本研究の課題は、幕藩体制下で展開した芸能の具体相と、芸能を成立させた構造を明らかにすることをとおして、近世社会における芸能の文化資源学的な意味を検証することである。

前提として、具体的には次のように考察の対象と視点を設定する。

まず考察の対象として、庄内藩(現山形県庄内地方)をとりあげる。譜代大名の酒井氏によって江戸期250年にわたり一貫統治された庄内藩は、改易・転封などの影響を受けず安定的な政治環境を維持した稀な藩で、近世社会における芸能の変遷を、長期にわたって追跡することが可能であると考えられる。

さらに城下町・鶴岡、湊町・酒田、郷村部の黒森の三カ所を取り上げる。庄内藩という同じ政治環境下で、背景も担い手も異なる地域で、芸能が相互に関係を持ちながら独自の展開を示したことを比較・検証できると考えたからである。

次に、芸能と社会との結節点として、「興行」と「法楽」という視点を設定する。

守屋毅氏が芸能の近世的特質として、芸能をあたかも商品のごとく扱う「興行」という上演形態の形成を指摘して以来(『近世芸能興行史の研究』 弘文堂 1985年)、芸能の社会環境的な側面からの研究が大きく進展した。しかし筆者は、近世社会に芸能を存続させたメカニズムとして、「興行」と同様に「法楽」という上演形態も重要であると考える。

芸能は寺社の神事や集落の祭礼など、「興行」以前からの歴史があり、そこで行われてきた芸能は、近世に至っても、「興行」とは別の回路すなわち「法楽」として芸能を存在させていた。たとえ歌舞伎や浄瑠璃のように商品性の濃い芸能であっても、「法楽」性は皆無ではなく、現れ方を変えつつ、むしろ「興行」が芸能上演の主体を担う事態になるほど、芸能と社会をより深いところでつないでいた。「興行」と「法楽」は不可分な関係で、両者の変遷、相互の関係性を解明することが、近世社会における芸能の意味を考えるうえでも有効であると思われる。

作業過程としては、まず、「興行」の拠点であった鶴岡と酒田、「法楽」の歴史を有する黒森の近世の状況を把握する。鶴岡、酒田は、主として諸史料・文献から近世の様相を再構成する歴史学的手法をとる。一方黒森は、現在も小正月の行事として上演されている黒森歌舞伎の芸態、諸行事や芝居運営の仕組み、記録や衣裳などの物的資料を、民俗学的、博物学的調査をとおして把握し、現在の黒森歌舞伎に内在する近世的要素を析出して、近世の黒森芝居に遡及する。その上で、三地点における芸能の様相や構造を明らかにし、近世芸能の在り方を比較・検討する方法をとった。

本論文は序章から終章までの8章で構成している。

「序章」では、考察対象の解説と、「興行」と「法楽」について考察する。

「第1章 『興行』」以前では、17世紀後半から末の、興行以前の芸能の状況を検証する。さらに元禄10年の長吏の興行願の分析をとおして、興行の黎明期の様相を解明する。牢番、刑吏として藩の御用を勤めるとともに、芸能者を内包する集団でもあった長吏が、「芝居を立てる」実績を積み重ねて、歌舞伎や操などの「興行」の権利が認められるようになる経緯を明らかにする。

「第2章 興行の時代」では、庄内藩の興行の実態と仕組みについて論証する。まず興行の全体像を把握するために、藩の諸記録や町方文書、日記類など20余の史料から芸能に関する記事を抽出し、庄内の180年間の興行データベースを作成する。350余件のデータ分析から、興行の動向、年代や芸能ごとの特徴を析出し、庄内の興行の歴史的展開を大きく三期として捉える。

第一期は、宝永元年、鶴岡に藩公認の菅原芝居が設定され、興行が恒常的に行われるようになる18世紀半ば頃までである。この時期に長吏の興行日数は年間25日、興行できない年は被下米が支給されるなど、長吏を中心とした興行慣行が形成される。長吏は芝居を願い出るだけでなく、芸能者として自芝居も行っていた。18世紀半ばには、長吏以外にも寺社や町人が興行に注目するようになり、利権の主張や芸能領域の攻防などを経て、興行の担い手たちが登場する。

第二期は、庄内が東北有数の興行地として広く知られ、興行の隆盛期を迎える時期である。18世紀後半には長吏、寺社、町方のそれぞれが棲み分けをして興行に関わるようになり、庄内藩の興行体制がほぼ整う。江戸や上方から名だたる大芝居や大相撲などが数多く訪れ、また他地方からも様々な芸能者が訪れ、庄内は東北における芸能興行の拠点となる。この時期、「興行」の盛衰に即して芸能の「法楽」的側面にも変化がみえる。興行の盛期には、芸能の神聖性、無欲性を意味するものとして用いられ、興行が規制されている時期には、芸能を行うための建前として用いられるなど、「興行」と「法楽」は相互に補完しうる関係にあった。

第三期は、庄内藩の興行体制が瓦解し、明治新政府のもとで新たな仕組みが動き始めるまでの時期である。天保13(1842)年7月、幕府の天保の改革により長吏を主とした興行慣行は大きく崩れる。さらに幕末の戊辰戦争や明治維新による社会変動により、寺社や町方の興行も大きく規制され、庄内の興行体制は本格的な復活を迎えることなく、明治期に到る。

明治4年の「身分解放令」により、長吏は平民としての「自由」を取得する一方で、それまで独占していたあらゆる権益を手放すことになる。以後、明治新政府のもと、鑑札制度の導入で興行は誰でも行うことが可能となり、長く続いてきた庄内の芸能興行の仕組みは終焉を迎える。

「第3章 長吏集団の構造」では、庄内藩の長吏と呼ばれた集団の構造を明らかにする。長吏とは、近世以前に遡る来歴を持つ人びとで、皮革生産、竹細工、予祝芸能など多様な職能者を内包しつつも、長吏頭以下、一つの集団として認識されていた。彼らは政治体制のなかに牢番・刑吏として組み込まれ、社会的には畏怖され賤視される存在であった。長吏は自分たちの役務が藩全体に及ぶことを前提に、藩の統治領域がすなわち自分たちの活動領域であることを主張し、それが職業上においても有効であるとして、落牛馬皮の取得権や芸能の勧進権を獲得していった。ここでは長吏集団の「職業」や、組織の構造、動向について分析し、庄内の長吏の実態に迫る。

「第4章 寺社、町方と興行」では、長吏とともに庄内の興行を担った寺社と町方に着目し、彼らが関わった興行の実態と仕組みを明らかにする。18世紀前半、享保の改革や自然災害により長吏の興行が大きく規制されるなか、寺社地では勧進、開帳という名目で相撲と能が行われるようになる。さらに18世紀半ばには長吏による興行慣行がほぼ整うのと並行して、寺社地と町方でも興行が許可されるようになり、庄内藩の興行は隆盛期を迎える。

寺社地では、元来の宗教的行事である開帳や説法、法談などに加えて、神事芸能としての能と相撲とを独占的に行うようになり、江戸中期以降、芸能は集客のために戦略的に行われる傾向が強まる。それ以後も、興行としての大相撲や能も寺社にほぼ限定され、さらに寺社によっては、単なる貸し会場として境内や屋内で興行を許可する所もあり、近世を通じて寺社地は興行も法楽も行う最も豊かな芸能空間となっていった。

また町方では、橋の架け替えや改修などの、公共性の高い事業の勧金システムとして、特定の町役人などが願人となる興行が許可された。その際に行われた興行物は見世物、相撲、浄瑠璃などで、実際に興行を仕立て、運営する様々な関係者が存在した。寺社地や町方の興行の特徴を分析することで、藩の興行政策の特徴がよりいっそう明らかとなった。

「第5章 芸能の特徴」 では、庄内藩で具体的に行われた興行の内容について明らかにする。芸能分野の動向としては、18世紀初頭から半ばには操や歌舞伎、勧進相撲が多く、隣接する天領での興行も盛んだった。しかし18世紀後半から19世紀前半には、大芝居、大相撲などの本格的で大規模な興行ものが酒田や鶴岡を訪れた。この時期、庄内は江戸、上方をはじめ、東北各地から様々な芸能者が訪れる東北の重要な興行地となっていた。規制の厳しい幕末から明治初年には、小規模な見世物や地元の芸能者による浄瑠璃、長吏の自芝居などが行われていた。庄内で行われた諸芸能のうち代表的なものは、歌舞伎、操、能、相撲、見世物類であるが、本章では具体的な史料に即して、それぞれの特徴を示し、近世芸能における庄内藩の位置についても論及する。

「第6章 黒森芝居~『法楽』芝居の近世」では、近世「法楽」芸能の事例として、黒森芝居をとり上げる。黒森は鶴岡と酒田の中間に位置し、現在も小正月の行事として行われている黒森歌舞伎の始まりは、享保末年まで遡ると言われる。黒森芝居は集落の精神的支柱であるサイドウ連中が、サイド祭の余興として毎年新しい狂言を上演するもので、集落全体の神事としての性格を保持している。本来、興行性の強い歌舞伎という芸能が、黒森にどのように定着し実施されてきたのかを明らかにすることで、集落にとっての芝居の存在、「法楽」というメカニズムの意味について明らかにする。

そして終章では、以上の考察過程を経て、庄内藩における芸能の制度的扱いについて検証するとともに、近世社会における芸能の存在意義について論証する。庄内藩では、元禄以降、現実に対処するかたちで芸能上演の慣行が形成されていった感はあるが、「興行」(町奉行所管轄)と「法楽」(寺社奉行所管轄)という二通りの回路を制度的にも用意して、芸能を政治的に位置づけようとした。一方、人びとも、芸能を上演する目的は異なっても、様々な状況下で自分たちと芸能との関係を確保しようと、「興行」と「法楽」を巧みに利用していたのである。