社会を「閉じる」力・「開く」力―ベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』における社会論―

伊東 俊彦

「社会を「閉じる」力・「開く」力――ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』における社会論――」と題された本論文は、ベルクソンの最後の主著である『道徳と宗教の二源泉』(以下『二源泉』と略記)の社会論を、彼と同時代の社会論、特にデュルケームらフランス社会学派の思想との比較を通じて明らかにする試みである。

ベルクソンの『二源泉』における社会論は、ギュルヴィッチやラフランスの業績などがあるものの相対的に研究が進んでおらず、また近年ではケックらによってデュルケームやレヴィ=ブリュールらベルクソンの同時代の社会学との比較研究が積み重ねられてはいるものの、そうした研究はいまだ端緒についたばかりであるのが現状である。

そうした中本論文は、『二源泉』の枢要をなす概念である「閉じた社会」「開いた社会」という概念に注目し、それらの概念がデュルケームらフランス社会学派の思想との比較を通じてその意味が理解されることを示し、もって『二源泉』の社会論の意味を明らかにした。

まず、第一章「『二源泉』における社会的力の主題化とその意味」では、ベルクソンが、私たちが社会に存在しているとき、私たちを固有に社会的な仕方で行為をさせるような力が働いている事に注目し、その力の源泉を探るという側面から社会を捉えようとしたこと、そしてそのことはデュルケームの社会学の枠組みとその問題関心を同じくするものであることを明らかにした。

第一節では、ベルクソンが、私たちに社会的に行為するよう促す社会的力の説明として、生物の有機体の各組織が互いに異なる役割を果たしながらも相互に従属し合って一つの有機体を作っているように、社会を構成する各人が自由意志を持っていながらも相互に関係し合い社会という有機体を形作っており、そうして形成された社会こそが個人に対し社会的に行為をするよう力を及ぼしていると説明していることを確認した。また同時にそうした社会そのものが個人に力を及ぼすという枠組みがデュルケームの社会学の枠組みとその枠組みを共有しているものであることを示した。

そして続く二つの節は、デュルケームの議論とその枠組みを共有するベルクソンの「社会有機体論」がいかなる賭け金を抱えた議論であるのかを、スペンサー、エスピナス、タルド、デュルケームといった当時の社会論の議論の比較を通じて明らかにする。

第二節では、経済的な分業の進展が人々の相互の紐帯を作り出すというスペンサーの「社会有機体論」に対し、人々の間の経済的な関係は、そうした関係を築いている人々に必ずしも一つの社会に属しているという帰属意識をもたらすものではないという指摘がタルドやデュルケームらフランスの社会論において共通になされていることを確認し、ベルクソンもそれを受け継いでいることを確認した。

次いで第三節では、有機体に比される社会にネーションのような実体を与えることによって社会という有機体を描き出そうとするエスピナスの議論との比較を通じて、デュルケームはそうした集合的な実体に人々が飲み込まれて成立する社会ではなく、あくまで個人が自由なイニシアティブを保ちながら、そうであるがゆえに一層社会に巻き込まれている「有機的連帯」としての社会を問題にしていることを明らかにした。そして、そうした「有機的連帯」としての社会において人々を社会的に行為させる力を、デュルケームは社会と相互に規定しあっている道徳の力に見定め、社会の成員が社会に生き、集団と連帯することそのものに「望ましさ」を見たことを確認した。その上で、「道徳的責務」という側面から社会的力を語るベルクソンも、道徳としての社会的力というデュルケームの発想を受け継いでいること、しかしながら社会的に行為することがそれ自体として「望ましさ」を形作るというデュルケームの議論に反対し、人々がそうした力に促されて成立している社会を「閉じた社会」と表現したことを確認した。

続く第二章「「静的宗教」と社会を「閉じる」力」は、第一章で確認した私たちの行為を規定する固有に社会的な要因としての社会的力がなぜ私たちに力として働くのか、その結構を探ることを通じて、そうした力に促されて営まれている社会的生をベルクソンがどのように評価しているのかを明らかにする。

まず第一節では、デュルケームが、人々が社会的力に促され社会的に行為するという事態は、それを構成する個々の成員を超えた唯一の実在である社会が、個人に対するその「超越性」ゆえにそれを構成する成員にとって「望ましさ」の源泉となって力を及ぼすことによると説明していることを確認した。その上で、そうしたデュルケームの議論に対し、ベルクソンは、個人を超越するものとしての社会の実在なるものをデュルケームは結局示しえていない点を指摘することを通じて、社会そのものが持つとされる「望ましさ」というデュルケームの発想の土台を掘り崩すことを見た。

続く第二節では、翻って、ベルクソン自身による社会的行為の説明を辿る。そこでベルクソンが提出するのは「仮構fabulation」という概念である。本論文では、この特異な概念が精神医学において「作話」を意味する語として使われていることを確認し、ベルクソン自身参照しているピエール・ジャネにおける用法との比較を通じてその意味を明らかにした。ジャネは、彼が「宗教的譫妄」と呼ぶ患者の症状を説明するために「作話」の語を用いる。そこでジャネは、苦しい生活状況にある患者が、空想的な話を無意識的に「作話」しそれを信じ込むことによって安寧を得ることがあることを指摘している。ベルクソンは、このような空想的な「作話」のもつ安寧を与える効果を、人々が社会に通用している宗教的信念を信じることによって得る安寧へと繋げていくのである。

次いで第三節では、第二節の成果に基づき社会に通用する信念が「仮構」されることによって人々に与えられる安寧を、「呪術」という具体的な場面に定位し明らかにした。雨乞いをすることによって雨を降らせるといった「不合理」な「呪術」的実践はなぜ行われるのか。本論文は、フレイザーやユベール、モースらの呪術論と比較しつつ、「呪術」は実効的な効果を目指して行われるというよりも、そうした「呪術」的信念を「仮構」することによって予測不可能なことに囲まれながら生活せざるをえない生にある種の安寧を与えるものとして理解できるとベルクソンが考えていることを明らかにした。しかしながら、社会的信念を人々に信じさせる力をこのような「仮構」の働きに位置づけることで、ベルクソンは同時に、「仮構」がもたらす安寧が人々を「静的」で「閉じた」社会へと導くものであるとも考えていることを確認した。

最後に第三章「社会を「開く」力」は、第一章、第二章までの「閉じた社会」についてのベルクソンの分析を踏まえ、それと対比される形でその意味を充填される「開いた社会」の分析に向かう。

まず第一節では、ベルクソンの「開いた社会」という概念を、改めて「閉じた社会」と対比させその意味を確認した。ベルクソンは「閉じた社会」という言葉で、決して人々が伝統や因習に否応なく従っている社会を考えているわけではない。個々人が自由なイニシアティブに従って生きていくことができる「文明社会」においても社会の成員は互いに連帯しあって社会を形成すべく促されている。しかし、そうした社会的連帯そのものにベルクソンは「閉じた社会」という言葉を与えるのである。では、そのように社会が社会である限りでその社会が「閉じた社会」であるとするならば、それと対比される「開いた社会」はいかなる意味を持っているのだろうか。ベルクソンは、それを「人類」というイデーに導かれた社会であり、かつ社会の中の例外者たる道徳的英雄、とりわけ神秘家の「呼びかけ」に導かれた社会であると述べる。続く二つの節は、その意味をさらに詳細に分析することに充てられる。

第二節では、まず『二源泉』の前著『創造的進化』に遡り、「人類」というイデーの意味を、ベルクソンが、様々な生物種の中で唯一人類だけが習慣のもたらすルーティンから自らを解放することが出来ることに見て取れる人類の「創造性」に求めていることを確認した。その上で、そうした「創造性」のベルクソンの社会論における意味を、ジョルジュ・ソレルの思想を参照項とすることによって明らかにした。すなわち、社会を組織しそこに秩序を導きいれることを目指すため、私たちの生に「望ましさ」が与えられるのは社会と連帯的であることに存することを示そうとするフランス社会学派の関心に対し、そのように社会に秩序をもたらそうとする力そのものが、既存の社会秩序を強制しそれを維持する運動に繋がっているとして、そうした強制に「暴力」を対置したソレルと同様、ベルクソンは、社会を「閉じる」力に「開く」力を対置することによって、既存の社会秩序とは異なる新たな社会の構想を「創造」することの可能性を社会の中に確保しようとしたのであり、それこそが社会を「開く」力を述べることの固有の意義なのである。

そして第三節では、最後に、そうした社会を「開く」力がベルクソンにおいて、キリスト教神秘家に代表される社会の中の例外者たる個人によってもたらされると考えられた所以を明らかにした。社会とそれを構成する成員が互いに支えあいながら当の社会の存続を目指すとき、社会の成員は当の社会に生来的な愛着の情を持つが、そうした既存の社会の維持へと働く愛着を離れ社会を「開く」ためには、現に所属している集団を超えた「愛」が抱かれなければならない。そこで、ベルクソンは、自らの経験の真正さに不安を感じながらも、社会に自らの信念の正当性の支えを求めるのではなく、あくまで個人の感情において経験された経験に促されて行為する人物という形象をキリスト教の神秘家において見出す。そして、そのような例外的な人物である神秘家が、未だ到来せざるものに対して抱く「愛」に既存の社会の秩序を「開く」可能性が発現する場を見たのである。

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