ジョン・ロックの所有権論の研究

今村 健一郎

ロックは所有権の発生を労働によって説明し、それと共に、所有権を労働によって正当化している。このことから、彼の所有権論は、しばしば「労働所有権論」と称される。この所有権論は、労働の成果はその労働を行った者に帰属すべきであるというわれわれの自然な直観に適っている。しかし、ロックの所有権論の意義は、そのような直観的な受け入れやすさに存するのではなく、所有権は労働によって獲得され、保持されねばならないという教訓をわれわれに与えてくれるという点にこそ存する。ロックにおいて、所有権は、自然法のもと、自己保存の権利ならびに自己保存実現のために自然の産物を利用する権利を共通の権利として与えられている人びとが、元来は人類の共有物である有用で稀少な自然の産物を、自己保存のために、より有効に利用していこうとするなかで、求められ、生じてくる。しかし、自然法は、各人に、単に自己保存を図るだけでなく、それと共に、可能なかぎりの他者保存をも図るよう命じている。それゆえ、所有権を行使しつつ自己保存を図ろうとする者には、他者保存への配慮が、とりわけ、他者のもつ自己保存の権利に対する侵害を回避することが要求されることとなる。つまり、所有権を獲得し、それを行使する者には、資源の稀少性を前提に、自己保存と他者保存を二つながら実現する義務が課せられているのであり、所有権の意義は、この二つを共に実現していくという点にこそ存する。ロックにおいて、労働とは、この義務を果たしていくことに他ならず、各人はこの労働の義務を遂行しつつ所有権を獲得し、行使していかねばならない。これこそが、われわれがロック所有権論から汲むべき最も重要な教訓である。以下、章ごとに本論の要旨を述べる。
第1章は、予備的作業に充てられる。ロックの所有権論は、神は全人類に世界を共有物として与えた、という前提から出発する。議論の前提となるこの共有状態がいかなる状態かを巡っては、諸説あるが、本論は、通説に従い、それを、プフェンドルフの言う消極的共有状態と理解する。グロティウスやプフェンドルフは、人類は協約によって共有状態を脱し、私的所有へと移行したと説き、所有権の根拠を協約に置くのだが、ロックはこの協約説を拒否する。協約説は、自然法の探究を経由しない単なる人びとの同意に所有権を基づけているというのが、その理由であると本論は考える。
第2章では、ロックの所有権論に含まれると思われるいくつかの所有権正当化根拠を検討する。一般に、ロックの所有権正当化論は複数の根拠に訴えた複合的な議論であると解釈されている。本論の見るところ、それら複数の根拠のうち、ロックが最重視するのは「功績」である。労働は価値の創造であり、ロックは、その価値創造を功績根拠にして、労働を加えた者に所有権を帰することを正当化している。
第3章では、ロックが所有権に課す二つの制約、「十分性の制約」と「浪費の制約」を考察する。ロックは、自然状態において、各人は自らの意志に基づく自由な労働によって自然の一部を専有できると説く。しかし、その労働によって獲得可能な所有権の範囲は、「十分性の制約」によって、他者の生活水準の悪化をもたらさない範囲へと、そして、「浪費の制約」によって、各人が自己の生活の便宜のために利用できる限りのものへと制限される。
第4章では、ロックの貨幣論・市場論を扱う。ロックにおいて、貨幣は、有用だが腐敗しやすい生活必需品を、「浪費の制約」を遵守しながら有効に利用することを可能にし、さらには、人類の富の増大、延いては人類の繁栄をもたらすものとして導入され、貨幣の存在意義もまた、これらの点に存する。貨幣の導入によって、労働の成果を腐敗させることなく蓄積することが可能となり、これによって、人びとは、自分や自分の家族が直接に消費できる以上のものを労働によって生産するよう動機付けられる。また、貨幣を媒介とする市場経済は、社会的分業の発展を促し、それに伴って、社会全体の生産力の向上と富の増大が促される。さらに、貨幣が有する蓄積の機能は、生産過程と消費過程を分離せしめ、そうすることで貨幣所有者に消費する自由としない自由を、あるいは、好きなときに好きなものを消費する自由を与える。市場において、一部の市場参加者が、他の市場参加者に強要や抑圧を加えたり、あるいは、他の市場参加者の無知や窮状に付けこむようなことがないならば、言い換えるならば、自由な市場参加者から成る理想的な完全競争市場に近い状態に市場が保たれるならば、貨幣の使用は以上のような効用をもたらしてくれる。
しかし、現実の市場には、貨幣の独占を背景に、自らが設定した利子率を借り手に強要する銀行家や、買い手の無知や窮状に付けこむ売り手が存在し、それらが市場の存立と貨幣所有者の自由を脅かす。ロックは、政府による市場への介入に対しては、市場参加者の所有権に対する侵害を構成しうるという理由から、原則として反対の立場をとるのだが、貨幣の独占や取引当事者間の知識の非対称性を市場から除去し、以って、市場で弱い立場にある人びとの自由を確保すべく、政府が立法によって市場に介入することを例外的に許容する。
市場経済のもとでは、市場へと商品をもたらす売り手の私的労働が、自然法に適っており、それゆえに所有権の権原たりうる労働であるということの承認は、その商品を購買した買い手によって、事後的に与えられる。それゆえ、売り手の私的労働は常に「問いかけ」という形をとらざるをえない。ロックにおいては、市場経済下の労働にかぎらず、各人が自由に営む労働は、一般に、自らが所有権の権原たる労働であることの承認を求める「問いかけ」の形をとることになる。
第5章では、ロックの労働所有権論の核心部分である『統治論』第二論文第27節の解釈を行う。その解釈にあたっては、そこに登場する「personに対する所有権」という概念をどのように理解するかが鍵となる。森村や下川は、『統治論』におけるpersonは身体の謂いであり、「personに対する所有権」とは身体所有権であると理解する。その上で、第27節は、添付の原理を用いた所有権正当化論であると、すなわち、人間は身体所有権を外物に添付することによってその外物への所有権を獲得すると説いたものであると解釈する。
こうした解釈に対し、本論は、『統治論』でのpersonという語の使われ方を検討した上で、『統治論』におけるpersonとは、法を理解し、行為や労働の主体たりうる者、すなわち、「人格」の謂いであるとの見解を提示する。すると、ロックは第27節で、「人格に対する所有権」という概念を提示していることになる。では、ロックが自らの労働所有権論の核心部でこの概念を提示することの真意とは何か。労働所有権論のテーゼは「労働が所有権を確立する」というものである。であるならば、人格に対する所有権もまた労働によって確立することになるはずである。これこそが「人格に対する所有権」の含意するところであると本論は考える。
前章で述べたように、各人が自由に営む私的労働は、自らが所有権の権原たる労働であることの問いかけであり、その労働は、周囲の他者からの承認によって、所有権へと結実する。このようにして、ある者の労働の成果が、その者の所有物であるということが確立するとき、同時に、その者がその労働の成果の所有主体たる人格であるということが確立する。第27節は、この一連の過程を描き出したものであると本論は解釈する。
次に本論は、『統治論』におけるpersonと『エッセイ』におけるpersonとの関連性・連続性をさらに追い求めるべく、『エッセイ』の人格論へと向かう。ロックは『エッセイ』の人格論の中で、意識が人格および人格同一性をつくるという意識説を唱える。人格は、典型的には、行為や行為の功罪の帰属先を問う場面で求められ機能する概念である。人格は、そのような場面で、人びとの交流の中から立ち現われてくるのだが、そうした一連の過程を構成する人びとの行為には決定の契機が含まれている。この決定の契機を担うのが、意識に他ならない。この事情は、所有権の帰属先を問う場面にも共通する。たとえば、賃労働者が賃金と引き換えに譲渡する職業人としての人格を成立させているのは、当人や周囲の他者の意識であり、その意識はしばしば、「職業人としての自覚」と称される。こうした例によって、『エッセイ』の人格論で語られるpersonと『統治論』におけるpersonとの関連性・連続性が示唆される。
最終第6章では、本論がこれまで辿ったロックの所有権論を環境倫理へと応用することを試みる。経済学において、環境問題は外部不経済の問題として捉えられ、その解決策として、市場外部性の内部化が提案される。環境汚染物質の排出権取引はその一例である。しかし、本来的に内部化不可能なものが存在する以上、内部化による環境問題解決の試みには限界がある。何をどれだけ内部化すべきかという決定自体は市場によっては与えられない。ここで、何を内部化すべきか、すなわち、何に市場での取引が可能な所有権を設定すべきかを探究し、決定するという作業が求められてくる。この作業こそ、ロックに固有な意味での「労働」に他ならない。今日、この労働は政府に委ねられており、国際社会は複数の政府から成る自然状態の下にある。この自然状態には暴力と不公平性(国際紛争と南北問題)が伴っている。それゆえ、環境問題はこれら二つの問題と切り離して論じることはできない。このことがロックの政治哲学、そしてロックの所有権論から学びうることのひとつである。

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