レフ・トルストイの作品における意識の境界状態の心理描写

覚張 シルビア

本論文の目的は、レフ・トルストイの作品における「意識の境界状態」の描写に、より深く新しい意味を見出すと同時に、自然状態と社会状態を対比的に捉えるルソーの自然観という一つの総合的視点を提示することで、これらの描写の関係を再構築することである。
レフ・トルストイが描く主人公達は、様々な契機によって精神的転機を迎える。こうした主人公達の経験する精神的変化は、多く研究の対象となっており、精神的危機が起こる原因、また、それが人格に及ぼす影響については、研究の蓄積がある。これらの先行研究において、アンドレイ公爵の死のあり方、カラターエフとの出会いがピエールに及ぼす影響については、必ずといっていいほど言及されている。特に、夢に関する研究においては、ピエールの見る「水滴に覆われた地球儀の夢」、アンドレイ公爵が譫妄状態において見る「空気でできた建物」といった抽象的な形象が引き起こす精神的変化にも注意が向けられる。しかしながら、「地球儀」や「建物」といった象徴的形象の意味については十分な分析が成されていない。また、死を前にしたアンナ・カレーニナの意識の異常性についてもしばしば触れられ、支離滅裂な思考の跳躍という全体的な特徴は指摘されるが、何故、このような思考の跳躍が起こり得るのか、このような意識の混乱が、いかにしてアンナを死に導くのか、という視点が欠落しているように思われる。これらの場面は、主人公達が、現実に死に直面している場合だけでなく、仮想の死の場合でも、精神的次元において生と死の境界に立たされる、という点で共通する。そうした観点から、本論では、精神世界において、生から死、または、死から生へと移行するプロセスを「意識の境界状態」と呼ぶ。
トルストイの作品において描かれる様々な意識の境界状態の描写は、互いに連想作用を引き起こすが、これまでのトルストイ研究において、このような場面の分析はイメージによる分析の域を出ていない。こうしたことをふまえ、意識の境界状態の描写の場面を詳細に分析し、個々の記述を全体的に合理的に捉えることのできる、新しい一貫した総合的視点を提示する必要があると考えた。
トルストイは、しばしば対比的描写に訴えるが、対比されるのは、田舎と都市、自然的本性に従って生きる者と文明化する社会に適応して生きる者というように、一種の自然状態と社会状態である。トルストイはルソーの自然観の影響を受けているが、自然状態と社会状態を二項対立的に捉える世界観は、トルストイ自身のうちに内在していたともいえよう。
意識の境界状態においては、社会状態から解放された自然的本性が現れる場合、主人公が宇宙の秩序ともいうべき一種の自然を理解する場合、また、自然的本性が社会状態の影響下に入り、一時的に失われる場合がある。このように考えると、意識の境界状態は、単に意識の転換期や精神的危機であるばかりでなく、自然状態と社会状態の葛藤の場であるとも考えられよう。
トルストイ自身の言説によれば、自然状態とは、誠実、調和、真実、美、善であり、社会状態とは、調和を侵害するもの、文明、虚偽、悪、学問、芸術、贅沢や無為だということができる。さらに、至高の法則とそれに合致する精神的本質もまた、人間の外面と内面にそれぞれ存在し、互いに融合する自然の顕現であるということができよう。
これらの諸要素が、登場人物のうちにいかに顕現するかを究明することで、自然状態と社会状態がいかにして意識の境界状態を生み出すか、或いは、意識の境界状態が生じる時に、これらの状態がいかに作用し合っているかを知ることができる。トルストイは、ルソーと違い、必ずしもあらゆる社会状態・文明を否定的に捉えているわけではないが、分析に際して、作家の文脈において変化するもののうち、肯定的なものを「自然」、否定的なものを「非自然=社会」という枠組で捉えていく。
第一章では、夢や精神的混乱が引き起こす精神的危機・転機に焦点を当てた。『幼年時代』において、主人公の少年は二度の覚醒に際し、カルル・イワーヌイチや扶育係ニコライの影響下で憎しみや想像上の悲しみという感情から解放され、本性としての自然を回復する。これらの覚醒の場面では超越者の存在が感じられ、「神」、或いは外界の秩序としての自然が本性としての自然を覚醒させたということができる。他方、社会状態に適応して生きるオブロンスキーの内面世界は、外部の影響をほとんど被らない。彼の覚醒の場には、自然の秩序を感じさせる超越者の存在もない。『狂人日記』の主人公は、他者との分断の意識によって象徴される社会状態にあったが、その状態に恐怖を抱くことで、周囲と融合する可能性を得た。『復活』においては、過去の記憶が、社会状態に適応したネフリュードフに自然的本性を取り戻した。アンナ・カレーニナは社会状態のリズムから脱落したものの、神の秩序としての自然のリズムに適応することもできず、必然的に死へ向かう。
ピエールが見た「水滴に覆われた地球儀」の夢では、個人が他者と融合し、中心の神を通過して再びこの世へと浮かび上がる。ここでは、人間の本性としての「自然」と神に近い「自然」との融合が起こっている。また、この描写には、人間が自然状態から社会状態へと移行する過程も含まれる。ピエールは、その善良な性質にもかかわらず、周囲から孤立した自然人であったが、カラターエフとの出会いによってその孤立性は失われた。捕虜から解放された後のピエールは、周囲の人々を魅了する存在になったばかりか、それまで彼に敵意を持って接していた公爵令嬢にまで愛されるようになった。これは、ピエールのうちにあった自然人特有の善性が社会性を帯びたためと考えられる。ピエールは農民出身の「自然人」と出会うことで、自然的善性をより高次のものへと昇華させたのである。
第二章では、生から死へと向かうプロセス、女性登場人物における精神的死と復活、同時代作家であるチェーホフとドストエフスキーの描く意識の境界状態を取り上げた。ピエールの地球儀の夢では生と死の連続性があったのに対し、アンドレイ公爵が広大な生の一部となるためには、地上における個別の生から解放されねばならない。アンドレイの幻覚には生と死の境界を示す扉が現れるが、これは死によって自然状態に近づくには社会状態との断絶が不可欠であることを示している。イワン・イリイチは、長い間社会状態に浸かっていたため、自然の力に対する抵抗が死との積極的な闘いとなって現れた。
『イワン・イリイチの死』には、日常性と悲劇性が共存しているが、その点において共通するチェーホフの描き出す意識の境界状態にも目を向けた。トルストイの作品において、死は、不可思議なイメージとして登場する。生と死は闘い、その争いに人間は積極的に参加するが、チェーホフの作品において、死は、人間が受動的な役割を担うに過ぎない日常的なプロセスとして表現される。ドストエフスキーの『主婦』では、意識の境界状態が、現実世界に次元の異なる空間が現われることによって生じている。主人公のオルドゥイノフは、トルストイの主人公達のように、新たな世界との接触により人生を捉え直すことをしない。自身の内面に創り出した異世界からも追放され、現実世界において自身を位置付ける視点も欠落している。現実世界や他者との接点を持たぬまま神との融合を求める姿勢も、トルストイの主人公とは対照的である。
トルストイの描く女性登場人物達は、精神的な死と復活を体験する。ナターシャは、アナトールと出会うことで一時的に社会状態に適応し、自然的本性を失ったようである。しかし、それによって彼女の社会的側面は崩壊し、自然的本性が残された。カチューシャ・マースロワは、社会状態に適応したネフリュードフによりその善性を破壊される。しかし、すでに存在していた精神的基盤により、この自然的本性は回復することになる。ナターシャとカチューシャは、精神的な死を経た後、周囲と融合する可能性を獲得する。それは、ピエールの「地球儀の夢」の水滴が、表面で姿を消した後、神を通って再び浮かび上がる時に、その価値を倍増させる過程と重なり合う。彼らが精神的な死に際して、自身の内奥へと深化することによって得られたものは、その後放射され、周囲の世界へと伝播していく。一方、アンナにおいては、自己の内部への深化、神の方へと向かう動きが、社会の個人への深化という形で起こっている。その後、内部から外部への放射は行われず、それゆえ周囲との断絶を余儀なくされた彼女は、肉体的な死を選んだ。ナターシャにおいては、本性としての自然が周囲の人々のうちにある自然的本性と、さらには神としての自然と融合する。それは、ナターシャの精神的復活の直接的な契機を作った祈りの場面で、豊かな意味を持つロシア語の「ミール」という概念が変容するプロセスに見出すことができる。
夢や肉体的・精神的死、という特殊な状態でなくとも、精神的危機が生じることはある。第三章では、こうした平常的状態における非平常性を取り上げた。ピエールは、作品に登場した時点で自身の自然人的本質を顕現しているが、彼は、周囲から社会的に規定された生活に違和感を覚えている。彼の自然的本性は、常に社会状態の抑圧下から逃れようとする欲求に満ちている。バズデーエフは、一つの宇宙的秩序を示すことで、ピエールの自然的本性に束の間の出口を与えることになった。アンドレイ公爵は、ナターシャのうちに存在する自然的本性と接することで、他者との関係を渇望し始める。彼のうちに潜在的に存在していた自然的本性が目覚め、より大きな自然的秩序との接触を必要としたのであろう。新たな生が象徴するのはこの目覚めである。『アンナ・カレーニナ』と『コサック』には、ルソーの『孤独な散歩者の夢想』において主人公ジャン=ジャックが経験するような自然との交感の描写がある。レーヴィンやオレーニンは、自身を社会的環境から自然環境に移すことで、内部にある自然的本性と外部にある自然ともいうべき神との合一を経験する。
このように、自然観という視点を導入することで、トルストイの作品のうちに、相互に共鳴し合いながら散在する意識の境界状態の描写の関係を、新たに捉え直すことが可能となるのである。

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