本論文は明治維新の政治社会変革について、儒教的理想主義の視角から再検討を加えたものである。扱う時期は維新期(1868~1871)の藩政改革から明治十四年政変による国会開設の宣告(1881)までの、明治初年である。儒教的理想主義に着目することは、明治維新の革命を推進した人々の思考のあり方を理解し、そこから維新変革の理想主義的側面を見ていくことで、従来政治社会構造にひきつけがちであった維新史の説明を見直すことが可能になると思うからである。
論文は五章から構成される。第一章では、維新期における大名統治秩序の変容を取り上げる。徳川時代の支配体制は戦国の割拠状況が凍結されて出来たため、徳川公儀も各大名家もその割拠のなかで家政を運営してきたが、儒教的な理想主義の視点からすれば、それは一種の「私営の政」とも考えられるものであった。「私営」とは、統治者の責務である民政が大名家経営の従属物となっており、割拠による弊害が民政に皺寄せされていたことである。徳川家倒壊後、維新政府が進めた中央集権化は、諸藩の藩政を大名家経営から分離し、天皇の地方官・地方行政機構として再編制していくものであった。この変革は維新政府だけでなく、諸藩における革命推進者たちの側からも、家中の反対派を抑えて推進された。それは旧秩序を固定してきた階級や格式を破壊して人材登用の通路を開き、公的な統治機構としての「藩」と、公的な官僚としての「士」を、天皇政府のもとに創造しようとする運動であったと言える。第一章では、これを熊本藩の事例から検討している。
熊本藩は、幕末維新期において佐幕派として活動し、明治二年には攘夷派の巣窟を抱える藩として政治的に危うい立場にあったが、明治三年、実学党を起用して維新官僚と連携しながら急進的な藩政改革を実施し、維新革命の推進者に回った。実学党は横井小楠や元田永孚らによって始められた儒教的な理想主義を抱く学党であり、大名家の「私営の政」を否定して、天に基礎づけられて民を治める天皇の官僚機構として「藩」を位置づける改革を推進していった。
また維新期の変革ではそれまでの非合理な慣習が「弊習」として破壊の対象となった。これはもちろん国家的危機の時代にあって変革することが必至であったためであるが、そこには儒学によって鍛錬された合理主義的思考が働いていたと考えられる。維新期に秩序が流動化するなかで、門閥打破・人才登用を基軸に大名統治秩序の改革がなされると、改革の連鎖が格式・階級を破壊していった。それらは場当たり的に行なわれた改革も多かったが、公的な統治機構として「藩」を形成し、人民を統治する能力のある者を「士」として再生するという方向性をもった変革であった。第一章ではこうした視点に留意しながら、具体的にどう大名統治秩序が変容していったかを論じている。
第二章では、このようにして維新期に「藩」が形成していくなか、旧民政の否定が進められたことを、儒教的な理想主義を抱く熊本実学党の運動から論じていく。熊本藩では明治三年六月から実学党による藩政改革が始まり、大規模な雑税解放と藩をあげての貧民救恤キャンペーンを実施した。それは天皇の新政権のもとに儒教的な「王政」の実現を行なおうとした「維新」の運動であり、為政者に自らを反省する態度を要求するとともに民の道徳的向上を目指したものと考えられる。この改革は実学党政権とは別の農村知識人からも朱子学的な「維新」の運動として解釈され、また廃藩置県後の「自由」という問題を生み出した変革であったと考えられる。
ついで、熊本藩のラディカルな「維新」の運動が唐津藩に輸出され、唐津藩でも同様の改革が行われるに至る過程を明らかにし、また胆沢県・堺県などの直轄県でも類似の現象が生じたことについて論じた。熊本実学党の運動は雑税解放に見られるように過激であり、他の運動よりも突出していると考えられるが、維新期における民政の転換はこのような儒教的理想主義者たちの運動を一つの牽引とし、廃藩置県とその後の自由の風潮によって惹き起こされたものと考えられる。
第三章では、維新期における旧民政の否定が、それまでの民政機構であった大庄屋制度や庄屋制度を廃止・改編する傾向にあったことを明らかにし、これを推進した儒教的理想主義を抱く官僚が、廃藩置県後の民政秩序の動揺をうけて新しい秩序形成を模索し、議事制度を組み込んだ郷村編制から公選民会論を唱えるに至る過程を論じた。
維新期の民政改革が民政の方向を転換させたことは、新しい政治社会の形成を導く端緒となった。民政を重視する維新革命の風潮は、それまで民間に委託してきた民政に対し、藩・直轄県の公権力が介入するという変革をもたらした。具体的には郷村役人の公選制採用や、中間支配機構である大庄屋制度の廃止または改正と、藩吏員による民政の直営化などである。しかし、廃藩置県によって領主制が突然解体され、旧民政の外枠が破壊されると、自主自由の風潮とともに人々の自由が急速に拡大するという現象が起こったようである。維新期に儒教的理想主義から旧民政のあり方を変革した革命推進者である木下助之は、廃藩置県後の自由状況と農民騒擾に対処して、議事制度を組み込んだ郷村編制を構想していった。また当初は下層民を選挙権者から除外していたが、相次ぐ新政反対一揆をうけて、人民の成長にあわせて権利を与えていくことを課題とするようになった。
第四章は、右のような立憲政体論と儒教的理想主義との親和的な関係の一方で、両者の差異が生み出した変化について、明治天皇の侍読であった元田永孚の活動を取り上げ論じた。留守政府期(1871~1873)に明治政府内で進められた立憲政体導入の模索は、公議輿論を実現し国民的な国家の保持を実現させ、かつ地方経営問題などを解決するものとして期待されており、その「公」なる政治への開化の志向から、立憲政体論と儒教的理想主義はここに同床していた。しかし明治七年の民選議院設立建白書に端を発する民選議院論争によって人民の政治参加が立憲政体導入の正面課題にすえられると、君主の国体との兼ね合い、また多数者の「衆議」が政治的正しさと抵触するおそれなどが問題となった。天皇の側近であった元田永孚はこれをうけて、天皇を最終的な裁定者とする議会制度を構想し、そのための天皇の君徳輔導と輔弼体制の整備を開始した。幕末以来公議輿論の拡大を担ってきた儒教的理想主義のなかから、立憲政体の人民参政論と向き合うことで、君主主義的な立憲政体論が構想されていったのである。
第五章では、儒教的な「開化」論が立憲政体の導入を積極的に主張しながらも、保守的立場に転じていく展開も生じたことを明らかにした。明治天皇の侍読であった元田永孚の「自主自由」論を検討することで、これを論じている。
元田永孚については、これまで教育勅語の起草に関わった儒学者として、また明治天皇の教育者として、天皇親政運動の推進者として、研究が重ねられてきた。そのイメージは「宮中保守派」の代表者とでも言うべきものである。思想面の研究でも、幕末における公議輿論運動の立役者である横井小楠を師と仰ぎながらも、自由民権運動を否定する側に回った天皇主義者という印象が拭えていない。しかし、明治初年の元田は積極的に「自主自由」の政治を論じ、立憲政体の導入を主張していたのである。それがなぜ、保守主義を代表する立場へと追いやられたのか。
横井小楠と元田永孚はともに修己治人の一致した宋学を基本にその学問を展開した人物であり、その公議輿論を重視する思想も、「自主自由」の主張も、道徳的自己陶冶の延長上にあるものだった。したがって、修己の側面を欠いて政治参加の拡大が語られることはなく、「圧制」を抑止する権力論が主張されることもないという構造を、元田の立憲政体論は有していたと考えられる。第五章ではこうした元田の立憲政体論を掘り下げていくことで、明治初年における「自主自由」について、また自由民権運動の位置について、儒教的な理念の側面から再考を加えている。