本論文の目的は,中華人民共和国,青海省海南チベット族自治州,共和県で話されているチベット語アムド方言の共時的な音韻,文法を記述することである.
アムド方言は,チベット文化圏の東北部にあたるアムド地方で話されている.アムド方言は,中央方言,カム方言とならび,中国国内のチベット語3大方言の1つであり,約80万人の話者を有する.
チベット語は,方言差,下位方言差が著しい.アムド方言においても,下位方言間に言語的な差異がみられるが,アムド方言の下位方言はいまだに十分整理・研究されていない.先行研究と筆者の調査結果をみるかぎりでは,アムド方言のそれぞれの下位方言では,特に音韻面の差異が大きい.一方,異なる地域出身のアムド方言の母語話者同士であっても,それぞれの話者が,出身地域のアムド方言を用いてコミュニケーションすることが十分可能であることからも,文法面の差異はそれほど大きくないと思われる.

本論文ではアムド地方の1地域に調査・考察範囲を絞ったものの,特に文法面の記述は,他のアムド方言の下位方言を記述する際にも参考になると考えられる.
本論文は,本論と附録からなる.以下に,[1]本論と[2]附録の内容の概略を述べる.

[1]本論
本論は8つの章から成る.
第1章ではチベット語の概要を示す.§1.1「チベット語の系統」,§1.2「チベット語使用地域の地理および方言」,§1.3「チベット語の使用人口」,§1.4「チベット語の類型」,§1.5「文字」,§1.6「数字」,§1.7「チベット文語の伝統文法」について述べる.チベット語の基本情報や諸特徴を概観することで,アムド方言の位置づけを明確にする.
第2章ではチベット語アムド方言の言語とその話者について述べる.§2.1「アムド方言の話される地域」,§2.2「青海省の歴史」,§2.3「アムド方言の話者数」,§2.4「アムド方言の下位分類」,§2.5「アムド方言に関する先行研究」,§2.6「本論文で扱う言語とその話者,地域」,§2.7「言語資料」,§2.8「言語使用状況」,§2.9「言語接触」,§2.10「言語名と民族名の自称,他称」について述べることで,アムド方言のおかれている状況,本論文で扱うデータがどのような性質のものなのかを明らかにする.
第3章では音韻論を扱う.§3.1「音素の設定」と§3.4「音素の音声的な実現」,「音節と語の中における音素と音素の組み合わせ(phonotactics)」(§3.2,§3.3,§3.5,§3.6)について述べ,さらに,§3.7「音韻的なプロセス」,§3.8「スタイルによる音韻の違い」,§3.9「音声的な特徴」,最後に,§3.10「形態音韻論」について述べる.
第4章では品詞分類と各品詞の特徴について述べる.最初に,§4.1「自立語,接語,接辞の分類」,§4.2「語の品詞分類」の概略を述べる.その後,各品詞について詳しい解説を行う(§4.3,§4.4).品詞分類には,形態的な特徴と統語的な特徴をあわせて記す.特に,助動詞については,先行研究に不足している詳細な記述を行った.
第5章は形態論を扱う.名詞(§5.1),代名詞(§5.2),形容詞(§5.3),数詞(§5.4),動詞(§5.5)の5つの品詞が,それぞれどのような形態的操作を受けるのかを説明する.語形成の手段には,(i)屈折,(ii)接辞付加による派生,(iii)重複による派生,(iv)複合による派生がある.

第6章では統語論を扱う.句(§6.1),節(§6.2),文(§6.3)の種類と,それぞれの単位の中での構成要素の順番(§6.4)について述べる.特に,先行研究が詳しく扱ってこなかった,複文(§6.5)については詳細に考察を行う.
第7章はアムド方言の中の特殊な語彙を扱う.具体的には,§7.1「親族名称」,§7.2「色彩語彙」,§7.3「人名」,§7.4「誓いの言葉」,§7.5「家畜の呼びわけ」,§7.6「借用語」について述べる.
第8章ではアムド方言の中にみられる言語の各位相について扱う.具体的には,§8.1「敬語」,§8.2「文語スタイル」,§8.3「フォーリナートーク」,§8.4「ベイビートーク」,§8.5「性別によるスタイルの違い」,§8.6「ボディーランゲージ」について述べる.

[2]附録
附録には,ロチ氏(テキスト1)とアラック・ジャイ氏(テキスト2)の1人語りのテキストを1編ずつと,共和県のなぞなぞ,ことわざを収録した.