出来事と時間

渡邊 誠

本論は時間の概念を出来事の観点から解明することを試みたものである。

われわれは時間について語るとき、「過去・現在・未来」とか「以前・以後」というような概念を口にするし、「時間が過ぎていく」、「時間は流れる」のように時間の姿をイメージすることもある。しかしそれらどの表現も、空間的な表象を比喩として使っている。だが、いったいこの比喩が何を何に喩えているのか、それが実は不明である。というのも、一般に比喩とは、或る事柄を聞く相手や読む相手によりよく理解してもらうために、別の事柄を引き合いに出すことである。「雪のように白い肌」、「彼は一匹狼だ」のように、「雪」や「一匹狼」を利用して、女性の肌の白さや、男性の群れない性格をわかりやすくする、これが比喩の機能である。ところが、空間的な表象、たとえば「過ぎ去った」は、いったい時間の何を喩えているのかわからない。「時間が過ぎ去った」ことだと答えても、同語反復しているだけでそれでは比喩を説明したことにはならない。しかも時間は知覚の対象ではないから、誰も「時間が過ぎ去った」ところを見たことがない。ただ頭の中でイメージしているだけである。それではこのイメージはどこからきたのかと言えば、空間内を物が移動していく様子からしかあり得ない。そうすると、誰も時間の真の姿を知らないまま、空間的な運動のイメージをそのまま時間のイメージだと思い込んでいるだけだということがわかる。つまり「時間が過ぎ去った」という表現は、時間を空間的な表象を利用して比喩で表しているのではないのである。

そこで時間の比喩表現とはいったいどのようなことなのかを見極めるために、われわれが時間について表現することで、何を語っているのか、そのことを省みることから本論は始まる。それが第一部「出来事と時間」の全体的な枠組みである。第一章では、われわれが時間について語ることで実質述べているのは出来事のことであることを確認し、そもそも出来事とは何なのかをそこで検討している。結論だけ述べれば、われわれは出来事を経験するのではなくて、われわれが人や物との関わりの中から注意・関心を引いたことだけを取り上げて言葉でまとめて出来事にしているのである。言ってみれば、体験したことを出来事として纏めているのである。詳細は本論に委ねるが、その結果見えてくることは、出来事は概念であり、概念としてのみ存在し、けっして物や身体のようには実在しないということである。そしてこの概念でしかない出来事を物に見立てる比喩が実現したときに、時間的な表現が可能になる。「もうすぐクリスマスがやって来る」と人は気軽に言っているが、サンタクロースが来るほどにクリスマスがやって来るのは自明ではない。人や物は行ったり来たりするが、出来事であるキリスト降誕祭は空間上のどこにもやって来ないし、どこにも去って行かない。それにもかかわらず人々が気軽に「クリスマスがやって来る」と行ってしまえるのは、出来事を空間上を往来する物に見立てているからである。この出来事を物に見立てる比喩こそが、時間表現を成立させている比喩の本体だと言うことをまず論証する。これが本論全体を貫く基本的な考え方である。

この基本的な考え方に立って、時間の比喩表現を具体的に検討し、「過去・現在・未来」、「以前・以後」、「時間が過ぎていく」、「時間は流れる」といった時間表現がなぜ可能になるのかを第一部第二章で解き明かしていく。そしてそうした時間表現が、太陽を中心に天体を観測することでわれわれが身につけてきたものであって、けっしてわれわれの意識に本来時間の流れがあって、それを計測するために天体を計測しはじめたのではないことを第三章で論じている。われわれが時間を計測するために天体を観測しはじめたのではない論拠として、地上の動植物はすべて太陽の概日リズムと概年リズムに同調する能力を遺伝子のレベルで備えており、自然のサイクルの同調している限り、天体を観測する必要もないし、現にしていないことをあげている。

概念でしかない出来事を表現する時間もまた概念でしかない。物に見立てた諸々の出来事を想像上の道である時間軸の上に並べて、その道をわれわれが前方に向かって歩いていくか、止まっているわれわれに向かって前方から諸々の出来事が近づいてくるか、そのいずれかでしかわれわれは時間のイメージを持つことができない。前者の具体例が「未来を切り開く」、後者の具体例が「いよいよクリスマスが近づいてきた」である。どちらの場合も前方にあるのが「まだ来ない未来」「やって来るavenir, Zukunft」であり、後方が「過ぎ去った過去、past, passé, Vergangenheit」である。このように時間は出来事を物に見立てた比喩に基づく空間的なイメージから派生した概念であるから、言葉の力に与っている。これが、言葉を持たなくとも身体がある以上、われわれが空間的な振る舞いをせざるを得ないのと大きく異なる点である。不幸にも言葉を持てない、あるいは十分に持てない、または幼いために未熟な人々は、時間意識を十全に持つことができない。そのことを明らかにしたのが第一部第四章である。

第二部では、第一部で確かめた時間の概念の基本的なあり方を踏まえないと、時間についての考察はアポリアから抜けきれないということを示すのが眼目である。多くのしかも影響力の大きな哲学者の時間論がアポリアから抜け出せないのは、時間が深いなぞめいた存在だからではなく、時間の概念の基本的なあり方を誤解しているからである。そのことを論証すべく、西洋哲学史で時間論を展開した主な哲学者を六人取り上げている。アリストテレス、アウグスティヌス、ベルグソン、フッサール、ジェイムズそしてマクタガートである。特に魂とか自我とか意識の世界の時間こそ本来の時間であって、天体観測された結果得られる暦と時計の時間は派生的だとするアウグスティヌス、ベルグソン、フッサールの時間論には厳しい態度で臨んでいる。彼ら、就中ベルグソンとフッサールの時間論は今日の我が国の哲学界では依然として多大な影響力を保持しているが、彼らがまず意識の中に「流れる時間」を何の根拠もなく打ち立ててしまったことで、どうしようも説明のつかない結論に陥ってしまっていることを指摘している。そしてその原因は、「意識に流れる時間」こそが、物に見立てた出来事が時間軸上に並ぶ空間的な表象に由来しているのに、あべこべに、空間的な時間表象の方が「意識に流れる時間」から派生したものだと根拠のない思いこみをしてるからだというのが論旨である。

マクタガートは、時間論以外ではあまり知られていないが、英米系の時間論哲学者が必ず取り上げるのが「マクタガートのパラドクス」なので取り上げた。彼は時間の隠喩表現の本質を極めて明瞭に理解していたのにもかかわらず、時間に関して独自すぎる変化観を持っていたので、誤った論証をしてしまったというのが本論の見方である。さらに第七章で相対論の時間を取り上げたが、批判するというよりも、時間が相対的だという意味を誤解すべきでないという指摘にとどめた。

哲学者たちの時間論が思い込み(ドクサ)の上に成り立っていることを明らかにした第二部に対し、人々が暮らしの中で関わりをもってきた時間こそが真の(アレーテースな)時間であると位置づけて、われわれが古来からどう時間と関わって来たのかを振り返る試みをしたのが第三部である。

まずは季節の循環に生活をゆだねながら自然の生態環境を時間の節目に使っているヌア族の人々の時間を確かめる。彼等の「エコロジカルな時間」こそが、われわれ工業化社会に生きる人間たちにとっても時間の原点であることを確認したかったからである。そうしたエコロジカルな時間との関わりは、古代ギリシアでも中世のヨーロッパでも人々の生活に根づいていたが、それが大きな変化を遂げるのは産業革命以降の労働管理システムの登場であることを指摘する。しかしそれでも時間は、どこまでいってもわれわれがわれわれの便宜のためにつくり出した概念であり、「時間が人を管理、支配する」、そのように見えても、実は人が人を管理・支配するために時間を手段として使っているに過ぎない。そのことを論じている。

最終の第四章では、これまでの議論を受けて、人が時間の中で生きるとはどういうことかを問い直している。時間はわれわれが作りだした概念であり、その概念を支えているのが出来事である。そしてその出来事は、第一部でも論じたのだが、社会的に共有されてはじめて出来事としての地位を得ることができる。そうであるならば、時間の中に生きるとは、自分が属する共同体の中で、他者と出来事を共有する仕組みを共有することである。それゆえ社会の中で他者と折り合って出来事を共有することができなくなってしまうことは、自らの社会的なアイデンティティに危機を招くことになり、その結果として時間の概念が壊れてしまう。時間の概念が壊れるからアイデンティティが危機に陥るのではないことが重要であることを指摘している。そして最後に、時間は実在しないが、時間の概念を獲得することで、われわれは世界を時間の相の下に見ることができるようになったし、またそのようにしか見られなくなったことをおさえた上で、それゆえ、「実在は時間的である」という表現が意味を持つことを結論として述べている。

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