なものと概念との関係は、これらの解釈においてなお解決されずに残されている。

これに対して本論文は、以下のように答える。スピノザにおける「概念」の理論はデカルト的な「観念」説のある徹底化として理解されねばならない。対象的・形相的という構造への徹底的な内在化に表現という新たな次元が見出され、そこにスピノザの存在論が切り開かれる。「身体の観念としての精神」というテーゼがその中心にある。形而上学的な諸概念はすべてこの存在論的な理解のなかで構成しなおされる。そして、われわれ自身がそれであるところの個別的なるものの理解の可能性は、われわれが共通概念を形成するところに見出される。なぜなら、共通なるものの理解は個別的なるものの理解と分かちがたく同時にあるからである。つまり、個別性は概念によってはじめて理解されるのである。

四章に分かたれた本論文の以下のような叙述において、この答えが導き出される。

第一章「思念・観念・概念」では、デカルト的な「観念」説のある徹底化としてスピノザの観念・概念・思念などの語の使用が考えられねばならないことが論じられる。この徹底化とは、対象的と形相的との区別がもつ帰結にしたがうことである。もはや観念という語を使用せずとも、すべてはこの区別によって整理される。すべては観念内的な対象であるか、それともそれじたいが観念であるかのどちらかなのである。これは、村上勝三が言うように、<知性から事物へ>という方向性の全面化である。このことにより、観念と思念の語はもはや区別を失い、また観念の観念という観点が出てくる。また観念相互の関係を問う視点が前面に出てくる。しかしこれはこのような観念ないし思念が、真なる観念であることを必要条件としている。すべてを観念内に考えるスピノザの立場は、このみずからの観念が真なる観念であることを必要とする。ここに、観念から概念へという問題が起こる。概念つまり一般的な概念は、個別的なものの観念と異なり、抽象的で非十全なるものと考えられる。しかしまた、確固とした一般的概念もまた存在しなければならない。それは幾何学的な概念とは異なっているが、われわれの理性的な論証はそのような概念の存在を確証している。そしてこのような概念の立場において『エチカ』が成立する。

第二章「身体の観念」では、『エチカ』の中心をなす「身体の観念としての精神」というテーゼの位置が明らかにされる。『エチカ』の論述のすべては、このテーゼのまわりをめぐっている。「並行論」と呼ばれる理論の困難は、「観念」説から起因することにおいてではなく、「属性」概念の位置づけにあるが、それは「観念」説において形而上学的な諸概念がどのようにその存在論的な理解のなかに埋め込まれているかを明らかにすることではじめて理解される。そこに、「観念」説における「表現」概念の重要性がある。『エチカ』第一部の実体論は、存在者としての実体とその様態を論じる形而上学ではなく、「観念」説の置かれた存在構造を明らかにする存在論的な理解である。チルンハウス的な図式化された並行論が、スピノザ哲学の関心に反しているのは、この点を見落としているからである。また、「身体の観念としての精神」というテーゼの基盤として、他方では個別的な事物のあり方が説明されねばならない。『エチカ』の実体論における様態の位置づけは、事物がいかにして特殊的な事物としての様態という身分と、他の事物とのせめぎあいのなかで見出される個別的な事物という身分とをもつかを示している。このように、「身体の観念としての精神」というテーゼを中心として、個々の人間がおかれている状況が明らかにされる。

第三章「理性の生理学」では、理性の実現が『エチカ』の果たさねばならない課題であることが示される。この課題は、理性の可能性を示すことだけでなく、理性の実現がいかになされるかを処方することで、果される。理性は二つの異なった側面において論じられる。それは知識論的な側面と、実践論的な側面である。これら二つはスピノザ哲学において理性知と理性の実践的機能として別々に論じられているように見えるが、『エチカ』の論述においてはこれら二つの側面はつなげられており、理性は理性としての統一性をもっている。これら二つの側面は、『エチカ』において自然が論じられる二つの場面、デカルト的な機械論的な場面と、それにとどまらない力動論的な場面とにおいて、それぞれ論じられている。理性の知識論的側面は機械論的な場面において明らかにされる。それは共通概念の成立によって根拠付けられる。これは共通なものの概念であり、それのみが概念のなかで十全性をもちうるのだが、この「共通なもの」が何かを具体的に示すことは困難である。それはあくまでも形式的に示されるにすぎず、それはすでに複数の個体がお互いに合致するという事態を指し示している。理性の実践論的側面は、本性の一致にもとづくことによって、力動的な場面において明らかにされる。対立と一致の力学はコナトゥスの理論によって解明されるのだが、この力動的な理論が単独で見られた場合には情動の理論を明らかにするのに対して、対立と一致の力学は、共通性をめぐる理論とつながっている。一致するということは、共通なものをもつということの力動的な発現である。理性は共通なものの概念によって知識論的に基礎付けられ、対立と一致の力学によって力動論的に人間の行動を説明する。ではこの理性はどのように実現されるのだろうか。それは、あくまでも物事を理解することによってである。喜びとは精神の理解する力が増大することであり、本性の一致もまたあくまでも精神の力をより発揮するために善であると言われるのである。情念の療法のポイントもまた、偶然によるよい出会いを組織するということではなく、理解する力をいまここで発動することにある。理解するということじたいが、よき出会いそのものなのである。

だが理解するとはどういうことなのであろうか。それによって何がもたらされるのだろうか。第四章「事物の本質」では、この問いが答えられることで、最初にたてた問題に対する答えが導き出される。ゲルーが述べるように、『エチカ』における「本質」概念の多くは種的なものにすぎない。しかしこれは、この書が共通概念において書かれているということによって引き起こされている叙述上の結果である。共通なものは特質であるといわれ、本質ではないと述べられているが、共通なものもまた本質をもち、共通概念の対象もまた本質をもつ。それが種的な本質である。だが個別的な事物の本質は、あくまでも直観知において理解されねばならない。問題は、直観知がどのように可能かということである。それは、理性知が成立するときにどのようなことが起こっているのかを明らかにすることで示される。理性知においてわれわれは永遠の相にたつ。身体の観念としての精神が永遠の相にたつというのは、精神が実在する事物としての身体の観念であるのではなく、身体の本質を表現する観念つまり実在しない事物の観念であることだ。それは、神の観念のなかに内包されるというふうにして身体の本質を理解することである。個別的なものの理解が、個別的なる事物としてのわれわれの身体の本質が意識されることにより、はじめて成立する。神・自己・事物というこの存在することへの意識ないし気づきこそが直観知と呼ばれる認識である。このように、直観知は理性知と分かちがたいのであり、ここにおいてこそ、可能なる個別的な事物の理解が成立するのである。