清代中葉台湾における米と銀――「台運」と「台餉」を中心として

呉 玲青

本論文は、18世紀から19世紀にかけての台湾の正供による米穀移出および福建からの兵餉流入の検討を通じ、19世紀における台湾と福建の財政関係を明らかにする試みである。
18世紀から19世紀中葉まで、約一世紀半にわたり、米穀の移出や交易が台湾の経済基盤となっていた。そのなかでも、正供穀に基づいて発展してきた「台運」による官の米穀移出が19世紀から徐々に機能しなくなったという過程は、一つの重要な論題として長く注目されてきた。本論文では先行研究の成果を踏まえ、以下の三つの側面から清代中期台湾の財政動向を究明した。
第一に、台湾・福建の米価動向の分析を通じての「台運」の変遷要因の検討。従来の研究においては、清代台湾の米価と「台運」に関してそれぞれ別個に研究がなされてきたが、本論文では台湾島内の南北の米価差、また台湾と福建省福州府、漳州府、泉州府などの米価差の分析を通じて、19世紀前半の「台運」に変化を齎した各時期の要因を考察した。
第二に、「台運」と「台餉」の成立およびその変化に関する税収運用の観点からの検討。18世紀の福建や台湾の地方官は、正供穀の余剰分の搬出および兵士給料の不足分の調達という目的で、「台運」と「台餉」を行なった。本論文では、19世紀以降の「台運」と「台餉」の変遷につき、台湾の正供の実物納から銀納への移行など、税制との関係を検討した。
第三に、19世紀の台湾財政の動向と福建省財政との関係。嘉慶朝以降、道光朝に至り、台湾府は徐々に財政難に陥った。本論文では、福建省からの餉銀援助の減少が、果たして19世紀中葉の台湾府の福建への財政依存度の低下を意味していたのかどうかを検討した。
以上の三つの問題関心に即して、本論文の主な内容を以下の如くまとめることができる。
まず、18世紀から19世紀中期にかけて、各時期の「台運」の変化を分析した。18世紀の「台運」は康熙朝以来、台湾倉儲の豊富な備蓄、台湾米の安値を前提とする供給地と移入地の価格差から得られる利潤、また頻繁な民間商船の往来などの条件に基づいて展開してきた。18世紀中期まで、正供の余剰穀を解消するための「台運」には、漳州府と泉州府の米不足問題を解決するための「平糶」の機能があった。しかし、1745年に起きた全国規模の米貴をきっかけとして、乾隆初期以降、台湾府倉の備蓄穀による「平糶」穀の搬出は順調ではなかったことが露呈された。その後、「台運」は、台湾府倉からの平糶穀の搬出という形ではなく、直接に正供を利用して兵穀、眷穀(家族手当)を搬出するという形で続けられた。
18世紀中期以降、毎年「台運」により搬出された8万余石の軍糧は、台湾南部に大きく依存していた。この「台運」の構造は、次第に形成されてきた島内南部、中北部の米価の地域差との関わりで、林爽文の乱(1786-1788年)を契機に動揺しはじめた。反乱終結直後、漳州府・泉州府より高値で推移した台湾南部の米価は南部と漳泉地域を結ぶ米穀交易を阻害した。一方、台湾北部の米価は漳泉地域より安かったため、北部と漳泉地域の米穀交易を助長した。商人は、渡航ルートに制限のあった商船の代わりに、漁船や小船を使って米穀交易先を北部へ変更した。北部の米穀交易には帰路の官穀搬出義務から逃れることができるというメリットが付随していたため、漁船などによる米穀交易は盛んになっていた。結局、嘉慶中期以降、米穀輸送に携わる商船は減少してゆき、「台運」の官穀搬出は徐々に衰退した。一方、道光前期、中期の台湾米価はさらに高騰した。米価安に基づいて成立していた台湾の米穀交易構造はその前提を失った。道光中期に見られた南北米価の同時高値は清代台湾米穀移出構造の崩壊を意味している。
次に、18世紀から19世紀中葉までの「台餉」の変化との関連で、台湾の正供が実物納から銀納へと転換する背景を検討した。台湾府の調達できる税収は毎年の必要な兵餉に及ばなかったため、福建から餉銀が毎年流入することが不可欠であった。餉銀の額は台湾府と福建省のあいだの財政関係により算出されたものである。18世紀後半、実際に台湾へ運送されてきた餉銀は毎年おそらく10万両前後であるが、福建布政司の控除すべき部分が徐々に膨張した。これは、福建から台湾へ搬送すべき餉銀の減少をも意味している。しかし、餉銀の減少に直面した台湾府は正供の銀納化という対策を打ち出さなかった。従来の研究で重視されてきた1843年の台湾正供の銀納に関する記述は、正供全体の銀納化を示すものではなく、特定の名目の土地の徴税が銀納となっていたことを示すにすぎない。
さらに、19世紀中期の台湾府と福建省の財政関係を分析した。先行研究は「台運」の衰退による「台餉」の減少に注目し、19世紀中期、台湾財政の福建省財政への依存度が徐々に低くなっていたと論じている。しかし、19世紀中期の「台餉」の減少は、18世紀末からの地方動乱に際し報銷できなかった軍事費が強制的に地方官に割り当てられた「攤捐」などの対策に関係している。嘉慶期以降の蔡牽の乱などを経て「攤捐」分が累積した結果、嘉慶朝中期には、台湾を含む福建全省の官員たちの養廉銀の二割が控除されるようになった。台湾地方官の養廉銀は台湾府の収入である「官荘銀」などの税銀から拠出するものであったが、「官荘銀」の納入が滞り、府庫に貯蔵されなかったにもかかわらず、福建布政司は「台餉」からの「攤捐」分の控除をそのまま行なった。福建布政司の控除額と台湾府庫へ納めるべき税収とのずれにより、府庫の「虧空」が徐々に拡大した。
台湾府庫の払底は1832年の張丙の乱により露呈した。福建は台湾の財政難を援助するため、1834年と1864年の二回にわたって台湾府庫への経常経費と異なる特別経費として、台湾道庫へ銀10万両を送った。この道光年間の一連の過程は財政難に陥った台湾府が福建からの財政援助に依存していたことを示している。また、道光期の餉銀の数字のデータから、台湾府があらかじめ布政司の財政援助を受け、次年度の餉銀によってこの繰り上げ金を相殺すべく経費を調達していた方法がうかがえる。この繰り上げ金の返却については、また布政司により次回受領すべき餉銀から相殺するという形式で行われるようになった。このため、台湾と福建のあいだの餉銀流通量は一見減少したように見えるが、その実、福建からは台湾道庫へ特別な経費が送られており、台湾府庫が依然として福建の餉銀援助に依存していたことがわかる。19世紀中葉、台湾が福建の財政援助から離脱できるような状況ではなかったことを確認することができよう。
19世紀中葉の台湾府の財政難は、すでに「叛産」などの土地の開墾にともなう税収の拡大により解決できる問題ではなかった。1860年代の台湾開港による関税、また咸豊末期から徴収しはじめた釐金は徐々に台湾府の主な税収項目となった。新たな財源により台湾府の税収が増加したにもかかわらず、「台運」は依然として滞り、「台運」の有名無実が顕在化した。廈門釐金局は台湾府に代わって「台運」の兵米の折色銀を負担するようになった。この変化は、新たな財源の出現により正供の重要性が徐々に減少するなかで、同治年間には台湾府の正供運用が最優先の課題ではなくなったという時代状況を反映している。18世紀以来の「台運」と「台餉」の交換関係は、ここに終わりを告げた。
その後、光緒朝初期に台湾の財政収入は増え続けたが、福建からの餉銀や廈門海関の税銀援助は依然として存在していた。一方、台湾が省として昇格した後、初代巡撫劉銘傳は財源を確保するため、土地整理を始めて正供の税収を増やそうとした。劉銘傳は徴税の紛争を避けるため、銀納による徴収額が一定であるという利点を重要視している。それ以降、台湾全島の土地の正供は一律に銀納とされ、同じ税率で徴収されるようになった。銀納化の選択は、19世紀中葉以降の台湾の財政背景と18世紀のそれとの違いを浮き彫りにしたといえよう。
以上の考察を通じ、先行研究では十分に検討されてこなかったいくつかの点を明らかにすることができた。第一に、平糶を目的とする搬出から、福建の軍糧を支える手段へと変容してゆく「台運」の変化・衰退過程及びその過程における米価変動の影響である。この影響のあり方は、米貴と「台運」衰退との間の単純な相関関係ではなく、その時期に応じて複雑な展開を見せた。第二に、19世紀以降の「台餉」の減少が、「台運」の衰退の影響のほか、受領すべき餉銀の相殺過程にかかわっていた、という点である。第三に、19世紀の台湾財政の福建に対する依存度の問題である。財政難に直面していた台湾府は次年度の餉銀を繰り上げて受領するようになったため、餉銀が徐々に減少したように見えるが、餉銀額の低下は、かえって財政難に陥った台湾府が福建の財政援助を必要としていたことを示している。19世紀中葉以降の台湾財政は、関税や釐金などの新たな財源によってはじめて財政難から脱出することができたのである。
以上、本論文では、「台運」「台餉」政策の変化の背景をなす時期ごとの財政的・経済的過程を、より具体的な形でとらえ、その変化の論理をより内在的に解明する作業を行った。このような作業により、清代台湾の経済・財政の中心課題の一つである「台運」「台餉」問題の理解に一定の寄与を行なうことができたと考える。

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