視覚運動刺激の特性操作に基づくベクションメカニズムの検討

妹尾 武治

本論文では、運動刺激の成分とその処理水準の違いを利用することで、ベクションのメカニズムを明らかにすることを試みた。静止している身体に視覚刺激のみを提示することで、自己移動感覚を誘発させることが出来ることが知られている。その錯覚をさして、ベクションという名称が使われる(Fischer&Kornmuller,1930)。ベクションの心理物理学研究では、その時間特性と刺激の特性を調べることが重点的に行われてきた。また近年では、脳イメージングによってその生理学的な基盤について指摘が加えられている。しかしながら、これまでに、運動刺激の成分とベクションの関係については検討が十分になされてこなかった。そのため、初期視覚システムや皮質下といった、低次なメカニズムによってベクションがどの程度媒介されているのかは不明であった。本論文ではこの点を明らかにすることでベクションメカニズムの全体像を描き出した。
第二章では、2f+3f刺激という複合波状に輝度を変調した縞刺激を用いて実験を行った。この刺激は輝度運動成分と高次運動成分が同時に提示され、その運動方向が拮抗するような刺激であった。これによって、運動成分とそれを処理するメカニズムがベクションに対してどの程度の寄与をするかを直接検討することが可能となった。実験1では刺激のコントラストを操作することで、輝度運動と高次運動の運動知覚における内部表象の強度を変化させた。実験2では刺激の提示視野を操作することで、同じく、両運動の内部表象の強度を変化させた。その結果、運動知覚における両運動の内的な強度によらず、輝度運動で高次運動よりも高いベクションへの寄与が確認された。さらに、実験3でこの差が、刺激の空間周波数や速度によるものではないことが示された。このことから、初期視覚システムのベクションへの寄与が高いことが示された。また、運動知覚時間とベクション生起時間が対応しないことから、運動知覚以前に存在する、運動視のサブメカニズムが直接ベクションメカニズムに出力しているという可能性が示された。
第三章では、単眼観察、片側視野提示というOKN(OptokineticNystagmus)で用いられている手法を、ベクション測定に援用した。OKN研究では、鼻側への運動の頑健な優位性が、サル等の動物で確認されていた(Distler,Vital-Durand,Korte,Korbmacher&Hoffmann,1999)。人間でも乳児においてその優位性は確認され(Atkinson,1979)、弱いながら成人でもそれが残存している(VandenBerg&Collewijin,1988)ことが報告されている。Ohmi,HowardandEveleigh(1986)では、単眼観察、片側視野提示によって、鼻側網膜に鼻側への運動を提示した時にOKNがより強く駆動されることを報告している。多くの研究者によって、この優位性の原因は、網膜から皮質下への情報の投射パターンと、皮質下の細胞の運動方向選択性であることが指摘されている(e.g.Ohmietal,1986;Atkinson,2000;Braddick,1996)。この手法を用いることで、皮質対皮質下という構図をベクションに持ち込むことが可能となった。
実験の結果(実験4)、鼻側網膜の優位性と鼻側への運動の優位性がベクションにおいても確認された。これは、ベクションの皮質下処理を反映した結果であると考えることが出来た。
実験5では、皮質下の処理が想定されない、コントラスト変調刺激で実験4と同一の提示方法、観察方法を取り、実験を行った。実験4で確認されたベクションの二つのバイアスが、皮質下由来のものであれば、皮質処理しか関与しないと想定される、コントラスト変調刺激では、バイアスが消失することが予期された。その結果、ベクションの二つのバイアスは共に消失し、実験4で得られたベクションバイアスが皮質下由来のものであることが強く示唆された。
さらに実験6では、実験4で用いた刺激が運動知覚の印象強度に差を生じさせるかを調べた。その結果、運動知覚レベルでは、印象強度に差がないことが示された。これは、MST野からのフィードバックによってベクションバイアスが生じた可能性を否定するものと言える。さらに、運動知覚レベルでは差が生じ得ない刺激によって、ベクションにおいては差が生じていることから、運動視のメカニズムとベクションのメカニズムの情報統合段階のメカニズムが並列して、独立に存在している可能性が示唆された。
高次な運動刺激がベクションを引き起こすことは、Gurnsey,FleetandPotechin(1998)が指摘し、本論文第二章および、第三章によっても示されている。このことは、皮質下を介さない、皮質のみの媒介によるベクション生起経路が存在することを示唆する。第四章では、この経路についての検討を加えた。
実際には静止している物体から得られる運動印象のことを心理物理学では近年、インプライドモーションと呼ぶ(cf.Cutting,2002)。FujimotoandSato(2006)では、その場で歩行する人物を位相反転する縞刺激に重ねて提示することで、位相反転縞の運動方向が人物が示唆する歩行方向とは反対側に安定して見えることを報告している(バックスクロール錯視)。この歩行者を背景無しで用いることで、意味処理水準からのトップダウン情報によるベクション駆動を検討した。実験の結果(実験8)、このような高次な視覚処理のみを駆動させる刺激からでもベクションが誘発されることが確認された。
以上の実験を総合的に解釈して、ベクションメカニズムの全体像を描いた。まず、運動視のサブメカニズム、具体的には輝度運動処理メカニズムやコントラスト変調刺激処理メカニズムといったものから得られる出力をベクションメカニズムが用いていると考えてよいと思われる。各サブメカニズムからの出力は上位メカニズムである統合処理段階において、重み付けされている。重み付けの値はある程度固定化されており、そのバランスは運動視のものと大幅に異なっている。これが、運動知覚とベクションの強度に乖離が起こる原因となっていると考えられる。
皮質下処理もベクションの統合処理段階に出力している。皮質下のベクションへの寄与は、その運動視への寄与に比べて極めて大きいものであると考えられる。この皮質下の寄与の度合いが運動視メカニズムとベクションメカニズムの大きな違いである。
高次脳機能からのトップダウン情報の影響としては、意味処理水準からのトップダウン情報が一度運動視のサブメカニズムを介してから、ベクションに影響を及ぼすとするモデルの妥当性が高いと考えられる。
このように、本論文ではベクションメカニズムの全体像の理解に一定の進展をもたらすことができた。これまで見過ごされてきた、初期視覚システムや皮質下といった視点をベクションに持ち込むことの重要性が指摘できるとともに、ベクション研究に新しい切り込み口を作ったことによって、貢献が出来たものと言えるだろう。

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