大正期日本における合理主義と救済 1918~19年のキリスト再臨待望運動の「厚い記述」

ゾンターク ミラ

再臨運動の厚い記述を
大正期の時代精神の特徴の一つとして、合理主義に対するものとしての(あらゆる意味での)救済への希求が強まってきたということが挙げられる。この当時、思想、文化、宗教の各方面において、合理性と精神性(霊性)との緊張関係が浮上してきた。再臨運動はこうした時代精神の産物であって、またそれを劇的に表現した事象でもあった。しかし、こうした文脈における再臨運動の意味はまだ解明されていないので、言説理論を受け入れながら学際的アプローチを通じてこの運動にいわゆる「厚い記述」を施してみた。

研究に対する問題意識
再臨運動を言説として分析することにしたが、それは、ビューラーが指摘した言語の三機能を、命題の内容と形式に注意しながら、その命題において探求することを意味した。その場合、本稿前半の理論に基づいて、1)言語学が指摘した発語内行為、2)哲学が指摘した権力構造とその構造における規範の妥当要求の役割、3)心理学が指摘した言説におけるそれぞれの活動主体の自我理想(支配的シニフィアン)と欲望、に注目するように努力した。それ以外に、私は、社会科学において指摘される「内在/超越」という宗教の機能システムのいわゆる「暗号」(code)および神学的言説理論の立場から提案される「神」という「スーパー・サイン」を念頭に置いて、再臨運動を分析しながらそれらの理論の妥当性も問うた。再臨運動の「すべて」については到底論じることが出来ないので、本稿においては、3人の中心的活動主体(内村鑑三、中田重治、木村清松、また特に彼等の相互作用)と運動の第1時期に焦点を当てて分析を行った。その際、認めるべき点においても批判すべき点においても、3人を平等に扱うことに努力した。(だが、この要旨では内村研究としての成果をまとめる。)

再臨運動時代における内村の救済論
内村は、1915年の文章が見せるように他力信仰を得心したけれど、大衆伝道に出かけるには、一面的な他力信仰ではなく、自力と他力のバランスの取れた信仰が必要であった。自力と他力のバランス(滝沢の「不可分・不可同」で現される自他区別の超克)を得てから初めて内村は、彼の性格にあった「抑圧的感覚の強い責任感」を生かすような愛のメッセージ、大衆伝道を必要とする純福音に勇気づけられて再臨運動を発足することが出来た。こうした自力と他力のバランスが取れた武士道的キリスト教は、再臨運動渦中における内村の救済論の心理的事情を示している。さらに言うならば、自力と他力の側面は内村の中で、「自然科学的世界観」と「宗教的世界観」との緊張関係と相重なって現れた。再臨運動時代の内村は、信仰と「真」の進化論(内村が言う突発論)の両方を統合させた暗号として、「再臨」を捉えている。このように、心理と認知との絡み合いから、内村の再臨信仰とそれに対する伝道精神は生み出された。
内村にとって進化論は、世の出来事に意味付けをする原理(ルーマンが言う暗号)としての機能を果たせなくなってしまった。そこで新しい暗号を手に入れるまで内村は暫く深い悩みを味わった。学者としての自己理解を抱いた彼は、自分の世界観の整合性を何としても求めていたからである。内村が「再臨」を、その解決・活路として発見したのは1916年であるが、彼がそれと同時に「突発論」に辿り着いたのかどうかは判定できない。しかし、その後内村は、再臨を突発的出来事の典型と見て、自分の人生に起った、若い内村をかなり傷付けたと思われる出来事(不敬事件等)までも意味づけることが出来た。このように、内村は自分の人生と信仰に「再臨」という暗号を導入し、それによって、宇宙の中の自分が現世において不完全な生命しか与えられていないにも拘らず、来世の栄光の生命を受けるべき自分を信じた。
上述したような心理と認知の面における発展の結果として、内村は再臨運動を起し、運動の第1時期において働いたのだが、実は、彼が講壇に立つ瞬間に、彼の救済論に別の要素が現れてくる。それは、内村の公的な再臨主張は、同時にキリスト教界と社会における権力構造から踏み出して発言出来るものではなく、むしろ、余りにもその権力構造によって影響されたものであった。それゆえ、内村の救済に関する新しい認識は言わばやむを得ず、当時の権力構造において特定の役割を果たすようになった。再臨主張は、「教会の中に救済はない」主張として、当時の主流教派の衝撃となったと同時に、内村自身にとって「教会との完全な分裂」が一種の救済となった。
内村の再臨信仰そのもの、また彼の手によって発足した運動は、しばしば自明とされる第1次世界大戦を背景に世界中で起った信仰復興運動あるいは神の国運動の単なるコピーではないことが明らかにされた。しかし、実は、一応特有の再臨理解に達した内村は、柏木の火事において「火のバプテスマ」を受け、中田と交わり始め、中田や(後ほど)木村との談話、共同の講演会を経て、二人から学んだことも多かった。

再臨運動と大正期の時代精神(合理性、救済、そして生命)
再臨運動の推進者の再臨主張は、一方、漸次的な発展という進化論的原理の廃棄と、他方、制度的キリスト教無用の主張と繋がっていたが、進化論は、近代日本の合理概念を全面的に支配した故に、漸次説の進化論の廃棄は、直ちに当時の合理性理解(とそれを基盤とする合理主義)の批判・廃棄ともなるはずであった。しかし、資料を丁寧に読めば、再臨運動の推進者たちは同時に別種類の合理性––本稿において仮に「合信仰性」と呼んだもの––を主張したことが分かる。つまり、彼等は、偏狭な合理主義を非難し、「俗化した」目で不可視的な発展、つまり「霊的」とされた発展をも考慮に入れた、あるいはそうした発展を世界の進化過程の「真」の基盤とする、人間の心身をその全体性において把握しようとする「新合理性」を要求した。「新(・)合理性」を要求したという点において、再臨運動は、大正期に数多く起った、一層霊的な(spiritual)生活を探求する新たな(alternative)運動の一つであった。
さらに、再臨運動の合理主義批判は、ルーマンが述べる「オートポイエーシス」における一つの是正処置としても理解できるということである。それは、実存との接触を失った合理主義への批判でもあったので、再臨運動の推進者たちは同時に、「合理性」を人間の日常生活における実験、つまり人間がその「感覚器」を通して実感できる実存と再び接触させることによって、人間の思考、そしてその合理性理解に必要な訂正を行おうとしたと言える。再臨運動の推進者たちは「実存」と繋がる「信仰の原点」(=純福音)を何よりも重視したが、それが彼等の「究極的な関心」(ultimateconcern)であったというふうに誤解されやすい。そうではなかったことは、実は、再臨をめぐる言説の重要なポイントなのである。再臨運動は、信仰の原点を検出するためにではなく、「道徳の大革命」のために、つまり、存在論的な(ontological)言説ではなく、規範的な(normative)言説であった。大正期の人々の道徳心に不満を感じた彼等は、再臨の主張によってそれを改善しようとした。主流教派と衝突した理由は、両方とも同じ「道徳心の改善」を目的にしながらも、いわゆる方法論において一致しなかったからである。
そして、再臨運動の推進者たちは、大正期の主流の「合理性」理解をその「新合理性」(私が合信仰性と呼んだもの)によって批判したが、「生命」理解の場合にも、流行した「生命主義」の代わりに「新生命」として「永生」を勧めたのである。

日本における言説としての再臨運動の特徴
最後に内村の思想と言説理論との関係に関する一つの発見を述べることで論稿を終えた。そのために、内村の「真理の三つの証言者」という発想に戻った。内村はこの発想を、新島襄宛の手紙の中において「聖三位一体と並んで存在する三位一体」(atrinitybesidestheHolyTrinity)として説明した。ここで「人間」とされた要素は、場合によって「歴史」とも呼ばれるが、それは「人間」に「時」という要素を加えたことである。内村のこの三位一体論を言説理論が基盤としているビューラーのオルガノン・モデルと比べると、次のことが明らかにされた。
内村が真理の証言者とした「聖書」、「人=歴史」と「天然」とは、言説理論のモデルにぴったり入るものである。内村は、さらに人と人の間に起る(規範的な)コミュニケーションをある時点に起る出来事としてではなく、時間の流れそれが歴史的コミュニケーションになってから、つまり歴史が真理の証言者となると言う。そして、天然と人=歴史を考え合わせなければ、聖書が理解不可解な書であるのと同様に、天然と人=歴史は聖書を考え合わせなければ不可解であるとした。しかし、こうした三つの証言者は、お互いに証言することではなく、三つ共合わせてから初めてその裏(内村の言い方では、その内)にある「真理」を証言できる。内村のこの発想を図式的に見ると、それはルーマンのいう意味における本当の宗教的言説であることが分かる。即ち、内村はここで徹底した「内在/超越」暗号に基づく理論を建てている、その特徴は、超越的真理は、人間界を外から観察するような「第三者」ではなく、我等人間と宇宙の最も内なる所にある真理として見られるということである。内村のこの発想に基づく真理の言説理論的理解のさらなる分析は、神学における言説理論的なアプローチに貴重な指摘を与えることが出来よう。

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