遼代仏教については、華厳を中心としつつ、法相・密教・浄土・禅・律・『釈摩訶衍論』(『釈論』と略称)など幅広く行われていたことが知られているが、大半の資料は散逸してしまい、その全貌を知ることは難しい。ただ、華厳・密教・『釈論』関係の文献については、完本の現存するものが多く、ある程度の分析が可能である。
これらの文献が成立した十一世紀後半は遼代仏教の最盛期にあたり、華厳教学が活発化した時代でもある。皇帝が『華厳経』を家臣に講義する一方で、唐代の澄観教学に対する研究も本格的に開始され、さらに華厳教学の他の領域における応用化も進められた。たとえば華厳は密教に大きな影響を及ぼし、華厳と調和した遼代特有の密教を生み出すと同時に、『釈論』の解釈にも華厳は積極的に活用され、『釈論』研究に関しては唐代を凌駕するほどの水準にまで達したのである。
本研究では、華厳・密教・『釈論』の三分野における現存文献の思想内容を分析するとともに、この三分野と関係の深い皇帝道宗の仏教理解の分析も行い、最盛期の遼代仏教の思想的特色の一端を探ることにする。

本論文は、九章より構成される。
第一章の「遼代の仏教文化」では、遼に浸透した仏教文化について、従来の研究成果を踏まえながら、四つの視座から検討する。
第一節では、『遼史』の記述を手がかりにして、契丹人皇帝の仏教信仰の様相を究明する。第二節では、遼における最大の文化事業ともいえる、契丹大蔵経の刊行と房山石経の続刻について、従来の研究を踏まえながら検討する。第三節では、遼代の仏教著作について、『義天録』を中心資料として考察する。遼代の文献の大半は散逸してしまったが、『義天録』には多数の書名が記載されており、本書は遼代仏教研究にとって、必須の資料である。また、『義天録』に収録されていない文献についても検討する。第四節では、庶民の仏教信仰の組織的基盤となった邑会について、碑文資料をもちいて考察する。
第二章の「道宗の仏教理解」では、仏教事績、仏教著作、『釈論』に対する関心の三つの観点から、第八代皇帝道宗(1055-1101位)の仏教理解の水準の高さを明らかにする。道宗は華厳教学に対する造詣が深く、戒律にも熱心で、学僧に命じて仏典研究を奨励した。漢人僧侶たちに劣らないほどの高度な仏教理解を示した数少ない契丹人として、道宗の存在は特筆に値する。なお、道宗と仏教の関わりについて、集中的に論じるのは、本稿が最初の試みである。
第三章の「遼代の華厳教学」では、十一世紀の遼で本格的に開始された澄観研究について考察する。
唐代の澄観の『演義鈔』に対する最古の注釈書としては、遼の鮮演の『決択』が現存している。遼代には、『決択』以外にも道弼の『集玄記』や思積の『玄鏡記』が著されるなど、『演義鈔』が重んじられた。これらの典籍は、高麗に伝わり、義天が開版した高麗続蔵中に収録され、さらに宋元・日本へと伝来し、各国の華厳学に大きく貢献した。
まず、『決択』に関しては、鮮演の伝記、テキストの成立、日本流伝、序文の内容について検討する。『玄鏡記』については、應縣木塔から発見された第一葉表と第七葉表裏の三面のみの断簡をとりあげ、引用面における特徴を示す。『集玄記』については、『演義鈔』の版本問題とも関係している点で注目に値する『会解記』巻九所引の一節をとりあげる。また、應縣木塔より発見された『演義鈔』講義録の写本についても言及する。
第四章の「『決択』巻一の諸問題」では、日本の金沢文庫に現存する『決択』巻一の諸問題を検討する。
第一節においては、「大方広仏華厳経」という七文字で構成される経名を鮮演がどのように解釈しているかを考察する。鮮演の経名解釈として、依文略釈と束義重明の二つを取り上げるが、先行研究よりも詳しく論述する。
第二節においては、『華厳経疏』の冒頭にある澄観の法界句に対する鮮演の注釈を検討する。鮮演の注釈として、対教料揀・随文弁釈・十義釈の三つを考察するが、先行研究よりも詳しく論述する。
第三節においては、先行研究により鮮演の華厳教学の基本的立場であると指摘される真理妄事非一非異の概念を取り上げる。鮮演がこの概念を『華厳経疏』のどの部分を典拠にしたものであるのかを検討し、さらに唐代の華厳思想とどのように関わるのかについても述べる。
第五章の「鮮演の用いる比喩について」では、従来の研究で見落とされていた鮮演の文体に及ぼした宗密の影響を明らかにする。
『決択』の特色のひとつに比喩の多用がある。たとえば、教理に関する議論において何らかの矛盾や問題点が発生する場合、あるいは異なる概念を分別する場合に、鮮演は「以喩対法」として比喩と法を対応させながら論証をすすめていくことが多いのである。
本章では、まず鮮演の比喩の多用の背景には宗密からの影響があるのではないかという仮説をたて、『決択』の様々な箇所で鮮演の用いる比喩を具体的に分析し、宗密の「法喩一一相照」の叙述法が鮮演の「以喩対法」の手法に継承されていることを提示する。
第六章の「華厳の成仏論」では、唐代から遼代にかけての華厳文献を分析し、華厳の成仏論の展開を考察する。
華厳の成仏論には諸類型を認めることができるが、筆者のみるところによれば、『華厳経』の登場人物にもとづくものと、『華厳経』の教説にもとづくものとに、大別できる。本章では、唐代から遼代の文献を中心に、上述の二種の観点から華厳の成仏論を検討する。
登場人物にもとづく成仏論としては、華厳文献における善財と龍女の成仏の位置づけの問題をとりあげる。この問題は唐代のみに限定されるが、従来の研究によってはまだ整理されていないものである。
教説にもとづく成仏論としては、賢首品に由来する信満成仏と梵行品に由来する初心成仏をとりあげる。信満成仏については、信満成仏にまつわるある一つの問題の解決が唐代から遼代にかけてどのようになされたのかを明らかにする。初心成仏については、唐代の梵行品の注釈を概観してから、遼代の鮮演の初心成仏論を考察する。
第七章の「天台性悪説の華厳的変容」では、如来にも本性としての悪が存するという内容で有名な天台教学の性悪説の変容について、思想史的観点より究明する。
天台性悪説に関する研究はすでにいくつか存在しており、その源流についても明らかにされているが、後代における天台性悪説の変容の特徴を正面から考察した研究は少ない。そこで後代の文献を調べて見ると、ある種の特徴が浮かび上がる。
筆者が思うに、天台性悪説の変容には華厳思想が大きく関与しており、二種の変容の仕方が存在する。
この変容には、華厳思想に性悪説が導入されて変容する場合と、性悪説に華厳思想が導入されて変容する場合の二種のパターンが存在する。前者は遼代の『決択』において、後者は明代の『性善悪論』において観察される。本章では『決択』と『性善悪論』の二つの文献を検討し、まだ論じられていない天台性悪説の変容を明らかにする。
第八章の「遼代密教の特色」では、十一世紀後半の遼において復興した密教に焦点を絞って考察する。遼代密教の特色は、華厳と調和した密教を打ち出したこと、陀羅尼信仰が盛んであったことの二点に集約される。前者については、華厳の教判を活用して顕密の教判を確立し、顕密双修を強調したのが大きな特徴である。後者については、准提真言の重視と、死者供養における尊勝陀羅尼の利用が、大きな特徴である。
第一節では、遼代の密教文献中における顕密概念の特質を明らかにする。第二節では、起教因縁・経名解釈・教判・宗趣・成仏論の五つの観点から、覚苑の『大日経』理解の特色を探る。第三節では、『心要集』で展開される准提真言の特性について、理論的側面と実践的側面に分けて考察する。第四節では、陀羅尼と死者供養の問題を扱うが、石刻資料を検討して、尊勝陀羅尼信仰が死者供養を通じて遼代社会に広まったことを示す。また、『心要集』における陀羅尼をもちいた死者供養に関する記述も検討する。
第九章の「『釈摩訶衍論』研究の隆盛」では、十一世紀後半の遼で盛行した『釈論』研究について考察する。
本章は四節からなるが、第一節では、唐代における『釈論』の注釈について検討する。『釈摩訶衍論記』において展開される聖法独自の教説を明らかにし、遼代に与えた影響についても言及する。
第二節の目的は、『賛玄疏』と『通玄鈔』の三十三法門解釈の特色を明らかにすることにある。『賛玄疏』と『通玄鈔』が華厳の澄観から大きな影響を受けていることは先学の指摘するところであるが、『釈論』の個々の教理に対する注釈の内容についてはまだ十分に検討されていない。特に三十三法門は『釈論』の最重要思想に位置付けられるが、この思想に関する法悟及び志福による解釈の特徴を具体的に明らかにしたうえで、さらに両者の比較を行い、『賛玄疏』と『通玄鈔』の前後関係についても論じる。
第三節では、近年中国において発見された『通賛疏』の内容を検討する。『通賛疏』は巻一から巻九を欠くため、立義分の三十三法門解釈の特徴を探ることはできないが、三十三法門とも関連する『釈論』巻十の円円海の摂不摂問題に対する守臻の注を検討することは可能であり、さらにこの問題に関しては法悟や志福との比較検討も可能となる
第四節では、『決択』における『釈論』の援用について論述する。『釈論』を引用する中国仏教の典籍を紹介する場合、『決択』があげられることはまずないが、本節では鮮演が『釈論』をよく利用している事実を具体的用例をとおして明らかにする。

歴史学や考古学によって先導された遼代仏教研究に、現存文献の思想的特徴を解明する研究が加われば、より総体的な遼代仏教の把握が可能となる。遼代の仏教思想研究の意義は、仏教史を中心に進められてきた従来の研究を補完する点にある。