日本中世禅思想研究 ― 聖一派を中心に

高柳 さつき

歴史学者の黒田俊雄が昭和50年(1975)に、鎌倉時代は顕密を中心とする旧仏教が中心で鎌倉新仏教は異端であったという顕密体制論を提示して以来、仏教思想研究者も顕密思想が主流であったとし、鎌倉新仏教という概念自体が意味をなさなくなった。黒田論から三十年以上たった今、それに変わる概念は構築されていない。
黒田論を踏まえて、禅宗を定着させた人物として注目され始めたのが、兼修禅(諸宗兼修)を行った禅僧の円爾(聖一国師)である。円爾の活動も栄西同様、従来は禅宗でありながら密教や他の教えも修する兼修禅から純粋禅への過渡期の形態として注目されてこなかったが、ここ数年の研究により、円爾とその兼修禅の流派の聖一派が鎌倉時代の禅宗発展の中心であったことがわかってきた。ただ、顕密体制論では栄西や円爾の禅宗は「顕密体制の改革派」と位置づけられたが、そう組み込んでしまってよいかは思想史の面からの論証の必要があると考えられる。
本論文では、全体を三章(第一章-鎌倉初期、第二章-鎌倉中期、第三章-鎌倉後期)に分け、第二章・第一節の円爾(聖一派)を軸とし、兼修禅としての禅宗がいかに浸透していったかを個別の僧侶とそのテキストを分析し、時系列に思想史の面から追っていった。
第一章・第一節では、覚阿と能忍を扱った。
覚阿は入宋して法を嗣いだものの隠遁してしまったため、その法は受け継がれることはなかったが、天台僧が宋代禅の法を嗣いだことが最澄の四宗相承以来の禅の伝統を呼び起こした。
12世紀後半になって、天台密教僧の大日房能忍が天台の中で伝わった禅籍や仏典等で学び無師独悟し、弟子二人を宋に遣わせて大慧宗杲の弟子である仏照徳光から印可を取った。だが、能忍の達磨宗はやがて戒律無視、造悪無碍に陥ったと言われ、建久5年(1194)には栄西の臨済宗と共に朝廷から禅宗停止を受けた。本節では達磨宗のテキストとされる『見性成仏論』と『成等正覚論』を分析し、『見性成仏論』が、永明延寿による『宗鏡録』の一心という語をキーワードとして、それに霊知、万法、本覚思想などを収斂させていこうとしていること、おそらく同じ起源をもつ浄土宗をライバル視していることを指摘した。『成等正覚論』では、達磨宗が達磨大師の所伝であること、自心即仏を悟ることの重要性、現世利益のために一心を理解する必要性があることを述べている。また近年、名古屋の真福寺(大須観音)で発見された達磨宗関連の断簡であるが、在家の女房に修行の重要性を訴える真摯な姿勢が窺え、修行無用とはほど遠い達磨宗の姿があり、今後の達磨宗研究が変わる可能性があることを指摘した。
第一章・第二節では、栄西と栄西の弟子の行勇に関係する人物として道範を扱った。
能忍と同じく天台密教僧の栄西は、入宋し虚菴懐敞から印可を受け、京都で禅宗を興そうとしたが、達磨宗と共に朝廷に停止されてしまった。そこで、『興禅護国論』(1198年)を著し、自分が護国の為に天台宗の伝統である四宗相承のひとつである禅宗を興そうという意思を述べ、また『宗鏡録』の一心=戒律=護国と設定し直し、禅戒律を整え、達磨宗を破そうとした。また、栄西は天台密教僧として幕府と密接な関係をもつほかに、東大寺の勧進僧として活躍するなど天台復興の域を越える活動も行った。
栄西の弟子として行勇と栄朝がいるが、その思想動向を探るテキストがないため、行勇に密教を教えた高野山の道範の『初心頓覚鈔』をみた。そこでは、真言密教側から一心ということばが一心戒や空海の仏典を引用しながら万法としての一心という意味で使われ、禅との関連性は述べていないものの達磨宗で使われていた一心と類似するように思われた。また道範は禅を他の教えと共に密教の一部と考えていたふしがある。
第二章・第一節では、栄西の孫弟子にあたり、京都に東福寺を開創し禅宗を定着させた円爾の『十宗要道記』を分析した。円爾はあらゆる法は平等としながら『宗鏡録』の一心を中心にして禅を頂点とする教判をつくり(つまりこれは道範が密教を中心としたのを禅に置き換えたようにも見える)、そこに霊知、識、本覚思想、密教などを収斂させていき、他の教えを禅にまとめ上げるような体系で禅を浸透させていった。これは能忍が誤った方向に進んでしまった一心を中心とする思想体系の修正でもあり、(おそらく)道範の一心(真言密教としての一心)も取り込み、能忍→栄西→円爾の弁証法的展開というべきものであったことを論じた。
第二章・第二節では、勢いをもって勢力を広げた円爾の禅宗に対する他宗の反応を四例ほど試みた。良遍は『真心要訣』で一心を清浄心、真如などに置き換えながら禅の思想が法相宗と同じであるとし、証定は『禅宗綱目』で師の明恵の華厳仏光三昧を円爾禅と同化させ、頼瑜は『顕密問答鈔』で有相無相による四重秘釈を用い、あるいは空海の引用を用いて一心の否定を行い、禅が密教にまったく及ばないことを述べた。道元は『正法眼蔵』で直接的には自身に投下した達磨宗門下のために達磨宗批判を行ったが、霊知(=一心)を否定し円爾とは袂を分かつことになった。以上のように円爾の聖一派に対して同化しようとする動きと敵対する動きがあり、これらは聖一派の勢力が急速に広がっていったことの証拠でもあり、また肯定・批判の両方向からの動きがさらに聖一派の勢いを増すことになったと考えられる。
第二章・第三節では、栄西著といわれてきた禅密一致を唱える『真禅融心義』が栄西ではなく、高野山の禅密道場である金剛三昧院関係の法燈派の心地(無本)覚心の一派によって著された蓋然性が高いことを証明した。また、本テキストで論の軸として使われる有相無相による四重秘釈が頼瑜の考案したものを推し進めた形であることから、本テキストが前節で扱った頼瑜の『顕密問答鈔』に対する反論である可能性が高いことを論じた。また、『真禅融心義』の禅密一致は道範→円爾→頼瑜と禅密関係について語られてきた一連の思索を真言密教の立場から一致という形でまとめることになった。
第三章では、第二期までにある程度浸透した聖一派の禅を次世代にあたる円爾の弟子たちがいかにとらえていったかをみた。白雲慧曉は『由迷能記』で機根の低い衆生には阿字観を勧めて禅の修行僧とは与える法を違え、痴兀大慧は『十牛訣』で教禅の関係を教から禅への段階的発展とするものの自分の属する宗などで最高位の境地に行くために禅が必要であるとし、高い境地にあれば禅を実践する必要はないとした。無住道暁は『聖財集』で真言密教的価値観の元に禅・密教・浄土の三つを中心にそれらの共存をはかった。禅密一致は『真禅融心義』の影響もあると考えられる。彼等に共通しているのは、他者や他宗・他教とのより融和的な関係を求め、結果として慈悲や利他が生かされることになったことである。円爾の活動により禅がある程度まで行き渡り、一向宗や禅宗の放下僧などの造悪無碍なる行為が問題となっていたことがその背景にある。他者や他宗を一方的に批判したり、無関心であったりするだけでは許されない時代にきていた。
以上より、各々の僧侶が自己の立場と時代の中で個々の思索を巡らしながら、自己の論を打ち出し、そしてそれらが影響を及ぼしあいながら兼修的な方法で禅仏教の広がりを生んでいった一連の流れが窺える。それは、決して顕密体制論以前に考えられていた劇的な革命的変革ではなかったが、禅仏法が覚阿の時代から鎌倉後期にわたってゆるやかに一歩一歩浸透していったと考えるのがごく自然である。時代の変化に奔走されながらも、結果的にはより多くの衆生を救いより正しい方向に導くという仏教の原則的な慈悲や利他の精神にのっとっていくことになった。
では、それは黒田の言うように「顕密体制の改革派」という範疇に収まっていたかというと達磨宗を考えれば答えは否ということが分かる。黒田は能忍(達磨宗)を扱ってはいないが、能忍は法然と同じ別所聖の系統であり、黒田説に基づけばおそらく異端派になる。その達磨宗を円爾は修正しながら受け継いでいるわけであるから、顕密体制というシステムそのものが禅宗の思想発展については成り立たない。また、黒田は第三期に浄土宗や禅宗がある程度社会に定着したのは、異端派の勢力拡大によって境界線が弛緩し、顕密体制と異端派の境界線が曖昧になったためとしたが、禅宗発展の場合は、個々の僧侶達の知的格闘による思想的連鎖がなされることにより社会に浸透していった部分が大きかったと言える。
末木文美士が最近になって中世仏教の新しい総括モデルを提示した。中世前期は顕密仏教を中核としながら、その周縁に禅・浄土などの新しい運動が形成され、中世後期になるとすでに禅・浄土などが実質的な社会勢力となり、それらを認めた上で周縁が自立し、顕密の中核性が成り立たなくなり、顕密・禅・浄土などの主要な仏教の流れが並存する状況が生まれたのではないかという説である。私の現段階の力量では全体像を打ち出すまで至らないので何とも言えないが、本論文の結論もそれに連なるものである可能性もあるとは考えている。


黒田俊雄[一九七五]『日本中世の国家と宗教』
末木文美士[二○○八]『鎌倉仏教展開論』三~一○頁。

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