メルロ=ポンティにおける〈存在〉の構造―「奥行き」と「同時性」の概念の展開を手がかりに―

川瀬 智之

本論は、「奥行き」と「同時性」の両概念の絡み合いとその展開を辿り、またそこで彼の芸術論の果たした意味に目を配りながら、メルロ=ポンティの晩年の概念である〈存在〉を理解し、彼の思想の展開の意義を明らかにする。
「奥行き」と「同時性」の両概念は、彼の思想において一貫して互いに密接な関係にあるものとして考えられている。本論第1章では、1940年代の『行動の構造』、『知覚の現象学』を中心とした初期の思想を扱う。そこにおいて、メルロ=ポンティは、距離の意味での「奥行き」の経験を重視している。メルロ=ポンティは、「奥行き」は一挙に、しかも考えることなしに知覚されると考える。彼は、奥行きを持った対象や遠くにある対象について現在なされる知覚には、過去や未来にその対象の傍でなされる知覚が含まれていると言う。「奥行き」の知覚が可能なのは、現在の知覚のうちに、対象についての過去や未来の知覚が「同時」的に含まれているからである。ここに「奥行き」の概念と「同時性」の概念の結びつきの一つが見られる。メルロ=ポンティにとってセザンヌの絵画は、こうした知覚のありようを如実に示すものとして重要な意味を持っている。
さらにメルロ=ポンティは、これらの著作において、もう一つの「奥行き」の概念を用いている。それはヘーゲルの『歴史哲学講義』に由来するもので、現在の経験のうちに、過去の経験が失われずに残存し、その一部としての意味を与えられていることを指す。たとえば物理的システムから精神に至る弁証法において、現在の精神は、それに先立つ過去の過程を含んでいる。これは空間的な意味での「奥行き」とは異なった意味での「奥行き」である。過去に起こったことは起こったということを止めることはできず、未来のための基盤となりながら、新たに生じた全体の一部としての位置を得る。それは、現在が「奥行き」を「同時性」において持っているということである。
この二つの用法における「奥行き」は、『知覚の現象学』の知覚の時間過程についての議論において接点を持っている。知覚対象の「奥行き」が一挙に知覚されるのは、その対象について現在よりも前になされた知覚と、後になされる知覚が、現在の知覚のうちに同時的に含まれているからである。そして、これが可能なのは、過去に関する限りでは、知覚過程において現在の知覚が過去の知覚を「奥行きのうちに」含んでいるからである。その点で二つの「奥行き」概念は、「同時性」概念を媒介として接点を持っている。
第2章では、1950年代前半の「制度」論を扱う。そこにおいて、メルロ=ポンティは、過去の行為のもたらした結果のことを「制度」と言う。それは、より新しい行為の出現する場を開き、またその新たな行為によって捉えなおされ、新たな意味を与えられるものである。たとえば、人生の或る時期に抱いた感情は、後に同種の感情が抱かれたときに、後者の感情を準備していたものとしての位置付けを与えられる。或る絵画作品の一部に用いられていた筆づかいとしての様式は、後の絵画作品の出現によって、その様式を持っていたものとして新たにクローズアップされ、それら過去の絵画と新しい絵画は、相互的な関係のうちに位置付けられる。言語の領域においても、過去の哲学は、新たな哲学によって新たな全体の部分としての位置を与えられる。メルロ=ポンティはこの「制度」においても、現在がそのうちに過去を「同時」的に「奥行き」として含むという構造があると考える。それは、1940年代の著作における、現在に先行する過去としての「奥行き」とそこにおける「同時性」の概念が拡大されたものである。
第3章では、メルロ=ポンティが1950年代後半に行った一連の思想史講義を扱う。それらの講義において、彼は、「制度」論を、〈存在〉、〈自然〉といった概念に結び付けている。シェリング論においては、現在の見える世界に対する源という意味での過去でありながら、なおも存続している〈自然〉、〈存在〉としての「野生の原理」が、反省に先立ち、その根底に見いだされる知覚世界として捉えなおされる。同講義のベルクソン論においては、〈自然〉、〈存在〉としての持続において現在は過去を含んでいるということが、「制度」の議論と結び付けられている。またハイデッガー論においては、忘却されつつ現在の思考の枠組みを形成し続ける〈存在〉が注目され、「制度」論の理論的枠組みが、より明確に〈存在〉の概念に結び付けてられている。このように、1950年代前半の「制度」論から、後半の〈自然〉、〈存在〉の概念を思想史のうちに探る作業に至るまで、メルロ=ポンティの思考を導いていたのは、ヘーゲルに由来する、現在のうちに含まれる過去としての「奥行き」の概念であった。これらの思想史講義の過程を経て、メルロ=ポンティは、自らの議論を展開させていく。
第4章では、「肉」の概念を中心に、晩年のメルロ=ポンティにおいて、見るということがいかなることとして考えられているかを論じる。晩年のメルロ=ポンティが1960年に執筆した「眼と精神」において、物は高さや幅、距離といった諸次元以前の根源的な空間経験としての「奥行き」において知覚される。それはその対象についての、両立しえない様々な視覚が「同時的」に共存することによって生じる知覚である。レンブラントやセザンヌの絵画は、こうした両立しえない視覚の同時性において生じる、嵩としての「奥行き」の経験を描き出したものとして捉えられる。ここでは『知覚の現象学』とは違って、「奥行き」と距離とは同じものと考えられていない。さらに、「眼と精神」の執筆を挟んで書き継がれていた著作『見えるものと見えないもの』では、見る者も、見えるものの背後の「奥行き」のうちに含まれると言われる。これらの記述の意味するところは、「肉」、〈存在〉の概念の検討によって理解される。
見る者と見られるものとは、ともに、感覚することのできるものとしての「肉」である。見る者の行う知覚は、過去や未来、他所で知覚されるものとの弁別的関係によって知覚される。その意味で、現在の見えるものは過去や未来、他所の他のものと同時的である。
第5章では、〈存在〉の概念と、そこにおける「奥行き」、「同時性」の問題を論じる。メルロ=ポンティは、プルーストの小説を参照しながら、かつての知覚経験が残存し、それとの関係で現在の知覚が生じることを論じる。この議論は、かつて個人的あるいは公共的歴史について語られていた「制度」を、プルーストを介して知覚の場面に応用したものである。知性の対象となる純粋な理念も知覚から生じる。〈存在〉とは、感覚的なものとしての「肉」と、知覚によって生じた諸理念を含むものである。メルロ=ポンティが、知覚される対象の背後に「同時的」にある「奥行き」として考えているのは、この〈存在〉全体のことである。知覚者も「肉」であるからには、この〈存在〉に属している。したがって、対象を見る者の身体も、「奥行き」に含まれることになる。そして「眼と精神」における「嵩」としての「奥行き」と、『見えるものと見えないもの』における、見えるものの背後の〈存在〉としての「奥行き」は、個々の事物が〈存在〉の原型であることによって、密接に関わっている。
このように、メルロ=ポンティの著作において「奥行き」と「同時性」の概念は、彼の思想のうちの、二つの流れに属している。その一つは制度や歴史に関わる流れであり、もう一つは空間の知覚に関わる流れである。この二つの流れは互いに比較的に独立しながらも、交錯し、絡み合っている。
これらの流れとその絡み合いを辿ることによって、意識や身体に関するメルロ=ポンティの思想の変化が浮かび上がる。『知覚の現象学』において、現前野における近いものと遠いものの関係は現在と過去や未来との関係に重ね合わせられており、「同時性」は時間的であるとともに空間的でもあった。晩年の思想においても、「同時性」の問題を「奥行き」に関連付けて語るという点では変わっていない。だが、『知覚の現象学』における「奥行き」と「同時性」に関する議論、とりわけ知覚の場面におけるそれらの概念は、身体を中心に組織されるものとして考えられていた。さらに、その身体の背後に意識が控えているような記述も見られることから、『知覚の現象学』の議論は、結局は意識と対象の区別に基づいたものであったと言うことができる。これに対し、晩年の思想においては、身体は、「奥行き」に含まれるものとなる。これは、身体を起点として「奥行き」を考えていた『知覚の現象学』とは、身体の位置付けという点において大きく異なる思考である。「同時性」も、身体を前提とする直線的な時間の図式において考えられるものではなくなっている。かくして、メルロ=ポンティの思想の展開の全体を、意識の哲学からの脱却の過程として考えることができるのである。

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