本論文は、スウェーデンの作家セルマ・ラーゲルレーヴ (Selma Lagerlöf, 1858-1940) を対象に、その近代性と脱近代性を論じた三部から成る論文である。本論文の目的は、以下の二点である。一点目は、これまでの日本において、政治性や同時代的な問題意識がほとんど指摘されてこなかったラーゲルレーヴを、「近代」というキーワードを軸に論じることで、彼女が近代世界に対して果たした役割を示唆し、ステレオタイプ・イメージを批判することである。二点目は、彼女の作品の、「近代」を超える部分を指摘することで、同時代のスウェーデンに限定されない、作家・作品の普遍的な文学的価値を見出すことである。

第一部では、近代日本史にラーゲルレーヴ研究・北欧文学研究を位置づけることを目的に、ラーゲルレーヴおよび北欧文学の日本における受容のあり方とその背景を概観することで、北欧やラーゲルレーヴのステレオタイプ・イメージが成立する過程を考察する。

今日の日本において、北欧には、「牧歌的な理想国家」というイメージが、ラーゲルレーヴには、北欧の「良心」を代表する「母性的・幻想的な平和主義作家」というイメージが定着している。日本の北欧学研究では、それらの原因を北欧に対する知識の浅さ、研究の少なさに求める傾向がある。しかし、ラーゲルレーヴは、「児童文学」および「キリスト教文学」を中心に、百年にわたって邦訳され続けている。このことから、ステレオタイプ・イメージは、翻訳や研究の少なさによってではなく、受容者の関心のあり方や思想的背景の一様性ないし限局性によって形成されるとの仮説を立て、以下の四つのグループについて、受容のあり方とその背景となった時代潮流・思想を考察する。

  1. 森鷗外、小山内薫らの新劇運動における北欧演劇(イプセン、ストリンドベルイなど)の翻訳・上演
  2. 平塚らいてうによるエレン・ケイ受容と『青鞜』メンバーによる北欧児童文学の翻訳
  3. 内村鑑三によるエンリコ・ダルガスの紹介と、無教会グループによるデンマークの教育システム(フォルケ・ホイスコーレ)への注目
  4. 『近代文学』同人山室静のマルクス主義からの「転向」と、日本で初めての包括的・体系的な北欧文学受容

北欧文学は、当初、西欧文学と区別されず、最新のヨーロッパ文学として、日本の欧化・近代化のモデルとされた。しかし、西欧的な近代化の弊害や不完全さが意識され始めると、北欧文学は、新たな近代化モデルの役割を担った。こうした問題意識は、北欧への関心の喚起に貢献する一方、一面的な受容や過度な理想化の一因ともなった。

第二部では、第一部で示した日本におけるステレオタイプ・イメージとは違う、ラーゲルレーヴの「近代的」側面を示すことを目的に、第一作『イェスタ・ベルリングのサガ』(Gösta Berlings saga, 1891)を論じる。

第一章では、当時の北欧および北欧文学を取り巻く状況を概説し、その中での『イェスタ・ベルリングのサガ』の位置を確認する。北欧では、19世紀後半、農業・鉄工業・金融・交通などの分野で近代化が進み、都市化、アメリカ移民、農村の空洞化などが深刻な問題となった。ブランデス、イプセン、ストリンドベルイなどに代表される「80年代文学」は、進歩主義・啓蒙主義・科学中心主義の立場から、そうした諸問題を直接的に描き、批判した。これに対して、「90年代文学」は、ニーチェやフロイト、デカダンスの影響のもと、理性では捉えられないものや今目の前にないもの、すなわち、空想や過去、異国などを書き、また人間の生を肯定的に描いた。『イェスタ・ベルリングのサガ』は、「90年代文学」の代表作である。民話・神話を思わせる作風が多いことから、北欧では長く「お話おばさん(民話を口承する女性)」として親しまれたが、1980年代以降は、ジェンダー論的観点から論じ直す動きが始まっている。

第二章では、『イェスタ・ベルリングのサガ』を分析することで、スウェーデンの「近代化」のあり方と、それに対して「前近代」が果たした役割を、文学研究の立場から考察する。同作における1820年代のヴェルムランドは、牧歌的な理想郷ではなく、美と野蛮、善と悪、強さと弱さといった、正反対のものが共存する前近代的な空間である(このことから逆に、作家が、近代を、ものごとを二項対立的に分ける時代と規定していることが分かる)。その世界は、語り手が物語を語る「現在」においては、すでに滅んでいる。そのことは、作品の最後にヴェルムランドを統べる老女が死去することで示される。同作は、語り手が啓蒙的理性と科学的精神を持つ近代人でありながら、清濁併せ持つ前近代を伝え聞いたままに語るという体裁をとる。それは、前近代と同じ方法で「語る」ことで、失われた共同体を「弔う」ためである。「弔う」ということは、過ぎ去った時代、滅びたものを悼むことであると同時に、それらが過ぎ去ったことを納得し、新しい時代を生きること、すなわち、前近代を物語化し、近代の中に取り込むことである。

第三章では、日本および北欧以外のヨーロッパ諸国の北欧受容の媒介となった、ドイツにおける北欧受容のあり方を概観する。北欧は、19世紀・20世紀の民族主義運動の高揚の中、ゲルマン民族の故郷として理想化された。ラーゲルレーヴも、個人としてはナチズムに反対したものの、ドイツの民族主義運動である「郷土芸術運動」や「血と大地」によって積極的に受容され、ナチス政権下で人気を博した。このため、戦後のドイツで、ラーゲルレーヴは「御用作家」として、長く研究の対象から外された。

第三部では、ノーベル文学賞受賞作『エルサレム』(Jerusalem, 1901-02)を対象に、第二部第三章から提起された問題として、ラーゲルレーヴ文学の魅力とされる「善意の成就」と「救済の達成」が、ドイツ民族主義とどのような共通点を持ち、またどのようにしてそこから逸脱するのかを、近代の問題性との関連で考察する。同作は、スウェーデン・ダーラナ地方の農民37人が、宗教上の理由からエルサレムに集団移住するという史実(1896年)に取材した長編小説で、信仰のために故郷を捨てる農民たちと、代々土地を治める富農一族の当主としてダーラナにとどまる主人公イングマルが対比されている。

まず、作品の構成と内容を確認する。同作は、導入部で描かれる主人公の父の人生を、本編において主人公が完成させる「予型論」的構成を取る。この構造は、作品における登場人物たちの死が、「命の断絶」ではなく「命の継承」であることを示すのみならず、信仰上の立場の相違およびエルサレム移住によるダーラナの家族的共同体の崩壊や、当地における移住者たちの熱病による死や発狂という「惨事」をも、より良い未来を予感させる「物語」へと転換させる。

次に、同作の最大の魅力の一つである「善意」や「倫理」と、ナチズムにつながる「暴力」の関係を考察する。「父から子への命の継承」というテーマと強く結びつくのが、「郷土芸術運動」および「血と大地」思想でも好まれた「農民」、「農耕」のモチーフである。このモチーフは、近代化以前の無垢な人間性を表すとされることが多いが、「大地」の「農地」化という、文明そのものが持つ暴力的側面を体現する。それは、作中では、「男性による女性支配」という形で表れる。導入部においては、主人公の父である農夫が、倫理を貫徹し、父親の跡を継いで一人前の当主になることと、「大地」を農地として支配すること、さらには「大地母神」を連想させる妻を良妻賢母へと馴化することが重ねられている。本編においては、男性の「健康」と女性の「障碍」、「病」が対置される。19世紀・20世紀の少女小説では、しばしば、病や障碍が、女性の家への隷従の比喩として描かれるが、女性解放運動の旗手として知られるラーゲルレーヴにも、この傾向は見られる。女性の「障碍」や「病」は、男性によって克服ないしは駆逐されるが、このことには、男性の女性に対する主導性のみならず、障碍者排除という、ナチズムにつながる側面も表れている。

次に、「障碍」、「狂気」、「死」が、常識や人智を超えたものとしても描かれていることを指摘し、近代化以降、社会の表面から排除されてきたこうした表象の扱い方の中に、作品の「脱近代」の可能性を考察する。スウェーデンでは、20世紀に死生観が大きく変化し、「死」は、「自然に還る」ことであるという言説が成立したが、『エルサレム』における死は、「惨事」であるがゆえに「天啓」をもたらすという、「正反対のものの一致」を示している。「狂気」は、他の登場人物からは「事実を認識する能力の欠陥」とみなされる一方、作品全体としては、理性や人智を超えた、真実に触れる能力として描かれる。「障碍」は、神の奇跡に触れる能力として描かれる。

最後に、スウェーデンのナショナル・アイデンティティを体現するはずの主人公の「周縁」性を論じる。主人公の容姿や行動は、オーディン、オデュッセウス、ロキ、ユダなど、ヨーロッパの神話・伝説上の人物たちを連想させる。これらの人物はいずれも、神または神々の世界の終焉に手を貸し、人間の世界の幕開けを手引きした。主人公もまた、近代的な価値から外れることで、既存の世界観や生のあり方を転換する可能性を有している。