本論文は、生成文法理論の枠組みに基づき、数量詞句(QNP)を含む否定文の意味特性の獲得について、特にQNP内に全称数量詞(∀)または数詞(Num)を含む英語・日本語の否定文を中心に考察したものである。QNPを含む否定文の意味特性の獲得に関する先行研究では、Musolino (1998)によって、英語を母語とする子供がQNPと否定辞の相対的作用域に関わる解釈に関して大人と異なると指摘されて以来、子供と大人の違いをどのように記述・説明するかが課題となっている。この課題に取り組む先行研究の多くは英語を対象としている。子供の解釈に認められる、個別言語を超えた一般性を捉え説明するため、英語以外の言語を対象とした研究も増えているが、日本語を対象としたものは少ない。本論文は、実験と発話分析を通じて日本語を母語とする子供(日本語児)から得られた新たな知見を考察に加え、子供がQNPを含む否定文をどのように解釈するかを解明することを目指した。

本論文は4つの章と実験の詳細を記した付録から成る。以下、各章の概要を述べる。

第1章では、本論文の研究課題を明示した後、生成文法理論の理論的枠組み(Chomsky (1995))を概観した。生成文法理論が仮定する人間の言語機能の体系の中で、本論文の議論に特に重要なのがLF表示と意味表示である。子供がQNPを含む否定文をどのように解釈するかという問いは、子供が当該文のLF表示・意味表示の構築に関してどのような知識を有し、その知識を言語理解の際にどのように利用するかという問いである。

第2章では、QNPを含む否定文の2つの意味特性に関する大人の文法知識について考察した。1つはQNPと否定辞の相対的作用域に関るscope解釈、もう1つは特定のscope解釈を持つ文が容認可能となる文脈の限定に関るliteral/non-literal解釈である。

scope解釈については、英語・日本語を対象に言語事実を観察し、次の記述的一般化を得た。(a)特定の音韻的・形態的標示の無い英語・日本語の否定文(無標文)は、∀またはNumを伴うQNPが主語の位置にある場合はQNPが否定辞より広い作用域を取る読み(Q > NEG解釈)のみを持つ傾向にあるが、目的語の位置にある場合はQ > NEG解釈及びQNPが否定辞より狭い作用域を取る読み(NEG > Q解釈)を持つ。(b) QNP内の∀やNumに強勢が置かれ文末に上昇音調を伴うBアクセントで読まれる英語否定文(Bアクセント文)とQNP内の∀やNumに対照の「は」が後続する日本語否定文(「は」文)は、QNPの統語的位置に関らず、∀を伴う場合はNEG > Q解釈のみ、Numを伴う場合はQ > NEG解釈及びNEG > Q解釈を持つ。

この事実を踏まえ、本論文は、大人の文法におけるscope解釈には次の演算が関わると仮定した。QNP内に∀またはNumを含む否定文では、A移動・QR・コピー削除などの操作により、LFにおいてQ > NEG解釈に相当する表示とNEG > Q解釈に相当する表示の2つの表示が与えられる。両方の読みが許されるのは各LF表示に対応する意味表示が共に容認可能な場合であり、一方の読みしか許されないのは各LF表示に対応する意味表示のうち一方しか容認可能でない場合である。このようなLFにおける潜在的な多義性を解消する1つの要因はBアクセント・対照の「は」が誘発する対比の含意(CI)である。上記(b)で述べたように、∀を含むBアクセント文・「は」文では、NEG > Q解釈は許されるが、Q > NEG解釈は許されない。これは、Q > NEG解釈とその読みにおいて計算されるCIが整合せず、両者を含む意味表示が容認されないためである。(Numを含むBアクセント文・「は」文では、どちらの読みでも意味表示において整合するCIが計算されるため、2つの読みが許される。)

QNPを含む否定文のもう1つの意味特性であるliteral/non-literal解釈には、CIとは異なる尺度の含意(SI)が関与する。例えば「学生が本を全部は読まなかった」という「は」文は、CIにより一義的に‘It is not the case that the student read all the books’というNEG > Q解釈を持つ。この解釈は、(α)「本が5冊あり、学生が4冊読んだ」という文脈でも、(β)「本が5冊あり、学生が5冊とも読まなかった」という文脈でも真である。従って、上記の文は字義通りの解釈ではどちらの文脈でも容認可能なはずだが、実際には(β)の文脈では容認されない。本論文は、これが(β)の文脈と∀が誘発するSIが矛盾することに起因することを示した。

このような大人の文法を仮定し、第3章では以下の問いについて考察した。

  • (i)子供は、QNPを含む無標の否定文のscope解釈の点で大人と同じか。異なるならば、どのように、そして、なぜか。
  • (ii)子供は、QNPを含む否定文のscope解釈に対するCIの影響を理解するか。理解しないならば、なぜか。
  • (iii)子供は、QNPを含む否定文の解釈に対するSIの影響を理解するか。理解しないならば、なぜか。

(i)の問いに取り組むため、本論文の実験1では、3~5歳の日本語児が、∀またはNumを目的語QNP内に含む否定文を、NEG > Q解釈が真となる文脈(¬Q文脈)とQ > NEG解釈が真となる文脈(Q¬文脈)で容認するかを真偽値判断法により調査した。その結果、日本語児は大人と異なり、∀を目的語QNP内に含む文をQ¬文脈のみで容認する傾向があることが明らかとなり、子供はQNPと否定辞の相対的作用域が両者の線形順序に一致する読みを好むことが示された。しかし、実験1及び後述の実験2と発話分析の総合的な結果は、日本語児が特定の場合にはQNPと否定辞の相対的作用域が線形順序に一致しない読みを得ることができることを示す。これらの事実に基づき、本論文は、(i)の問いに関して、次のような言語処理の観点からの分析が妥当であると論じた。子供は、無標文においてQ > NEG解釈とNEG > Q解釈に相当する2つのLF表示を構築し、それを意味表示に写像するために必要な文法知識を持つ。しかし、言語処理のための資源が不十分なため、最初の解析で得た線形順序と一致する読みとは別の読みを得ることが困難である。

実験1では、Numを含む文に対する日本語児の反応が∀を含む文の場合と異なることも明らかとなったが、これに関しては、子供はNumを含む名詞句を指示的に解釈するという分析の方向性を示し、Numを含む否定文に対する子供の反応はscope解釈を反映したものではないと論じた。

(ii)の問いに関しては、実験1で、3~5歳の日本語児が∀を含む「は」文をどのように解釈するかも調査した。その結果、子供が大人と異なり、当該文を¬Q文脈のみならずQ¬文脈でも容認することが観察された。この子供の反応には次の2つの説明の可能性が考えられる。①子供はCIの知識を欠き、当該文にQ > NEG解釈を与える、②子供はCIの知識を有し、文にNEG > Q解釈を与えるが、SIが計算できず、文を字義通りに解釈する。①②のどちらが妥当かを検討するため、本論文は実験2と発話分析を行った。実験2では、4・5歳児が対照の「は」を含みQNPを含まない否定文のCIを理解するかを真偽値判断法により調査した。発話分析では、3歳以下の子供が自発的な発話で対照の「は」を正しく用いるかを調査した。その結果、2・3歳児でもCIの知識を持つことが示された。実験2・発話分析の結果と、実験1において∀を含む無標文と「は」文に関して得られた対比から、②の立場が支持される。すなわち、(ii)の問いに関して、子供はCIの知識を持ち、それがscope解釈に与える影響を理解することが明らかとなった。

本論文の(ii)の問いに関する議論は、(iii)の「子供がSIの影響を理解するか」という問いに対して、否という答えを提示する。すなわち、実験1・実験2・発話分析の結果を総合すると、3~5歳の日本語児は∀を含む否定文においてSIの計算に失敗すると言える。

近年、否定文内の∀以外の様々な尺度表現が誘発するSIの獲得研究により、子供がSIの知識を持つという証拠が提出される一方、子供がしばしばSIの計算に失敗することも指摘され、その一因として未発達な言語処理能力が挙げられている。その分析によれば、SIを計算するには2つ(以上)の命題を作業記憶内に保持し、それらの情報上の強さ(informational strength)を比較する必要があるが、子供にとって複数の命題を作業記憶内に保持することは困難であるため、比較されるべき複数の命題が明示されない限りSIの計算に失敗する。本論文は、この分析が否定文内の∀に誘発されるSIの場合にも適用可能かを検証するため、実験3を行った。実験3では、4・5歳の日本語児が、「は」文及びそれと比較されるべき命題を表す文が両方提示された場合に「は」文のSIを理解するかを適切性判断法により調査した。その結果に基づき、本論文は(iii)の問いに対して次のことを示した。子供はSIの知識は持つが、しばしば否定文内の∀が誘発するSIの計算に失敗する。その要因には複数の可能性がある。実験のデザインや尺度表現が生起する言語環境と共に、子供の未発達な言語処理能力もその1つである。

第4章では、本論文で得られた知見を次のように纏めた。子供はQNPを含む否定文において2つのLF表示を構築し、それをQNPと否定辞の相対的作用域のような意味論的解釈とCI・SIのような語用論的解釈を含む意味表示に写像するために必要な文法知識の点で大人と同質である。子供が大人と異なるのは、その文法知識を必ずしも適切に利用できない点であり、その要因の一つは未発達な言語処理能力である。