この博士論文(以下、一貫して「本論文」と称する)の目的は、古代ギリシア・ローマといったヨーロッパの古典古代をモチーフとして扱っている20世紀ロシア詩人、ヨシフ・ブロツキイの作品に対して、これまでの先行研究に欠如していた現代批評的な視点を導入することにある。
20世紀半ばの1940年にレニングラード(現サンクトペテルブルグ)で生を享けたソ連出身の亡命詩人ブロツキイが、一見すると時代遅れとも思われかねない古典古代への興味を惹起する契機となったのは、スターリン体制と第二次世界大戦という現代文明の引き起こした惨禍そのものである、ソ連(特に、ナチス・ドイツ軍によって900日も包囲された都市レニングラード)の「廃墟」の光景だといえる。したがって、従来のブロツキイ研究において、古典古代のモチーフおよび形式を用いた作品を、作者の単なる審美的な趣味によるものであると速断したり、あるいは時にブッキッシュな知識の寄せ集めであるかのように解釈してきたのは、きわめて一面的である。少なくとも、ブロツキイという詩人を正しく理解するには、未曾有の「廃墟」(それは物理的な「廃墟」だけでなく、文化的・精神的荒廃をも含む)を常にもたらしかねない危うさを持っている現代文明そのものへの鋭い批評的姿勢が欠かせない。そのために、本論文では、ブロツキイに関する先行研究にはほとんど見受けられない精神分析批評や、言語的越境の問題(「翻訳論」)、ポストコロニアル批評といった現代思想の視点をも利用するばかりか、欧米ではデリケートな問題であるが故に、これまでほとんど言及されてこなかった「ユダヤ性」という、ブロツキイの民族出自のテーマにも目を向けた。
本論文第1章ではまず、ギリシア的精神の継承を訴えかけた、ブロツキイにしては珍しくメッセージ色の濃い作品「荒野の停留所(Остановкавпустыне)」(1966年)を土台として、アンナ・アフマートヴァへのオマージュとして捧げた詩「ディードとアエネーアス(ДидонаиЭней)」(1969年)を分析することで、現代ロシア詩においてそもそも古典古代のモチーフを扱うこと自体にどのような意義があるのかを探った。ブロツキイは1961年頃、最晩年のアフマートヴァの個人秘書を務めていた友人アナトーリイ・ナイマンを介して、いわばアクメイズムの生き証人ともいえるこの女性詩人との知遇を得た。ブロツキイが詩「ディードとアエネーアス」を執筆したのは、アフマートヴァの連作詩「ノイバラが咲いている(Шиповникцветет)」(1946~1964年)の直接的な影響を受けたからである。このアフマートヴァとの交流により、ロシア革命などの政変や戦争によって断ち切られかけた(アクメイズムに代表される)古典文化を尊重する態度を継承する自覚が、若きブロツキイの中に芽生えたといえる。また、現代作家ソローキンの小説『青脂』に見受けられるように、アフマートヴァからブロツキイへ、という詩的継承の流れが、ロシア文学史において半ば固定観念と化している点も重要である。
第2章では、ブロツキイ特有のローマ的モチーフである〈帝国〉を舞台とした詩「ANNODOMINI」(1968年、ラテン語原題)を分析した。コンコーダンスを用いた調査によれば、ブロツキイの詩作品において〈帝国〉=империяおよび直接的に派生した単語が使用されている例は、主に1965年から1980年の間に集中している。すなわち、ブロツキイは有名な「不条理裁判」の結果としてのアルハンゲリスク州への北方流刑の経験をきっかけとして〈帝国〉への省察を本格的に開始したこと、1972年の個人的な亡命体験に〈帝国〉の問題を付与していることなどから、ブロツキイにとっての〈帝国〉とは、古代ローマ帝国のレアリアおよび専制主義的機構を基盤としたものを、世界史的規模にまで敷衍させた詩的トポスであるといえる。そして、その根幹にあるのは、父性原理に基づくユダヤ-キリスト教的世界観であり、また1967年に実際に一児の父となったブロツキイ自身の父性そのものをも反映した場であることを、精神分析批評の観点から新たに読み直すことができた。
第3章では、故国ソ連からの追放後、実際に現代の都市ローマに長期滞在したブロツキイが「廃墟」を主題の一つとして執筆した長編詩「ローマ・エレジー(Римскиеэлегии)」(1981年)を、可能な限り詳細にテクスト分析した。その結果、この作品が古代ローマの恋愛詩(エレジー体)を模倣したものであると同時に、故郷を喪失した亡命者としての哀歌(エレジー)、および度重なる心臓発作による自らの死への心準備としての追悼歌(エレジー)が幾層にも重ね合わされていることが判明した。これは、「エレジー」という古典的かつ重層的なジャンルの現代的「流用」の手法を用いたもの、いわば古典の「リサイクル=再利用」であり、その意味では、一見すると時代錯誤の存在のように思われかねないブロツキイのような「古典趣味」の詩人は、その実きわめてポストモダン的とも言えるのである。
第4章では、第3章で扱った「ローマ・エレジー」というロシア語テクストが、英語を母国語としないブロツキイによって、いわば実験的に英訳された作品「RomanElegies」との間にどのような異同が生じたのか、またそれによってブロツキイにとって翻訳とは何だったのかを追求した。まず第一にいえることは、他者による、単に内容に忠実なだけの「逐語的な訳」にブロツキイは決して満足せず、むしろ内容を自由に改変してでも、原文の詩的形式を保持することに、より大きな意義を見出しているということである。無論、ブロツキイのこのような姿勢は、「自己翻訳」という、自らの作品をいくらでも改稿することのできる「作者の特権」の上に成立するものであり(したがって、それは「創造的」であると同時に「破壊的」な、アンビヴァレントなものである)、それ故に、「自己翻訳」というジャンルは従来の翻訳理論の枠内に収まりきらないものである。その一方で、ブロツキイの、時に愚直なまでの「詩的形式」の重視は(おそらく、ソ連時代に翻訳者として利用していた「パトストローチニク制度」が背景にあると思われる)、いわば英語圏に「ロシア的詩文化の慣習」を強引に持ち込もうとしたものでもあり、一種の文化的摩擦を引き起こす結果になったともいえる。
補章では、やや視点を変えて、これまで(反ユダヤ的な文脈で語られることを除けば)正面切って論じられることのなかったブロツキイの「ユダヤ性」、すなわちこの詩人の民族的出自の問題に踏み込んでみた。ブロツキイの「ユダヤ性」とは、彼の詩学全体を左右する決定的なファクターであるとまでは言えないとしても、全く無視されてしかるべき要素でもないからである。ユダヤ人であることを痛感しつつ、それを隠蔽しようとする――この二律背反的な身振りは、生涯ブロツキイにつきまとっていたように思える。特に、「ユダヤ人」という出自を作品世界において前景化しまいとするコンプレックスが根底にあったために、ブロツキイにはことさら古代ギリシア・ローマという、ヨーロッパ文化の本流へ同化しようとする意思が強く働いたのではないかと仮定することもできよう。
そもそも、ブロツキイは「古典古代のモチーフ」に拘泥する最大の根拠として、自らが「古典主義者」であり、それは「古典主義的な街であるペテルブルグ」の出身だからであると述べているが、この主張はいずれも正しくはない。まず、彼の故郷レニングラード=ペテルブルグは必ずしも古典主義的な建築様式のみで構成されているわけでもなく、また文学史的に見ても、この都市で古典主義的な文学潮流だけが隆盛したわけでもない。更に、ブロツキイ自身の詩学そのものも、「簡潔さ、明快さ」を旨とする古典主義的な特徴以上に、むしろバロック的な要素が濃厚だといえる。特筆すべきことは、ブロツキイの古典古代への偏愛は、この詩人が「古典主義者」であるからではなく、詩作における彼の姿勢自体が過去志向であることに起因するということである。従来のロシア詩人たちがしばしば「未来」の読者層に期待を寄せたのに対し、ブロツキイが「過去の先人たち」、すなわちホラティウスに代表される古代ローマ詩人に宛てて執筆しているという点はきわめて異例の態度である。
要するに、ブロツキイの古典志向の背景には、古典文化の継承者たらんとする強い自負があるということ、そしてその自負は明らかに、男性優位・西洋中心主義的な価値観によって支えられているということができよう。(了)