訳すのは「私」 ウラジーミル・ナボコフにおける自作翻訳の諸相

秋草 俊一郎

バイリンガル作家ウラジーミル・ナボコフ(1899-1977)はロシア語と英語の二言語を用いて創作をおこなっただけでなく、自分のロシア語創作を英語に、英語の創作をロシア語に翻訳した。この“self-translation”(本論文では「自作翻訳」という訳語をあてた)が、ナボコフの創作活動を特徴づけているのはまちがいないが、それについては30年以上前にグレイソンのモノグラフが一冊あるだけで、以降あまりまとまった研究がされてこなかった。本論文では、サミュエル・ベケットやミラン・クンデラ、多和田葉子などもおこなったこのすぐれて現代的な現象である自作翻訳を用いて、以下の二点を考察することを目的としている。1、自作翻訳を通じて、ナボコフの作品について、あるいはナボコフという作家について理解を深めること。2、ナボコフにおける「自作翻訳」とはなにかを、緻密な比較対照によって検証すること。
序章、イントロダクションでは、ナボコフの自作翻訳がいかにおこなわれたのかについての基本的な情報、およびその特徴が整理され、グレイソンのモノグラフNabokovTranslatedをはじめ先行研究について長所と短所が検討される。その上で博士論文全体を貫く方針として、ナボコフの作品のロシア語版と英語版、どちらかがすぐれていると決めつけるのではく、両版を精緻に読み解き、それぞれの価値をそれぞれの文脈に求めること、原作と自作翻訳の比較をつうじて、ナボコフの作品の読みを深めることが確認される。
第一章「ナボコフの『自然な熟語』:『一流』のロシア語から『二流』の英語へ」では、熟語や慣用句の翻訳の問題を手がかりに、いくつかの作品において原作と自作翻訳を綿密に比較することでナボコフのロシア語文体について探求する。それにより、そのロシア語が一般に想像されているよりも、繊細な構造を持ち、それゆえ英語版との間に文体的な差異が必然的に生じてしまうことを論証した。また自作翻訳によって生じた英語版は、オリジナルのロシア語版にくらべて構造がわかりやすく、他言語に翻訳しやすいことを示した。
第二章「Before/Afterホロコースト:『報せ』における二度の『翻訳』」は、ロシア語時代の短編「報せ」を題材に自作翻訳の際に登場人物の一部に追加された姓に着目することで、翻訳におけるコンテクストの問題について考察した。そして姓の追加を手がかりに、英語作品「暗号と象徴」との比較も交え、作品が発表された当時の文化的・歴史的なコンテクストの問題を考察している。またこの章では、ナボコフ作品における時系列での特殊な影響関係について触れた。ナボコフの作品ではロシア語版が後の英語作品に影響を与え、それがさらにロシア語作品の英語版に影響を与えるといったことが起こりうる。ほかにも自作翻訳には「誤訳」が存在するのか、という問題にも言及した。
第三章「消えうせた杖と組みかえられたトリック:『重ねた唇』を解く」は、自作翻訳を利用して、作品に隠されている「トリック」をタイトルの通り「解いた」章である。ロシア語版と英語版のわずかな異同から、まず英語版に隠されたトリックがあぶり出され、それが「なぜ変更されなければならなかったのか?」と考えることでロシア語版にロシア語文法に即したトリックが巧妙にしくまれていたことが判明する。自作翻訳を用いることでトリック=作品の読解に役だつことはもちろん、それぞれの版がおたがいにたいして解釈の強力な証明として機能するわけである。これに加えて作品論の方面からは、ナボコフにとって文学的な名声や名誉とはなにか、およびナボコフが作品にトリックをしかけた理由について考察している。
第四章「謎解き『ディフェンス』:モラルをめぐるゲーム」は長編『ルージンのディフェンス』とその英訳『ディフェンス』をめぐる作品論である。この小説には英語版においてひとりだけ名前を変更された人物がいるが(そしてそのことに先行研究では誰も触れていないが)、それがなぜかはこの小説全体を丁寧に再読しなければわからないしくみになっている。このほかに本章ではナボコフ作品におけるモラルの問題を扱っている。そのことで、この初期のロシア語作品と後期の英語作品『ロリータ』との関係性も見え、ナボコフの作品を広い視野で読むことの重要性が示される。
第五章、「リンガフランカ・オブ・『ロリータ』:ヘテログロッシア空間としてのアメリカ」は、英語版とロシア語版に共通して使われているはずのフランス語の扱いが両版において異なっているのはなぜか?という問題を通じて『ロリータ』の言語の問題にアプローチしていること、すなわち自作翻訳を理解するためには作品の精読が不可欠であることを示した。また、ほかの章で扱われる自作翻訳がロシア語→英語というベクトルなのにたいし、『ロリータ』はナボコフの小説では唯一英語→ロシア語というベクトルの自作翻訳であり、その特異性から見ても博士論文でとりあげる意義があると思う。作品論の方面からは、前章に引き続いてモラルの問題を扱っているが、『ロリータ』の場合、それをかき消すように主人公ハンバートの残酷さが常に前景に配置されている点で異なっている。また『ロリータ』は「アメリカ」や「英語」が大きなテーマであることはよく指摘されるが、それがロシア語版と比較されることでより具体的に理解される。
第六章「Racemosaなしに:樹影譚としての翻訳論」はロシア人にはなじみの深い樹木であるエゾノウワズミザクラを、この植物にまったくなじみない英語圏で英訳する上でナボコフがとった特異ともいえるアプローチを彼自身の作品の中に追った章である。この章では、自作翻訳のみならずナボコフの「他作翻訳」の中でもっとも重要な『エヴゲーニイ・オネーギン』翻訳と注釈を中心に扱っているという意味では、本博士論文の中でも毛色がやや異なる。ナボコフの初期のロシア語詩から、ロシア語の短編及び長編、それらの自作翻訳による英語版、自伝の三つのヴァリアント、『プニン』や『アーダ』といった英語作品までを俎上にのせ、ナボコフの残したもっとも巨大な「作品」である『エヴゲーニイ・オネーギン』翻訳と注釈を中心にして、創作―自作翻訳―他作翻訳というダイナミズムの中でナボコフの作品像を再構成した。ナボコフにとって「いかに訳すか」は「いかに書くか」に直結する重要な問題だったことが示される。
終章、「訳すのは『私』」では、上記の章で得た考察をまとめ、それらの知見をえた上でこれからどのような方向に研究を発展させていくべきかについて簡潔に述べた。
補章、「ナボコフの『不自然な熟語』:『外化』から『異化』へ」では、第一章で扱ったロシア語作品における熟語の特殊な使用法における議論をもとに、英語作品における熟語の使用法ははたしてどうなのか、という問題を探求している。ナボコフの場合、英語作品を分析する上でもロシア語の知識は重要になってくる。この章では一部に、第六章でアウトラインを示した『エヴゲーニイ・オネーギン』翻訳と注釈を英語作品の解読に用いるという方法を使用している。またナボコフの英語作品におけるひとつの文体的な傾向を、翻訳論の文脈で使われている「外化“foreignization”」というタームを用いて説明している。
資料編では、本博士論文を理解するために有益と思われるいくつかの資料を付した。資料1として、ロシア語版の自伝である『向こう岸』のまえがきを。資料2として「ロシア語版『ロリータ』へのあとがき」を。資料3としてナボコフが独特な翻訳論を展開したエッセイ「翻訳をめぐる問題(プロブレム):『オネーギン』を英語に」を。どれも本邦初訳であり、読者の便にかなうと信じている。資料4としてナボコフの自作翻訳一覧を。資料5としてナボコフの他作翻訳一覧を。資料6として本博士論文に収められた各章それぞれが発表された際に作成された英文レジュメを。資料7としてナボコフの創作・自作翻訳・他作翻訳の発表年代が一目でわかるように工夫した簡易年表を。資料8として書誌一覧を、それぞれ添付した。

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